蔦姫の罠3
そうこうしている内に、菫が何か耳打ちしたのか、不承不承の様子ながらヴィオラントが扉から離れて、一同のいる所までやってきた。
そうして、当たり前のように席を勧めた弟皇帝に短く礼を言って、少女を抱いたままソファに腰を下ろす。
「何だ、関係ないのではなかったのか?」
「関係ないから口を挟まないけど、あなたが義弟君たちの手を煩わしそうだから、見張っとく」
「ふん、それはそれはお優しい義姉上殿だな。どうだ、お主がわしのところに来るならば正妃に据えて、今後これ以上側妃を娶るのを控えると約束しよう。それならば、可愛い義弟共を煩わせることもなかろう?」
間近で改めて見た少女は、やはり今までフランディースが出会ったことのない、可憐な姿をしていた。
彼は、人のものを欲しがる趣味はないが、奪えるものなら奪って我がものにしたいと、ふと血迷った考えが浮かぶ程、旧友の幼妻は魅力的であり、それは侍女の演技を解いた今こそ、いかんなく発揮されている。
フランディースが、冗談めかして自分の元に来ないかと告げながらも、それにいくらか本気が混じっていることを悟られたのだろうか、途端この部屋の空気が一気に温度を下げたように感じた。
穏やかに佇んでいるようにしか見えない、皇帝の第一騎士の笑顔でさえ、不穏に感じられるのだから由々しき事態だ。
唇は弧を描きながらも、全く目が笑っていない宰相や、不機嫌を隠す気もなく睨みつけてくる皇帝などまだ可愛いもので、一番恐ろしいのは、向かいの席で完璧に表情を消し去った先帝閣下だろう。
フランディースとて、様々な修羅場を乗り越えて大国を治めてきた皇帝であるから、大抵のことには動じないし、そうと分かる素振りを見せないのも容易いはずだが、さすがに分が悪いことは認めざるを得ない状況だ。
ヴィオラントの膝の上の少女がいなければ、尻尾を巻いて国に逃げ帰っていたかもしれない。
「なーに、言ってんのよ、パトラッシュ君は」
「発音がおかしいぞ。そもそも、パトラーシュは国名だが」
「ああ、フランダースさんでしたっけ?」
「だから、発音がおかしいと言うておろう。もうよい、許す。フランでよい」
「じゃあ、フランフラン。私はさ、ヴィーの奥さんなの。新婚なの。巻き込まないでよね、迷惑だから」
「何故二度重ねる? ……お主、本当に口の減らない娘だな」
不敬罪という言葉を知らないのか、皇帝である己相手にこれだけ遠慮ない言葉を打つけてくる女を、フランディースも今まで知らなかった。
面白いと、自然緩んだ頬を見られて、旧友の視線は更に突き刺さるように尖ったが、彼の怒りが沸騰するのを抑えているのが、その膝にちょこんと乗せられた少女であることは、容易に知れた。
彼女もそれを分かっているようで、明らかに不機嫌な様子の夫を宥めるように、ぴたんと柔らかそうな頬を彼のそれにくっ付けて、愛らしく甘える素振りをする。
途端、冷えきって見えたヴィオラントの表情が一瞬和らいだのを、パトラーシュの皇帝は見逃さなかった。
「……お主ほどの男が、そんな子供のような娘に骨抜きにされるなど、何たる悲劇。女の数と質を競える相手は、お主をおいて他にはないと思っていたというのに、がっかりだぞ」
「勝手に愚かな競争に巻き込まないでもらおうか。そもそも、誰しもに心を分け与えられる程、余計な愛情は持ち合わせてはいない」
新妻の居る前で、ヴィオラントの過去の女関係の激しさをちらつかせたのは、フランディースのちょっとした意趣返しであり、少しくらいぎくしゃくすればいいと思ってのことだったが、残念ながらそれに本人が焦る様子も、その妻が嫉妬をのぞかせる様子も皆無であった。
それどころか
「私が心を寄せたいのは、この妻ただ一人だ」
