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五臓六腑

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蔦姫のショコラ:前編


「‥‥まずは、今のこの状況の説明から聞こうか」
「も‥‥申し訳ございません、旦那様‥‥‥」

 グラディアトリアの先代皇帝であり、二年前に正妃腹の末弟ルドヴィークに玉座を譲って、現在は悠々自適の隠居生活を楽しむ、当国唯一大公爵の位を持つヴィオラント・オル・レイスウェイクのお気に入りの場所は、緩やかな木漏れ日の心地よい自室のテラスである。
 本日もゆったりと昼食をいただいた後は、書斎から見繕ってきた蔵書を数冊テーブルの上に積み、小鳥のさえずりをお伴に微睡み半分目を通していた。
 元々は、植物研究の師ロバート・ウルセルの持ち物であった屋敷には、彼がその生涯で集めた大量の書物が残されており、おかげでヴィオラントが退屈することはない。
 ただし、今日は些か物足りない思いを、彼は抱いていた。
 何故なら、いつもなら午後のこの時間は、彼の向かいの椅子に腰掛けて絵本をめくったり、あるいは彼の膝の上に子猫のように収まって共に微睡む、愛しい存在がなかったからだ。

 レイスウェイク大公爵家は少し前、待ちに待った可愛らしい女主人を得た。
 当主とは十以上も年の離れた奥方は、何でも異なる世界からやってきた奇跡の存在であったが、様々な問題を当主の強引さと奥方の適当さで乗り越えて、結果的には双方の家族の祝福を受けて一緒になった。
 ヴィオラントは、皇帝在位時代には後宮をかまえて多くの美姫を囲っていたものの、それは所謂政治的な思惑の一端に過ぎず、女達には例外なく冷静というよりは冷徹な態度で接していた彼が、突然不可解な現象により目の前に現れた年端もいかぬ少女に、ごっそりあっさり心を奪われてしまったことは、彼に仕える古参の使用人達にとっては、確かに大きな驚きであった。
 しかし、敬愛する主がようやく温かな幸せと愛情を手に入れたことを、喜ばずにいられようか。
 しかも、彼らの初めての女主人となった少女の愛くるしさといったら、当主が人目も憚らずに溺愛するのも無理はない。
 稀なる白銀の髪と神々しいまでの美貌を携えた先帝閣下に嫁いだのは、更に稀なる黒髪と、彼と同じく高貴なるアメジストを瞳に抱いた、最高に可憐な美少女だった。
 その容貌は、グラディアトリアの貴族の姫君の間で絶大な人気を誇る、愛玩人形クリスティーナを彷彿とさせる愛らしさで、何でも元を正せば彼女がその人形のモデルであったという、驚きの事実まで明らかになっている。

 彼女の名を、菫という。

 元の世界ではノサキという家名を名乗っていたが、レイスウェイク家に嫁ぎグラディアトリアで生活する便利上、こちらの世界での後見人たるシュタイアー公爵夫妻の血名を頂き、スミレ・ルト・レイスウェイクと呼ばれるようになった。
 人形のように華奢で儚気な容貌ながら、普段の彼女は明るく快活で、貴賎を問わず全てにおいて分け隔てなく接する。
 レイスウェイク家の使用人達はベテラン揃い、つまりは熟年層がほとんどを占めているのだが、彼らにとってはそんな少女が孫娘のようで可愛くてならない。
 すっかり骨抜きの当主を筆頭に、屋敷をあげて幼い女主人を愛でまくる毎日であった。

