五臓六腑

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蔦姫のショコラ:後編


「特別心配することもなさそうですね。お飲みになった酒は少量ですし、軽く酔いが回っただけでしょう」

 侍従長サリバンが念のため、主人の許可を得て菫を診察した。
 顔から首筋にかけてが火照り、脈も速くはなっているが、本人は気分は悪くはないと言うし、一過性のものだろうと結論付けられた。

「ですが、スミレ様はあまり酒に強くない体質のご様子ですので、今後飲まれる時は気をつけて差し上げてほうが宜しいでしょう」
「そうだな。覚えておこう」

 大貴族の奥方ともなれば、酒の席での付き合いも持て成しも元来なら必要な仕事であるが、そもそもヴィオラントは妻にそのような役目をさせるつもりは毛頭ない。
 彼自身、舞踏会や夜会への誘いは数多あれど、出席の返事をするのは弟妹や義母、もしくは実父であるシュタイアー公爵が主催のものに限り、しかも彼らが菫に対して大公爵夫人らしき振る舞いを求めることは皆無。
 酒に弱いと知れば、無理に勧めるはずも無く、それどころかミルクだの果実水だの、頼んでもいないのに酒以外の飲み物を我先にと差し出して、彼女を手持ち無沙汰にさせないように尽力してくれるだろう。
 ヴィオラントに負けず劣らず、菫を甘やかす事においては定評のある面々だ。
 よって、彼女が無理をして酒を飲まなければならないような事態は、今後起こらないであろうし、ヴィオラントが起こさせないだろう。


 抱き慣れた華奢な身体は相変わらず柔らかく、いつものより高い体温が、衣服を通してヴィオラントの身体に染込んだ。

「スミレ、大丈夫か?」
「ん‥‥ふわふわしてて‥‥気持ちいい‥‥」

 彼は、思わず齧り付きたくなるような、甘く色付いて滑らかな頬を撫で、ふにゃんと微笑むあどけない妻の顔を覗き込む。
 明朗快活で、常々表情豊かな少女ではあるが、酒精の加わった今の彼女は余りにも無防備過ぎて、非常に危うい。
 頬を包む男の掌に擦り寄って甘える仕草は、普段の強かな小悪魔とは縁遠く、儚く従順な姿は男が理性の中に押し込めて隠している野性を呼び起こす餌となる。
 気を抜けばすぐに頭を擡げようとする欲望を振り払うかのように、ヴィオラントは菫の前髪をかきあげて、露になった額に熱の籠った唇を押し当て。

「酔いが醒めるまで、少し横になった方がよさそうだな」
「‥‥ん‥‥でも‥‥チョコ、途中‥‥‥」

 そのまま寝室に運ぼうとするが、思考を完全に酔いに支配されたわけではないらしい菫は、厨房に様々なものを放ったらかしにしてきたことを気にした。
 そんな彼女を安心させるように、ヨゼフは「まだ材料を広げただけなので、大丈夫です」と声を掛ける。

「今は、休まれるのがよろしい」
「ヨゼフ、ししょー‥‥けど‥‥」
「私が代わりに作って差し上げる事は容易いですが、それではいけないのでしょう? 旦那様のために、ご自分で作りたいのですよね」

 菫が師匠と呼んで慕うレイスウェイク家の料理長は、可愛らしい女主人の変貌が、単なる軽い酒気あたりであったことを知り、安堵の溜め息を吐きながら微笑んで言った。
 ショコラに混ぜる酒を吟味する少女の真剣な様子は、含まれた意味までは分からずとも、それが特別な想いと共に主人に贈られる、大切なショコラになるとヨゼフに容易く理解させた。

「後日、また改めて調理出来るように片しておきますので、ご安心を」
「手数をかけるな、ヨゼフ。よろしく頼む」
「いいえ、旦那様。元はと言えば、私の注意が足らなかったのです。申し訳ありませんでした」


 その後、いつの間にか姿を消していたマーサが戻って来て、「寝所は整えてございます」と主人夫婦に告げたのだが、抱き上げて寝室に移動しようとしたヴィオラントを、膝の上の菫がぐずって止めた。
 「お昼寝なんて、赤ちゃんみたいだもの」と何故か意地を張る彼女に、温かい日差しの注ぐテラスで微睡ませても問題はあるまいと判断した男は、念のために女官長が差し出した膝掛けで妻を覆い、膝の上で横向きに抱き直してやった。
 そんな新婚夫婦の様子を微笑ましく見守りつつ、マーサはお茶の用意を整え、侍従長は主人宛の急ぎの用件ではないであろう封書を持ち直し、料理長は厨房に放置した少女の想いの元を回収すべく、揃って当主の部屋を後にした。





