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五臓六腑

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鬼の休息



「――クロちゃん、クロちゃん! 大丈夫!?」
「……おや、スミレ?」

 グラディアトリアの四大公爵家の一つであるリュネブルク公爵邸は、帝都の南西の位置にあり、かのレイスウェイク大公爵邸から見ると王城を挟んで対角上、最も離れた場所に立っている。
 リュネブルク公爵家の現当主は、現皇帝の腹違いの兄にして国家宰相を務めるクロヴィス氏であるが、彼は王城にも部屋を持っているため、私邸に戻るのは月に二,三回程度。
 先代のリュネブルク公である母方の祖父が存命なので、邸宅の管理はほぼ彼や古参の使用人に任せっきりだ。
 そんな、普段は滅多に滞在しない我が家に当主が居る日、これまた滅多にない客人がリュネブルク家を訪れた。

「クロちゃんってば――鬼の錯乱っ!」
「それを言うなら、“鬼の霍乱”ですね。まあ風邪ぐらい、たまにはひきますよ」

 この大陸ではまたと見ない黒髪をふわふわさせてやってきたのは、リュネブルク公爵の敬愛する兄レイスウェイク大公爵の寵愛を独り占めしている奇跡の少女。
 泣く子も黙るの宰相閣下の寝室のドアを、小ちゃな足でドカンと蹴り開けて入ってきた彼女は、ラフな部屋着でベッドに起き上がって本を読んでいたクロヴィスの元まで、ぴゅうと走り寄って来た。

「最近忙しかったようだからな。ゆっくり身体を休めるいい機会になったのではないか」
「ああ、兄上。――わざわざ見舞いに来て下さったのですか?」

 妻が開け放した扉を悠々と潜って後から入ってきた兄は、慌ててベッドから立ち上がろうとする弟を手で制し、その脇に張り付いていた少女を捕まえた。

「せっかく来ていただいて申し訳ないですが、風邪をうつすといけないので離れていて下さいね」
「大丈夫、鬼さん」
「……誰が鬼さんですか。大丈夫とは、何を根拠に」
「それ、私発信の風邪だから」
「……ああ……なるほど」

 確かに、彼女――菫も一週間程前に風邪をひいて、三日ほど熱で臥せっていた。
 ちょうど所用でレイスウェイク家を訪れたクロヴィスはそれを見舞い、心配性な夫であるヴィオラントにベッドに軟禁されて退屈していた彼女と、ついつい話し込んで長居をしてしまった。
 皇族一家は揃って身体が丈夫に出来ていて、並大抵の病原菌にも、ついでに一通りの毒物にも耐性を持っていたりするのだが、ここ数日副官が家庭の事情で長期休暇をとって特別忙しかったクロヴィスは、おそらく疲れが溜まって抵抗力が落ちていたのだろう。その後、数週間ぶりに帰った私邸で発熱し、今に至る。

「ごめんね、クロちゃん。宰相様をダウンさせて、私威力業務妨害で怒られる?」
「何おかしなこと言ってるんですか、誰もあなたのせいだなんて言いませんし――言わせませんよ」
「でも、私のがうつったんだよぉ。大人になったら熱ってしんどいんでしょ? ごめんね……」
「……そうだとしても、もうすっかり下がりましたし、何も問題はありません」

 菫のいつになくしおらしい態度には、調子が崩される。
 いつものように怖い物知らずで、歯に衣を着せず、無駄に尊大な彼女とのギャップに戸惑い、とにかくクロヴィスはしょぼんと可愛らしい眉を八の字にした小さな義姉に困惑した。
 彼女を子供のように腕に抱き上げた兄ヴィオラントは、相変わらず無表情ではあるが、弟にはその稀色の瞳に苦笑が浮かんでいるのが分かる。
 クロヴィスは得意の嘲笑でも冷笑でもなく、ただ柔らかく口の端を苦笑に引き上げ、やれやれと溜め息を吐いた。
 
「では、せっかく来ていただいたのですから、たまには義姉上に甘えてみましょうか。林檎を一つ、剥いて下さいますか? 小腹が減りました」
「いいよ! うさぎさんにしてあげるね!」

 クロヴィスの言葉を聞いた途端、ヴィオラントの腕の中で小さくなっていた少女はパッと顔を輝かせ、ぴょんと身軽な子猫のように身を翻すと、「手、洗って来る!」と言って駆けていった。
 ちなみに、お見舞いのお約束的定番、果物盛り合わせ籠はレイスウェイク大公爵夫妻が持参していて、その中に艶やかな赤い林檎もちゃんと含まれている。

「……いや、普通にむくだけで結構なんですが」
「クロヴィス、好きにさせてやってくれ」
「はあ……それで、スミレの気が晴れるなら」
「すまんな」

 小さな妻の姿を愛おし気に見送ったヴィオラントは、自ら椅子をひいてきて弟のベッドの脇に腰を下ろした。
 一人ラフな部屋着で、ある意味ひどく無防備な自分を恥じるように、些か居心地が悪そうにしたクロヴィスを知ってか知らずか、彼は視線を妻が出て行ったドアに向けたまま言葉を続けた。

「ミリアニスを迎えに来たジョルトに、そなたが体調を崩して療養していると聞いてな。心配した」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。もうすっかりいいので、明日にでも復帰するつもりです」
「私もだが、スミレもあの通りとても気に病んでいた。臥せっている所に押し掛けては余計に無理をさせるかと悩んでいたが、あれの顔を見て元気にならない者は居ないと思って連れてきた。私の判断は間違っていただろうか?」

 子供の頃、幾分身体の弱かったクロヴィスが寝込む度、熱に浮かされて宙を掻いた手を、兄や二人の姉達、そして父王の正妃である義母が優しく包み込んでくれた。
 大人になって、宰相となり公爵位を継ぎ、笑顔という仮面と叡智で武装した彼は、親兄弟であろうと弱い部分を見せるのを嫌ったが、けれど本当はそれがとても心地よいのを知っている。
 菫の打算も媚びもない想いが嬉しかった。柔らかく包み込むような、兄の眼差しはこそばゆかった。

「……いいえ。来て下さって、嬉しいです。兄上も……スミレも」

 とても素直な気持ちの中で滲み出た、クロヴィスの稀に見る無垢な笑みに、ヴィオラントもまた穏やかに微かに口端を緩めた。

 その後、宣言通り手を洗って戻ってきた菫の片手に、抜き身のナイフが握られていたことには一瞬ぎょっとした兄弟であるが、彼らの心配を他所に少女は器用にするすると林檎を剥き、これまた器用にうさぎさんの形に仕上げて、病み上がりの大きな義弟に進呈した。

「それにしても、クロちゃんが風邪菌に負けるとか、意外。丈夫そうなのに、心臓とか毛がぼうぼうそうなのに」
「……ふふふふふ」

 元気そうな様子のクロヴィスに安心したのか、やがていつもの調子を取り戻した菫は、当たり前のように乗せられた夫の膝の上。

「ヴィーなんか、ベロチューしても何しても、全然全く、うつらなかったんだよ」
「兄上……病人に何をなさったんですか……」
「うむ。熱に浮かされた顔が、またどうにも堪らなくてな」

 レイスウェイク大公夫妻はその日はゆっくりとリュネブルク家で過ごし、祖父である先代リュネブルク公を加えた四人で夕食をいただき、仲良く帰っていった。

 翌朝、すっかり快復したクロヴィスが登城すると、彼の顔を見た弟皇帝のあまりに無防備なまでほっとした様子に、鬼の宰相閣下はその日はいつになく、優しい気持ちで過ごしたのだった。


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