 今日の菫は、ヴィオラントと共に昼食を済ませると、食後のデザートもそこそこに、何処かに姿を消していた。
 何処かと言っても、過保護で心配性な彼女の夫がその行き先を把握していないわけもなく、実は美味しく頂いたばかりの料理達が生まれた場所、つまりは屋敷の厨房に籠っているのだ。
 それは何も珍しい事ではない。
 生家では、別の国に住んでいた両親は除くとして、料理のセンスは些か心許ない兄に代わり、食卓はほんの幼い頃から彼女が守っていたのだそうだ。
 その料理の腕前はなかなかのもので、長年王城の料理長を務め上げ、ヴィオラントの退位と共に自身も退職して、レイスウェイク家を終の職場と決めてついてきた、ヨゼフ・テルハムのお墨付きである。
 料理長ヨゼフは、ヴィオラントの乳母にして女官長マーサの実弟で、角刈りの厳つい顔立ちと大きな体躯が威圧的で、非常に子供受けが良くない残念な男だが、そんな彼の穏やかで優しい気質を菫は直ぐさま見抜いた。
 そうして、娘や女孫がおらず、幼い少女の扱いに戸惑うヨゼフにも懐き、毎日の料理を素晴らしいと褒め讃えられ、顎にちょびっとある白い髭を愛でられている内に、彼の方もすっかり菫の魅力に捕われてしまっていた。
 料理人にとっては聖域とも言える厨房を、今まではどんな貴人とて使用することを許さなかった彼が、菫ならば喜んで招き入れてくれる。
 さらに、幾人も抱えていた弟子にさえなかなか許さなかったことだが、料理の中の一品を完全に彼女に任せることや、デザートのメニューを一任するなど、以前の彼を知る者から見れば、如何に少女が破格の待遇を受けているのかは明らかであろう。
 そんなこんなで、レイスウェイク家の奥方様が、厨房に入り浸っていることも少なくはない。
 さすがに料理を担当するのは稀な事だが、午後のお茶の時間に合わせてお菓子を作ったり、晩餐の為のデザートを用意することは多々あって、それらは少数精鋭のこの屋敷の使用人達にも振る舞われる。
 何より、元来は甘い物が苦手で、菓子やデザート類はほとんど手を付けなかったのがこの家の当主だったが、愛妻が心を込めて拵えたものを除けるはずがなく、愛らしい細君を膝の上に抱き上げて、彼女と共に甘味を愛でるという光景も頻繁に目撃されるようになっていた。

 そうであるから、菫が今日も厨房に居る事には異存のないヴィオラントだが、戻ってきた彼女の様子には、黙って見過ごせない問題があったのだ。



 大きな体躯のヨゼフは、テラスの椅子に腰掛ける主人の前に突っ立って、叱られるのを待つ大型犬が耳としっぽを垂らしたかのように、気の毒な程にしゅんとしている。
 彼の背後では、その姉である女官長マーサが、まさに般若の形相で彼の後頭部を睨みつけていた。

「本日は、奥方様はショコラを作りたいとおっしゃって、私は仕事が一段落していたものですから、隣で拝見させていただいていたのです」

 主人に事情を説明しろと命じられた料理長は、目の前の光景に困ったように太い眉を下げ、とにかく事実を告げるしかなかった。

「何でも、旦那様にお贈りする特別なショコラで‥‥本当は内緒にしておいて欲しいとおっしゃられたのですが‥‥」
「こうなっては仕方あるまい」

 何がこうなっているのかというと、件の少女は只今その夫たる男の膝の上にちょこんと鎮座していて、それ自体はレイスウェイク家の人々にとって何の問題もないことなのだが、彼女の様子は明らかにいつもと違っている。
 常ならば薔薇色の、愛らしく円やかなの頬は燃えるように赤く、麗しき稀色を抱く瞳は熱を帯びて潤み、とろんと蕩けるように艶増し危う気な色香を放つ。
 いつもは清純な色合いの唇が紅を引いたように濃く、微かに開いたそれはまるで、口づけを待ちわびているようだ。
 身体自体も、骨を抜き取られたかのようにふにゃりと崩れ、完全に夫にしなだれ掛かっている状態だった。

「旦那様が美味しく召し上がられるように、ショコラの甘みを抑えて酒を使いたいと仰られて‥‥。スミレ様の世界では、酒を練り込んだショコラも少なくはないのだそうです」
「‥‥‥‥なるほど」
「料理に使う酒を幾つか提案してみたのですが、どれが最もショコラと相性がいいのかは、自分の舌で確かめたいと‥‥」


 菫の要望に応えて、ヨゼフは調理場に置いてある醸造酒やら蒸留酒などを一つ残らず取り出して、自分が飲むように置いてあった秘蔵の酒まで差し出した。
 様々な種類の、大小色とりどりのそれらを調理台の上に並べ、一つ一つ彼の注釈を聞きながら考え込んでいた菫だったが、蒸留酒の中から選ぶことに決めたらしい。
 蒸留酒というのは、醸造酒を蒸留して作った酒であり、日本のものと言えば焼酎が例として挙げられる。
 ウィスキーやウォッカ、ブランデーやラム酒なども含まれ、ウィスキーと言えばウィスキーボンボンが有名であるし、ブランデーやラム酒もお菓子に加えられることが多い。
 あとは、蒸留酒に果実やハーブなどの香味を移し調整したリキュールもよく使われるが、砂糖やシロップが加えられているので、甘い物を好まないヴィオラントには適していると思えなかった。