「‥‥ないしょ‥‥だったのに‥‥」
「うん? ショコラのことか‥‥?」
「‥‥ん‥‥あげる日まで、ヴィーには内緒にしておこうと、思ってたのに‥‥」

 酔いが回っているとはいえ、菫も正気を保っていないわけではなかった。
 内緒だったのにと口を尖らせながらも、別にそれはヴィオラントに事情を説明した料理長に文句を言いたいわけではない。
 酒の選抜に夢中になるあまり、アルコールに慣れていない事も失念していた自身を恥じ、計画が狂ってしまったことを悔いているのだ。
 年齢や見た目の割に、達観して醒めた眼差しで周囲を見極め、世渡り上手な印象のある彼女の、時に見せるそんな未熟で幼い一面が愛おしく、ヴィオラントは何にかえても守ってやらねばと強く思う。

「“ばれんたいん”という日に、贈ってくれるつもりだったのだろう? 知らされても、楽しみであるのに変わりはないぞ」
「‥‥ヴィー?‥‥なんでバレンタインのこと、知ってるの?」
「うむ‥‥ユウト殿が、先日教えてくれたのだ」
「おにーちゃんめ~‥‥‥」
「毎年あちらの二月十四日は、女性が夫や恋人にショコラを贈るのだとか。スミレも必ず寄越すであろうから、心して有り難く受け取れと。罷り間違い、甘い物が苦手だからと断れば、夫婦存続の危機に陥るだろうと忠告付きでな」

 ただし、優斗の忠告がなくとも、ヴィオラントが菫が差し出したものを断るはずがない。
 しかし、特別な想いを込められた贈り物と知っていれば、受け取る方の感慨もまた一入であろう。
 常より幾分緩い口調で実兄への悪態を吐く唇を、そっと宥めるように啄めば、先程菫が口にしたであろう仄かなブランデーの香りが、ヴィオラントの鼻腔に忍び込んだ。

「そなたの世界には、意味を持つ日がたくさんあるのだな」
「うん。でも、バレンタインは本当はチョコを配る日じゃないんだよ。お菓子会社の戦略に皆が乗せられただけで、外国じゃあ贈る物はチョコに限られてないし‥‥」
「‥‥ほう。それで、そなたは前年までも、誰かに贈っていたのか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 ふわふわとした酔いの浮遊感の中でも、ヴィオラントの瞳が不穏に眇められたのが見て取れた。
 菫が特別な意図も無く黙り込むと、彼は微かに苛立ったように唇を性急に押し付けてきた。
 緩んだ唇の隙間から舌が潜り込み、歯列の奥で火照っていた相手を見つけ出して、とろりと絡める。

「‥‥あのね、別にバレンタインにチョコあげるのは、恋人とか旦那さんとか限定じゃないの。お世話になった人とか、友達とかでもアリだし‥‥女の子同士で交換したりもするし‥‥」
「そなたは、誰に贈っていた?」
「お兄ちゃんとか、りょーちゃんとタカさんと、ついでにアミちゃんも‥‥、あと、まあ‥‥」
「ーーーーアツシ、か?」
「‥‥アツシは、去年のバレンタインはまだ知り合ってなかったから、あげてない」
「ーーーーだが‥‥他に、いたな?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 ヴィオラントに対して隠し事は無理だと、全てを正直に述べれば機嫌を損ねる事になり、「妬けるな」と呟いた唇に菫は再び噛み付かれるのだ。
 過去に嫉妬するなど、それこそ無意味だと思うのだが、愛しい少女が他の男の為に心を込めて何かを作った事実が、ヴィオラントにはとてつもなく憎らしい。
 ただ、強引に責める所作に抵抗も怯えもなく、己の腕の中に身を任せる彼女に、幾分かは機嫌を直したのか、その後のキスは優しかった。
 しばしの間、愛らしい唇を思う存分味わい、ようやくヴィオラントがそれを解放した頃には、菫の瞳は更にとろりと蕩けて熱に浮かされていた。
 それは何も、酒精のせいばかりではない。
 繊細なレースを重ねたフリルの襟元から除く項は、頬と同じく薔薇色に染まり、ふわふわの黒髪からちらりと除く可愛い両の耳たぶもまた然り。
 ヴィオラントが求めて求めて、ようやく名実共に己のものにしたというのに、小さな妻は飽く事無く彼に欲望と焦燥を抱かせる。
 こみ上げる愛おしさにぐっと胸が熱くなる男を、知ってか知らずか少女はふらりと持ち上げた両腕で包み込み、蕩けた笑みを浮かべて彼の白い頬に唇を押し当てた。

