五臓六腑

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蔦姫の奇跡 前編


 はっと気がつくと、菫は緑に囲まれて雲一つない青空を見上げていた。


「‥‥‥あれ?」

 自分は確かに、今は我が家となったレイスウェイク家の庭にいた記憶があるのだが、しかし周りをよくよく見渡すと、そこは菫が愛する白髭のポムじいさんの縄張りとは、明らかに異なる場所であった。
 手入れの行き届いた庭園であるには違いないが、日頃ポムとつるんでレイスウェイクの屋敷の隅々まで網羅している菫には、見分けるのは容易い事だった。
 いつの間に、他所様のお庭に迷い込んでしまったのだろう。
 いや、そもそもレイスウェイクの屋敷は周辺をぐるりと広大な森林に囲まれており、うっかり迷い込んでしまうようなお隣さんはなかったはずだ。

 一体どうなっているんだろうと思いながら、菫はとりあえず道なりに歩いてみた。
 そうして、ふと、ある事に気付く。

「ここって‥‥‥」

 その時々で咲く花にばらつきがあるので、完全に一致とはいかないが、以前夫であるレイスウェイク大公爵に連れられて足を踏み入れた、記憶の中のとある庭園の景色とひどく似通っているのだ。
 それは、菫がいたはずのレイスウェイク家から、大通りをひたすら真っ直ぐ行った場所にある、この国の王城に広がる庭園の、しかも極一部の者しか知りえない、秘密の場所への道のりだった。

 菫が初めてそこへ連れて行かれたのは、大公閣下に嫁いでまだそう経たぬ頃。
 彼の目を盗んで王城を歩き回り、結局義兄のいる騎士宿舎で捕獲されて、男所帯にふらふら出掛けた仕置きを受ける為に連行されたという、あまり大きな声では言えない思い出のある場所だ。

 しかし、何故自分がいきなりそんなところに居るのか、全くわけが分からないとぶつぶつ愚痴りながら、菫はあの時はヴィオラントに抱き上げられて進んだ道を、とにかく例の場所まで行ってみることにした。

 記憶に間違いがなければ、この先には白いベンチを携えた東屋があるはずだ。
 ヴィオラントは、その東屋の存在も、そこへ向かう道さえも、彼が今でも師として慕う亡きロバート・ウルセルと、兄弟弟子ともいえる幼馴染みの隣国王兄ルータス・ウェル・コンラートと、そして彼自身の三人しか知り得ない、秘密の場所なのだと教えてくれた。

 とにかく、まず入り口からして、他の者には分からないよう細工がされているらしい。
 それがどういうものなのか、以前来た時には機嫌を損ねた夫に、道中既にあちこち弄られていた菫は、全く記憶になかった。

 そんな場所に、自分が何故一人で来てしまっているのか、菫はとても不思議だったが、もうひとつ、気になることがあった。


「‥‥‥‥透けてる‥‥?」

 膝下まである淡い色合いのAラインのワンピースに、繊細なレースが飾る白いカーディアンを羽織った格好の菫だが、見下ろす自分の存在自体が微かに透けて、周りの緑が淡く映り込んでいるという、不可解な現象に気付いてしまった。
 柔らかな革で拵えたローヒールの靴は、確かに地面を踏みしめているはずなのに、その足元には影さえ見当たらない。
 試しに、傍らで愛らしく咲く野花に手を伸ばしてみたが、それは菫の指先に摘まれることなく、すっと彼女の身を通り抜けた。


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 考えたくはないが、もしかして、これが世に言う“幽体離脱”とかいう現象であろうか。
 つまり、菫は、身体という器を置き去りにして、幽体あるいは霊体と言われる状態で、グラディアトリアの王城まで飛んできてしまったというのか。
 もしもそうであるのなら、我が家に置いてきた本体は仮死状態のはずで、家人に見つかればそれこそ大騒ぎだろう。

 自宅に、夫の元に戻らねばと思いつつ、しかし菫は何故か強く引き寄せられるように、秘密の場所の奥へと足を踏み入れるのだった。





 ぐるぐると螺旋状に、細く獣道のように様々な植物に覆われた道を、菫はひたすら前に進んで行った。
 そうして、ようやく目の前に現れたのは、慎ましやかながら鮮やかな花を咲かせたアーチだ。
 それを潜ると、もうすぐ正面に東屋がぽつりと建っているはずで、菫の前にはそのとおりの光景が広がったわけであるが。