 小さなカップに様々な蒸留酒を注ぎ、一つ一つ匂いを嗅いでは舐めてみる。
 そして、更に絞り込んだ結果ブランデーが残り、今度は少し口に含むようにして吟味した。
 ブランデーと言えば、白ぶどうのワインを蒸留して作られるものが良く知られているが、リンゴから作ったアップル・ブランデーや、サクランボから作ったチェリー・ブランデーも存在する。
 また生産地によっても味が異なり、原料の果実は言わずと知れた農業大国である隣国コンラートで作られ、そのまま酒に加工された物もあれば、加工技術の優れたグラディアトリアで作られたものまで、味わいは千差万別である。

 ところで、ここで見逃された大きな問題が、菫が実はまだ酒を飲んだ事がなかった、という事実だった。
 故に、酒の善し悪しが判別できない以前に、彼女のアルコールに対する体質が、その時点では判明していなかったのだ。
 しかも、蒸留酒というのはワインなどの醸造酒に比べてアルコール度数が高い。
 それを少量ずつとはいえ、アルコールに耐性の無い菫が摂取したとすれば、その結果は想像するに難くないだろう。


「貴方が付いていながら何たる失態。図体が大きいだけの木偶の坊ですか」

 見事、人生初の酔っぱらいに変身した菫の姿を見た、女官長マーサの凄まじい怒りは、その傍らでおろおろしていた厳つい実弟に向けられた。
 監督不行き届きを責められて、ヨゼフはますます縮こまり、言い返す言葉も無い。

「まあ、そう責めるな、マーサ」

 そんな彼を庇う為に、ヴィオラントは膝の上の妻を抱き直しながら、口を挟んだ。

「ですが、旦那様」
「スミレが酒を飲んだ事がないなど、ヨゼフは知らなかったのは無理も無い」

 グラディアトリアにおいて、菫の年は既に成人の域に達している。
 しかも常識的な限度はあれど、この世界では飲酒に対する年齢制限は定められていないのだ。
 特に貴族の子女にとって、社交界において酒の席での付き合いは大切な機会であり、それを酔いで無駄にしない為にも、早くからアルコールに耐性を付ける訓練を行うのが習わしだった。
 菫が異世界から来たのだという話は耳に入ってはいても、正直意味が分からなかった料理長は、ただもう彼女の愛らしさに全身で傾倒しており、彼女がこの屋敷の中で、そして敬愛する主人の傍らで微笑んでくれているだけで幸せだったので、その出自についての細かい事は考えたこともなかった。
 当然、彼女の故郷では成人するまでは酒を口にしてはならないという法律があって、成人の年齢が二十歳だという事実など、知る由も無い。
 だから、機嫌良く酒を吟味していると思っていた少女の身体が、ふらりと突然力が抜けて傾いだ時は、何が原因であるのかすぐには分からなかった。
 ふにゃふにゃになった小さな身体を抱え上げ、とにかく普通ではない状態の彼女を医者でもある侍従長に診せなければと、彼を探して駆け込んだ場所が当主の私室であった。
 ちょうど午後のお茶の用意の為に、女官長でありヨゼフの実姉であるマーサもそこに居た。

 突然飛び込んできた料理長のただならぬ様子に、何事かと驚いている人々を他所に、彼の腕からふわんと飛び降りた菫は、ふわふわと危なげな足取りでテラスまで駆けて行き、椅子から腰を浮かせていた夫の前までやってくると、「ん」と彼に向かって両腕を広げ、酒精で潤んだ上目遣いで見上げる。

 そして


「ヴィー、だっこ」


 と、最高に可愛らしくおねだりをした。

 もちろん、ヴィオラントの腕がその言葉を聞くよりも早く反応して、妻の小さな身体を抱き上げていたのは、言うまでもない。
 そうして、彼女を膝に抱いてテラスの椅子に座り直しつつ、胸元に頬をすり寄せて甘えてくるのが可愛くてならないというように、そのふわふわの黒髪を撫で回しながら、冒頭のセリフに続くのであった。





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