蔦姫の奇跡 後編
「え~と、おそらく私は通りすがりの幽体ですので、お気になさらず。どうぞどうぞ、も一度昼寝でもぶっこいて下さい」
「幽体? なにを馬鹿げたことを‥‥。そもそも、人の憩いを邪魔したのはお前ではないか」
彼に、今幾つなのかと歳を聞くと、ひどく面倒くさそうにしながらも、一応答えてくれた。
なんと、菫の知る彼の末弟ルドヴィークと同じ、十八歳なのだという。
十八といえば、ヴィオラントが先代の崩御と共に玉座に就いてから、既に二年が経っていた。
ちょうど王宮内の腐敗を、片っ端から駆逐しているまっ最中。
おそらく、彼が最も凄惨な毎日を過ごしていた頃だろう。
目の前の少年ヴィオラントの、歳の割に老成したように見える表情に、菫はなるほどと納得がいった。
ヴィオラントも、お返しとばかりに教えられた菫の歳を聞いて驚いていた。
この世界における成人の歳に達してるにも関わらず、彼女の見た目はどうにも幼すぎるのだ。
柔らかなワンピースに包まれた身体は、あまりに華奢で凹凸が少なく、彼の知っている同年代の娘達とは比べようもない。
けれど、彼女達のように媚と色、あるいは畏怖に塗れた、見ていて胸くその悪くなる仮面を纏わず、ただ無垢な愛らしさだけを乗せて、小首を傾げて見上げてくる様子は、余程好感が持てる。
もはや必要ないだろうと、構えていた剣を腰の鞘に戻すと、ヴィオラントは自由になった両腕を胸の前で組んで、彼女をじっと見下ろした。
「‥‥‥本当に透けているな。おかしなこともあるものだ」
「いや、ほんとほんと」
「それで? 幽体なのだと言い張るのなら、お前の実体はいったい何処にあるというのだ」
「う~ん、自宅にいて、気がついたらこの庭歩いてたんだよね」
「では、身体は自宅に置いてきたのか。して、お前の家名は何と申す?」
「レイスウェイク」と答えようとして、ふと、それを今の彼に言って良いものかどうか、菫は悩む。
もちろん、「貴方の未来の可愛い嫁ですぅ」などと言った所で信じないだろうが、あまり先のことを教えてしまうのもいけないような気がする。
なので、菫はお得意の愛想笑いで誤摩化そうとした。
当然、それで誤摩化されてくれるような、可愛らしい相手ではなかったが。
「家名が言えぬか」
それはつまり、疾しい事があるためだと、彼は判断したようだ。
いつも菫には、蕩けるような愛情か滾るような欲情しか向けないヴィオラントの瞳が、酷薄で剣呑な光を宿して彼女を睨みつけた。
過去の彼はまだ菫と出会いもしていなかったし、国の平定をやり遂げ精神的な平和を取り戻した、先帝閣下ではない。
仕方のないことと分かっているが、彼にそんな瞳で見られたことは、菫にとっては相当ショックなことであり、元に戻ったら十年後のヴィオラントに、思いっきり文句を言って困らせてやろうと心に決めた。
そして、ショックと共に、やっぱりちょっとは腹も立っていたので、仁王立ちして睨みつける男の真似をして、菫も華奢な両腕を組んで慎ましやかな胸を張り、ふんぞり返って時の皇帝陛下を睨み上げた。
「ていうか、あなたは私に触れられないけど、私はあなたに触れられるってことは、もうそれだけで力関係決定じゃない」
「‥‥‥‥なんだと?」
「つまり、私の方からは悪戯し放題ってこと、忘れないでよね。あんまり生意気だと、意地悪しちゃうよ」
「‥‥‥‥‥‥‥」
今のヴィオラントには、菫に触れることができなかった。
しかし、菫は他の物には触れる事ができなかったが、何故かヴィオラントにだけは触れる事が出来た。
ということは、菫がその気になれば彼の喉を両手で絞めることも可能なわけで、極端な事を言えば彼を殺すことだってできるのだ。
だが、それを聞いたヴィオラントは、すっと目を眇めはしたが、憤慨したり焦ったり、もちろん恐れる様子もまったくなかった。
それどころか、何だか投げやりな風に大きく溜め息を吐くと、菫から視線を逸らした。
無言のまま東屋に携えられたベンチに戻り、どかりと彼らしくない粗野な仕草で腰を下ろすと、再び靴のままの両足を乗り上げて横になる。
「え~‥‥、ねえねえ、何その態度?」
「煩い。黙れ。寝る。時間が勿体ない」
「それは、悪戯して下さいってこと?」
「違う。どうせ抵抗できないのなら、いろいろ悩んでも仕方がない。貴重な休憩時間を無駄にしたくない」