 しかし。

 そこには、菫をひどく驚かせることになる、先客が居た。



「‥‥‥‥‥‥‥‥」



 東屋の中に置かれた白い大きなベンチの上に、人間が一人横たわっていた。
 靴を履いたままの両足を乗せて仰向けに寝転び、目の上で両手を組んでぴくりとも動かないその人物は、立派な衣服に身を包んだ男だった。

 目元が隠されてしまっているが、すっと高い鼻と薄い唇はひどく整っていて、それだけでも彼が尋常ではない美貌の持ち主だと知れる。
 しかし、菫を驚かせたのは、そんなことではない。

 白く塗られたベンチの上に、無造作に乗せられた頭。
 それを飾る髪の色が、彼女にとっては最も身近に感じ、しかしこの世界においてまたとない色、透き通る絹糸のような白銀であったのだ。
 その色を持った人物を、菫は一人しか知らない。



「‥‥‥‥‥ヴィー?」


 囁くように呼んだ声は、しかし寝そべる相手には聞こえなかったようだ。
 白銀の髪に紫の瞳、類稀なる美貌を携えた先帝閣下が、菫の夫である。

 なんだ、彼も一緒に城に来てたんじゃないかと、一瞬菫はほっとしかけたものの、自分の身体が透けている事実を思い出して、さあどうしたものかと腕を組んだ。

 とりあえず、今の状況を分析してもらう為に、夫を起こさねばなるまい。
 菫は、普通に歩いても音の立たない足下を訝しがりながら、男が寝ているベンチの脇まで近寄っていった。
 そうして、息を吸って大きな声で彼を起こそうかと思ったが、組んだ両手の下から突き出している形のいい鼻を発見して、元来の悪戯心がむくむくとせり上がってきた。
 しかし、さっき花もすり抜けて掴めなかったことを考えると、また透けた指の中を通り抜けるだけで無駄だろうかと思ったが、やはり好奇心に勝てずに手を伸ばす。

 何も掴めないはずの菫の人差し指と親指は、しかし次の瞬間、思いがけず確かな感触を得たのだった。



「ーーーーーー!?」
「わっ‥‥‥!」


 菫はおもむろに、無言のまま男の鼻をきゅっと摘んだ。
 本当に、掴めてしまったのだ。
 それに驚いたのは、何も菫だけではなく、彼女の存在に全く気付いていなかったらしい、男の方もだった。

 彼は即座に菫の手を振り払って飛び起き、その衝撃でたたらを踏んで後ずさった少女に向かい、驚く事に腰に靡いていたらしい剣を素早く鞘から引き抜くと、それを躊躇なく構えて見せた。


「ーーーーー何者だ」

 そして、誰何をしつつ睨みつけてきた相手の顔を見て、今度は菫が盛大に驚く番であった。

 彼は、確かに菫の夫、グラディアトリアでただひとり大公爵の称号を持つ、ヴィオラント・オル・レイスウェイクなのだが、菫の知っている彼からは想像もできぬ程の感情的な様子と、何より向かい合って見たその顔が、まだ幼さを微かに残した少年のものであったのだ。

 菫は、ぽかんと口を開いて、彼を見つめることしか出来なかった。


「‥‥見ぬ顔だな、どこの家の者だ」

 そんな少女を訝しげに鋭く睨みつけつつ、剣を構えたままの男もまた、驚きを隠し切れないでいた。
 突然現れた小さな娘の、見た事もないような漆黒の髪と、今は亡き生母の他に見なかったはずの己と同色の瞳。
 それに、妹アマリアスが気に入りの、着せ替え人形によく似た可憐な容姿。
 どれをとっても、彼の記憶にある貴族の子女とは一致せず、だがその身を包む衣服の上質さを見れば、侍女や市井の娘とも思えない。
 何よりも、こんなか弱そうな娘が、今や混沌とし始めた王城の中を、一人で歩いているのがそもそもおかしい。