どんな美女にも靡かなかった美貌の先帝は、未だ白粉も載せぬ甘そうな頬に啄むようにキスを与え、フリルのヘッドドレスに飾られたふわふわの黒髪を、さも愛おしそうに撫で回し、そうして、可憐な少女を映す希少なアメジストを蕩けさせた。
「……ヴィオラントが、惚気た……」
長い付き合いではあるが、旧友がここまで何かに心酔する姿は、見たことも想像したこともなく、さすがに呆然と見入ったフランディースの肩を、横からぽんぽんと叩く者があった。
見上げれば、それは先ほどまでの腹黒さを仕舞った宰相であり、彼は苦笑を滲ませてため息を吐いた。
「まあ、驚かれるのも無理はありませんが、本物の恋というのは、どんな人間でも変えてしまうようですよ。あのとおり、兄上の姿を見れば頷けるでしょう?」
「まったく‥‥信じ難いが、ああまで見せつけられれば、さすがにな‥‥」
「あなたも、気に入った女をぽんぽん娶るのではなく、一度じっくり本物を探してみてはどうですか」
「本物とは、何ぞ? 確かにわしは恋多き自覚はあるが、心から愛した者しか召し上げてはいないぞ。その中からたった一人など、選べるわけがない」
こうまでしても、私生活を改める気がないらしいフランディースに、さすがのクロヴィスも呆れを通り越して感心する。
皇帝たる者、他人の意見を全く聞かずにいるのも考えものだが、他人の意見に左右されない信念とカリスマを持ち合わせてこそ、優れた支配者であり続けられるというのも事実であろう。
フランディースが正しい施政者である限り、パトラーシュの国民は彼の女癖の悪さに目を瞑るだろうし、彼が妃たちにとって真実平等である限り、後宮の平穏も表面上は保たれることだろう。
そう考えると、ここで下手に彼が唯一の相手を見つけてしまって、兄のようにただ一人に傾倒してしまうことは、女達の精神的な均衡を崩す、非常に危険な事態を招く可能性がある。
フランディースが側妃達にぼこぼこにされるのは一向に構わないが、それをきっかけに隣国の内政が乱れ、グラディアトリアにとばっちりが来るのは、クロヴィスとしては何が何でも御免被りたい。
「ではどうぞ、お好きに。グラディアトリアはこれ以上、その件については干渉しませんよ。御国の宰相殿には申し訳ありませんが、協力もしません。正妃問題や跡継ぎ問題でパトラーシュが乱れて、我が国に災いが飛び火するようでなければ、今後何人奥方を娶られても、我々は一向に関知致しませんので」
そもそもクロヴィスとしては、頻繁に豪華な結婚祝いを贈らねばならぬという無駄が許せないのであって、それさえなくなれば隣国の後宮事情になど、これっぽちも興味がないのだ。
「いつか、正妃様をお迎えになられる時は、是非お知らせ下さいませ。その時は、我がグラディアトリアも、皇帝が式に参列させていただきますよ」
つまり、「娶る女を正妃にするのでなければ、今後一切知らせも寄越してくれるな。そうすれば祝いという無駄な散財もせずに済む」という、あからさまな意図を匂わせて、クロヴィスがそう言って一歩後ろに下がり、胸に手を当て貴人を敬う礼をとると、その皮肉を受け取ってか、隣国の皇帝は「ふん」と鼻で笑って、ソファにふんぞり返った。
「もとより、人の恋路に口を挟もうなどと無粋なことよ。しかも、お主がヴィオラントの妻を囮に使うなどと余計なことをしたせいで、わしはまた恋に落ちてしまったではないか。五十三人目の花嫁が、最後であったかもしれぬのに」
「だから、盛大にフラれて懲りればいいでしょうが。スミレはどうあっても貴方のものにはなりませんよ」
「そうだとしても、今まで恋愛対象ではなかったあれぐらいの年頃の娘を、意識するようになるのは明白だ。少しでも似た娘を見つけると、口説いてしまうかもしれぬだろう?」