王宮の中に戻れば、再び数多の魑魅魍魎を相手にせねばならない。
ほんの少しと告げて暇を与えた侍従長は、おそらく休みもせずに執務室で待っているだろう。
遅れれば、彼に余計な心配をかける事になるし、疲れた顔のまま戻っても、彼の顔を曇らせてしまうに違いない。
「ふうん、疲れてるんだね。若いのに大変だね」
「‥‥‥‥‥‥‥」
薄く目を開けて傍らを見ると、少女が側に寄ってきて、ベンチの横にしゃがみ込んでいた。
不思議なことに、こうしていても、彼女には気配が全くなかった。
常に周囲に神経を研ぎすましているヴィオラントが、先程鼻を摘まれるまで、近付く存在に気付けなかったのもそのせいだ。
見知らぬ不思議な少女が死神であろうとも、ヴィオラントは志半ばの今はまだ、命をくれてやるわけにはいかない。
しかし、彼女は確かに彼をくびり殺す事が可能であるのに、それを実行する様子は全くなかったし、何故か彼女がそんなことをするはずがないという、根拠のない確信がヴィオラントを微睡みに導くのだ。
近くで見れば見る程、貴重な色合いのふわふわの髪と、親しみを感じる同じ紫の大きな瞳、それからドールのように整った愛らしいかんばせに、自然と視線が釘付けにされる。
ああ、可愛いな‥‥と、弟妹以外には感じたことのない柔らかい思いが沸き上がり、ヴィオラントは戸惑う気持ちを隠そうと、彼女から無理矢理視線を引き剥がした。
そして、元のように組んだ両手で目の上を覆い、深く深く溜め息を吐く。
そうすると、本当に傍らにいるはずの少女の存在を、全く感じなくなってしまった。
耳には、そよそよと穏やかに吹く風が、微かに庭木の葉を揺らす音しか聞こえず、若き革新派の皇帝の、ひとときの安らぎの時間がそっと戻ってきた。
今はもう、ただ、何も考えたくなかった。
今朝、首を飛ばした、汚職に塗れた大臣のことも。
昨夜、寝首をかこうとナイフを振り上げた側女の、豊満な乳房の間に突き立てた己の短剣の輝きも。
昨日の義母との茶会に乱入した、刺客の臓腑の色も。
今は、何も思い出したくなかった。
ただ、少しの間だけでいい。
ほんの少しだけ、何者にも邪魔されずに、無垢な子供の頃のように眠りたいと、それだけを願ったヴィオラントに、ふいに触れたのはとても穏やかな体温。
小さな柔らかい掌が、傍らから伸びて彼の銀髪に包まれた頭を、そっと撫でていた。
それは、微かな記憶の中。
愛する男と無理矢理引き離されて後宮に閉じ込められた彼の母が、気まぐれに息子に与えた優しさにひどく似ている。
優しい義母も惜しみない愛を与えてくれたが、子供が実母を求める気持ちというのは特別であり、最後まで父王を受け入れず、心を閉ざしたまま亡くなった母との思い出の中で、頭を撫でてもらえた記憶は、とてつもなく貴重で恋しいものだった。
母とは似ても似つかぬ幼い少女だが、彼女の掌は柔らかく温かく、何故かヴィオラントは無性に泣きたくなった。
けれど、泣けない。
全てをやり遂げ、全てを終わらせて、末弟ルドヴィークに平和な世を引き継ぐまで、己は絶対に泣くわけにはいかないと、強く引き結んだ彼の唇に、柔らかなものがふっと重なった瞬間。
ヴィオラントは、すとんと、安らかな眠りのなかに落ちて行った。
少年ヴィオラントが意識を手放したと同時に、彼の頭を撫でていた菫もまた、急激な睡魔に襲われていた。
抗い難き本能に全身から力が抜けて、仰向けに横たわる男の上に折り重なるようにして眠りの淵に引きずり込まれる瞬間、菫もまた柔らかな掌の感触を感じた。
そして、視界を過ったような気がしたのは、ヴィオラントと同じ絹糸のような美しい銀髪で、それを腰まで長く伸ばした美貌のひとが、紫の瞳を細めて優しく微笑んだように見えた。
あ‥‥右目に泣きぼくろ。すんごい、別嬪さんだな~‥‥
その背後に見えた青空は、何処までも澄み渡り、一番強烈な印象として菫の意識の中に残った。
「ーーーーースミレ」
穏やかな低音に優しく耳をくすぐられて、菫の意識は緩やかに浮上した。
そっと瞼を開くと、眠りに就く前の最後の記憶に、ひどく似通った青空をバックに、銀髪と紫の瞳を携えた人物が、こちらを覗き込んでいる。
「‥‥‥ヴィー‥‥?」
「こんな所で眠っては駄目だろう。そなたの姿が見えないと、皆心配していたぞ」