「ここは、ごく限られた者しか入れない庭だ。答えろ、お前は何者だ」

 まさか刺客か、と疑いつつ、ヴィオラントは彼女に剣先を突きつけたまま、まったく抵抗する素振りを見せない身体を拘束する為に、手を伸ばした。
 この東屋は、秘密の場所。
 敵だらけの王宮において、彼が唯一憩える、大切な大切な場所だ。
 たとえ、この少女が偶然迷い込んだのだとしても、見られた限り黙って帰すわけにはいかない。
 彼女が何者かの息の掛かった刺客であるならば、尚の事、生きて帰すわけにもいくまい。

 見開いた紫の瞳でこちらの顔を凝視し、沈黙したまま硬直している様子の少女の、白色のカーディガンに護られた華奢な右肩を、ヴィオラントは容赦なく掴んだーーーーはずだった。

しかし


「ーーーーーー!?」
「‥‥‥‥‥ん?」

 掴んだはずの掌は空を切り、握りこぶしに変わっただけであった。


「‥‥‥どうなっているのだ」

 よくよく見てみれば、目の前に佇む少女の身体は僅かに透けて、背後の景色が映り込んでいるではないか。
 ヴィオラントはもう一度手を伸ばし、実はとても気になっていたふわふわの黒髪に触れようとしたが、やはりそれも叶わなかった。
 しかも、それに驚いたのは少女本人もだったようで、大きな瞳をぱちくりさせて、己の不安定な両手をまじまじと見つめていたかと思うと、徐に指を伸ばして突き付けられていた剣先をちょんと摘もうとした。
 彼女に、そんな物騒なもの向けているのは己であるというのに、柔らかそうなピンク色の指先が、鋭利な刃物で傷付けられる瞬間を想像して、ヴィオラントの背筋が一瞬凍り付いた。


「‥‥‥‥やっぱ、摘めないね」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」

 ところが、彼女の指先もやはり微かに透けていて、ヴィオラントの剣を掴むことはできなかった。
 少女は、光る切っ先のすり抜けた己の指を擦り合わせて、愛らしい眉間に皺を刻んでしばしの間唸っていたが、何を思ったのか、再びヴィオラントに向かって手を伸ばしてきた。
 避けることなど容易かったが、何故かそうせずじっと沈黙した彼の腕を、小さな白い手がぽんぽんと叩いた。
 叩く事が、出来たのだ。


「んん? 触れるじゃん?」
「‥‥‥‥‥‥」

 肩に触れる事ができた少女の手は、更にちょんとつま先立って背伸びしたかと思うと、遠慮を知らぬ様子でそのまま彼の銀髪を掴んだ。
 ヴィオラントが不満げに首を振るとそれは外れたが、彼女の瞳が悪戯な輝きに満たされたのを目の当たりにして、些かたじろぐ。


「あなた、ほんとに、ヴィーなの?」
「“ヴィー”?」
「あ~、ええと、アナタワー、ヴィオラントクンナノデスカ?」
「何故、急に片言になる‥‥。本当に、お前は一体何者なのだ?」

 菫から見て、若干若々しい夫のそっくりさんは、否定しないところを見ると、その名に間違いないようだ。
 同じ名前で同じ髪で同じ瞳、そして同じ美貌の男。
 目の前に居る、自分とそう年の変わらない様子の“ヴィオラント”が、夫である一回り年上の“ヴィオラント”と同一人物とするならば、菫は今度は世界を渡って来たのではなく、時代を渡ってきてしまったと考えるべきだろう。

 まったく、またも非常識な展開である。

 夢でも見ているのかなと思って、頬を抓ってみた。

 人様の、であるが。


「‥‥‥‥‥よせ」
「あ、痛い? うん、じゃあ、夢じゃないね」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」

 夢ではなくても、やはり菫の身体が透けているところを見ると、実体はこちらに来ていないようだ。
 正直言って非常事態であり、本来ならあわあわしているところなのだが、どういうわけか不自然な程、菫の心は落ち着いていた。
 何か見えない力で、心配ないよと、支えられているような安心感がある。

 きっと、永遠にこのまま、ということはないだろうと思う。
 そうであれば、この貴重な体験の中の奇跡のような出会いを、楽しまなければ損なような気がした。




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