「何に、妬くの?」
「スミレ」
「誰に、妬くの?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ヴィーは、他の誰とも違うよ?」

 バレンタインだから、貴方が旦那様だからあげなきゃとか、お世話になってる人だからあげなきゃとか、そういう世間体に圧されて作るんじゃなくって、ヴィーの為に作りたいって思ったの。

 作りながら、ドキドキするの。

 美味しいって思ってくれるかなって、本当に喜んでくれるかなって、楽しみだけど何処か怖くて、でもそんな風に考えながら誰かの為に何かを作るのなんて、初めてだったから。

 こんなに、人を好きになったのは‥‥ヴィーが初めてだから。


 貴方は特別だからと、ヴィオラントの小さな妻が告げる。
 媚も諂いもない、無邪気で無垢な言葉が、彼をどれだけ幸せにするかなど、計算したこともないだろう。
 心より愛した者の特別な存在になれることが、どれだけの歓喜を呼び起こすのか、知りもしないだろう。

 誰に憚る事無く「好きだ」「愛している」「そなただけ」と告げるヴィオラントに比べ、猫のように気紛れで自由奔放な彼女は、そういう類いの睦言を口にする事は滅多にない。
 だからと言って、その愛情を疑うわけではないが、やはり言葉にして伝えられれば喜びも一入である。
 酒精の魔力が彼女の秘めたる想いを曝け出したのか、あるいは酔いとは関係なく、特別な日を前に特別な言葉も添えようと思ってくれたのか、それは分からないが。

 ヴィオラントは柔らかな温もりを、強く抱き竦めた。
 仄かに香るブランデーの香りは、菫の彼に対する愛情の一片であったのだ。


「そなたに無理をさせたのは、私だな‥‥。すまない」
「違うよー。お酒なんて、私飲んだ事無くて、どれが美味しいのかよく分からなかったからさ。決めかねて、飲み過ぎちゃっただけだよ」
「飲み辛くは、なかったのか?」
「えっとねぇ、美味しいとは思わなかったけど、飲めないこともなかったよ」
「うむ。‥‥しかし、とにかく、そなたはあまり酒を口にしない方がいいだろう」

 ふわんと首を傾げて「どうして?」と尋ねる菫に、ヴィオラントは彼女を抱えたまま椅子から立ち上がりながら、少量で酔うようならばそれは酒が身体に合わないということだ、と諭した。

「酔ってないよー、素面だよー、気持ちいいだけだってばー」
「酔っぱらいは、大体そう言うのだよ」
「じゃあ、いいじゃない。気持ちよくなるだけなんだから、酔っぱらっても」
「こんなにふらふらになっておいて、何を言う‥‥」
「あー‥‥、いいねぇ。お酒飲みたがる大人の気持ち、ちょっと分かった感じー‥‥」
「非常に良くない傾向だ‥‥‥」

 顎の下を撫でられた猫がごろごろ喉を鳴らすように、無防備な笑顔を晒す菫の危うい雰囲気は、ヴィオラントに本気で危機感を抱かせた。
 彼はその後、寝室に妻を連れて行き、ふわふわしたまま聞いているのか聞いていないのか微妙な相手に、とにかく今後己と一緒の時以外は、一口と言えど酒類を口にしてはならないぞと、懇々と言い聞かせるのだった。
 結局、午後のお茶の時間に寝室に籠った大公爵夫妻は、夕餉が整うまで姿を現すことがなかったが、レイスウェイク家に仕える使用人にそれを不思議に思う者も、部屋を訪ねて邪魔する野暮な輩も存在しなかった。



 翌日。

 菫は再び料理長ヨゼフが見守る中、厨房に籠ってようやくショコラを完成させた。
 ヴィオラントが好んで飲むことが多いブランデーと、その朝に壁の向こうから義姉の真子に勧められたラム酒を加えた、二種類のガナッシュが出来上がった。

 すぐに解いて開けられると分かっていながらも、綺麗な包装紙とリボンでラッピングをするのは、乙女としてはとても楽しい作業であり、俄然張り切る元乙女マーサ監修のもと、菫は申し分なく立派なプレゼントを用意する事ができた。


 そして、バレンタイン当日。

 可愛い可愛い奥方様に、はにかみながらそれを差し出されたレイスウェイク大公閣下は、もちろん一も二もなく受け取って、彼女もろとも美味しくお召し上がりになったということである。


 ハッピー、バレンタイン。






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