「‥‥‥こんな、ところ?」
優しい夫に身体を抱き起こされて、呆然と周りを見渡せば、そこは勝手知ったる我が家の庭であった。
大きい楠木の下の、柔らかな芝生の絨毯が敷き詰められた、菫お気に入りの場所である。
そこに膝掛けを敷いて、自分は一人横になっていたらしい。
今日はヴィオラントは、珍しく朝早くから所用で出掛けていた。
留守番を仰せつかった菫は、朝の支度を済ませた後、女官長と一緒に少しだけ縫い物をして、それから良い天気なのをいいことに、庭師のポムを探して庭に出た。
しかし、広い庭園に彼を見つけ出すのは至難の業で、途中通りかかったお気に入りの場所に、休憩のつもりで腰を下ろしたところまでは思い出した。
「マーサが、日傘を取りに戻った隙にいなくなったと、盛大に取り乱していたぞ。あまり、心配をかけるものではない」
「‥‥‥うん、ごめんなさい」
昨夜は久しぶりに、ちょっとした夜更かしを夫が許してくれたので、少し眠気が残っていたのかもしれない。
菫の世界では、今日は12月25日。
世に言う、クリスマス当日だ。
トナカイのソリに乗った魅惑的な白い髭のご老人が、子供達にプレゼントを渡し終えた翌日である。
常春の国であるグラディアトリアでは雪は降らないし、そもそもクリスマスという風習自体存在しないのだが、兄優斗からいつの間にか詳細を聞き出していたヴィオラントは、昨夜菫にサプライズなクリスマスパーティを用意してくれていた。
彼が内々に用意していたのは、モミの木に似た大きな木にたくさんの飾り付けをしたクリスマスツリーと、壁を挟んだ両方の世界の家族達全員だ。
大人達は、それぞれ菫に貢ぎ物を持って来ていて、ツリーの前に高々と積まれたプレゼントボックスの山に、愛らしい頬を薔薇色にして喜ぶ彼女の姿を肴にして、持ち寄ったワインで乾杯をした。
今まで経験した事のない、たくさんの家族と祝う賑やかで温かなクリスマス・イヴを、菫は一生忘れないだろう。
そうして、昨夜の一番の功労者たる夫に、菫はうふふと思い出し笑いをしながら、もう何度目かにもなる褒美のキスを与えた。
彼の無に支配されて久しかった表情が、微かに柔らかく緩む。
美しい紫の瞳は、蕩けるような甘さを帯びて、ただ一人妻だけを映している。
「そうそう、ヴィーはこうでなくっちゃ!」と思いながら、菫はふと、つい先程まで一緒に居た十八のヴィオラントの余裕のない表情を思い浮かべ、あの出会いははたして夢であったのか、それとも現実における不思議な体験であったのか、判断を下すことを躊躇した。
けれど、歳若きヴィオラントの苦悩と疲弊に満ちた姿は忘れ難く、今頃になってせり上がってきた憂いと愛おしさに、目を伏せた彼にしたように、今ようやく穏やかな日々を手に入れたその人の銀髪を撫でた。
「スミレ?」
「よしよし、よーしよしよし」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
ヴィオラントは不思議そうに瞳を瞬きながらも、菫の好きなようにさせた。
それから、大胆に慎ましやかな胸元に抱き込まれた頭をそっとずり下ろすと、柔らかなワンピースに包まれた妻の腹部に耳を押し当てる。
その奥から聞こえるのは、微かだが確かな心音で、ヴィオラントにとっては何よりも待ち遠しいプレゼントの鼓動だった。
瞳を閉じて幸せそうな溜め息を吐いた彼の髪を撫でつつ、菫は見上げた雲一つない青空に、ふともう一つ大切な事を思い出した。
「ねえ、ヴィー」
「うん?」
「ヴィーのお母さんってさ、髪も目の色もヴィーとおんなじって前に聞いたけどさ、もしかして泣きぼくろとか、あった?」
「ナキ‥‥?」
「ホクロだよ。目の下にあると涙が零れたみたいだから、泣きぼくろっていうの。確か‥‥‥右側?」
唐突もない菫の言葉に、ヴィオラントは久しく思い浮かべもしなかった生母の顔を、記憶の引き出しの奥から引っ張り出した。
「ああ、あったな。右目の下に確かに。‥‥‥しかし、本人はあれを嫌っていたらしく、いつも化粧や髪で隠していたと思うが、そなた誰かに聞いたのか?」
「‥‥ううん。っていうか、今、ヴィーのお母さんに会ってたかもしれないって言ったら、びっくりする?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ついでに、十代の皇帝ヴィーにも会ったって言ったら、ひく?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
すかさず、ヴィオラントは菫の額に掌を押し当て、熱がない事を確認してほっとした様子だった。
「ヴィー、覚えてないの? 十八の若かりしあの日を?」
「‥‥‥‥特に、覚えがないのだが」
「晴れた空の下の、あの青春を?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥分からない」
ひどく困惑した様子のヴィオラントに、少年の彼が菫に剣を突き付け睨み据えたと伝えるのは気の毒だと思い、彼女はそれだけは腹の中に飲み込んだ。
寝ぼけていた彼が覚えていないだけかもしれないし、菫が見たのはただの夢だったのかもしれないので、彼女もそれ以上深く追求するつもりはない。
今の彼の身の上には、苦悩も疲弊も憂いもなく、過去を蒸し返してその顔を歪ませるのは、当然愉快なことではないのだ。
だから、この話はここまでと思って話題を変えようとしたが、当の本人が待ったをかけた。
「私は、過去にそなたと出会ったという記憶はないが‥‥‥、今日という日に母が話題に上ったことについては、偶然なのかと疑いたくなる事情がある」
「んん? それって、どういうこと?」
「‥‥‥‥今日は、母が亡くなった日だ」
め、命日じゃん!と目を剥いて、「なんでもっと早く言わないのよ! お墓参りはっ?」と噛み付いた菫に、ヴィオラントはこの世界では何かの節目に故人を悼む風習はないのだと答えた。
「‥‥‥優しいお顔して、笑ってたよ? それに、私の頭を撫でてくれた。いつもヴィーがしてくれるみたいに」
「‥‥‥‥そうか」
「別に、心霊体験でも夢でもどっちでもいいんだ。私、ヴィーのお母さんに会えてよかったよ。お母さん、この子の事知ってくれてるかな?」
相変わらずあどけない顔のまま、僅かに膨らみ始めた己の腹部を撫でて、菫は小首を傾げた。
それを見たヴィオラントの中で、沸き上がる愛情は上限を知らず、小さなこの身で彼の子を育み始めた妻を抱き寄せ、その愛らしい唇を心行くまで味わってから、そっと抱き上げ侍従長を呼んだ。
「ヴィー?」
「スミレ、気分はどうだ? 馬車には乗れそうか?」
「うん、平気だけど。どっか、行くの?」
御者を仰せつかった侍従長は心得たように微笑み、女官長は彼女の小さな女主人の為に、厚手の上着と膝掛けを用意した。
「母に、報告がまだだった。墓前に参って、そなたと子の健やかな成長を見守ってくれるように頼もうと思う。一緒に来てくれるか?」
「うんっ!」
この世界に、故人に何かを願う風習はない。
貴賎も善悪も問わず、人は皆死ねばただの無に還り、無の世界で全ての柵から解き放たれて浄化され、そしてまた新たな命として生まれ変わると言われている。
だから、故人はいつまでも世に留まって、生者の願い事を聞いている暇などないのだ。
形としてそれぞれ墓は拵えるが、そこに故人の魂が留まっていると考えるものは、この世界にはいないだろう。
つまり、墓参りとは、彼らにとってはあまり意味をなさない行為なのだ。
しかし、この度菫の口から母の存在が飛び出し、それがちょうど母の命日であったことで、ヴィオラントは実は葬儀以来、一度もそこを訪れたことがなかった不義理を思い出した。
最後まで、自分が母に愛されていたのか分からなかったが、菫が見た母は優しく微笑んでいたのだという。
それは、亡き母が己の妻を認め、娘として受け入れたと言ってくれているように感じた。
ヴィオラントの母、マジェンタ・オル・グラディアトリアは、皇族の墓地に眠っている。
その隣には、父王フリードリヒ・セラ・グラディアトリアも安らかな眠りに就いた。
最後まで心を通じ合わせることが出来なかった二人が寄り添って、今はどんな風に共に眠るのかと、心より愛する存在を得たヴィオラントは、ようやく穏やかな気持ちで思いを馳せた。
願わくば、己の膝に乗るこの小さな妻子を、二人にはいつまでも温かく見守ってほしいと思った。
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