「……はあ、もう。貴方にはお手上げですね。スミレの言うように、存分に色情魔皇帝として歴史に名を刻むが宜しいでしょう。……それで首飾りの件、ルドの提示した金額でご了承いただけましたか?」
「おお、そうだった。可愛い侍女に惑わされて、本題を忘れるところだった」
結局のところ、クロヴィスの策は失敗に終わり、パトラーシュの皇帝はその後も側妃の数を増やし続けた。
クロヴィスとしては、あどけない侍女に呆気なくふられたフランディースは、そろそろ自分も若くないんだということに気づいて、少しくらいは自身の所業を省み改めて、大人しくなってくれると期待していたのだが。
そもそも彼の計画では、幼げな少女が人妻であるという事実にショックを受けている間に、菫は正体を明かさないまま下がらせる算段であった。
たとえほんの一時とはいえ、愛妻を兄弟以外の側に侍らせたことを知れば、間違いなく機嫌を損ねるであろう兄にばれないように、ちょうど手に入った珍しい異国の菓子を賄賂に、菫との密約も成立していたというのに。
既婚と聞いても懲りずに口説き続けたフランディースに、菫が足止めされたことも、ヴィオラントが予想よりも遥かに早く、皇太后陛下から逃れてきたことも、宰相閣下にとってはあるまじき誤算であり、まったく菫が絡むと何もかも思い通りにはいかないと、彼は苦笑した。
フランディースが菫を気に入ったというのも本当だったようで、彼はその後、グラディアトリアに訪問する機会がある度に、毎回恒例のように彼女を口説きにやってきて、ヴィオラントの表情筋を解すのに一役かっていたとか。
さて、今回の騒動で一番迷惑を被ったのは、何も知らずに振り回されたグラディアトリアの皇帝ルドヴィークであろうが、一番腹の虫が収まらなかったのは、何を隠そうヴィオラントである。
弟クロヴィスから相談があると懇願されて、菫と共に城に上がれば、いつにも増してテンションの高い義母に捕まり、少女のように目を輝かせて勝負を挑んでくる彼女を無碍にはできずに、仕方なく満足行くまでお付き合いし、やれやれやっと解放されたと妻を迎えに行けば、愛しい彼女は侍女のお仕着せに身を包んで、隣国の皇帝に口説かれていた。
彼女と男の間に末弟が入ってくれていたおかげで、冷静さを装って声を掛けることに成功したが、側に呼び寄せた妻には、彼が眼差しを剣呑に尖らせていることが知れたのだろう。
彼女は、ヴィオラントを刺激しないようにゆっくりとやって来て、甘えた声で彼の名を呼んだ。
見慣れぬ侍女のお仕着せを纏い、スカートを摘んでちょんと小首を傾げた少女の愛らしさと言ったら筆舌に尽くし難く、それが他の男の目に晒されたのだと思うと、余計に怒りが込み上げてくる。
始終、ヴィオラントの不機嫌を一番感じていたのは菫であり、それは彼の腕に抱かれて皇帝の執務室を出た後も続いていた。
「ねぇ、ねぇ、ヴィー? そろそろ機嫌直したら?」
「……………」
彼女は、子供のように片手で抱き上げられて、黒革の靴に包まれた両足をぷらぷらと宙に遊ばせ、近くなった怜悧な美貌を無邪気な様子で覗き込み、それから柔らかな指先で、瞳に掛かった夫の銀髪を払ってやった。
怒りを燻らせるヴィオラントのアメジストを、臆することなく覗き込めるのは、世界広しといえどこの少女くらいだろう。
己の魅力を理解している彼女は、それを最大限に活かし、苛立ちに剣呑なオーラを纏い続ける男の視線を釘付けにすると、ふわんと花が綻ぶような笑顔で彼を誘惑し、砂糖菓子のように甘い甘い声に、彼女にのみ許された呼び名を乗せた。
「ヴィー、怒らないで。そんで、このままお持ち帰りして」
「………このまま?」
「うん、このお仕着せね、本当は成人前の見習い侍女さん用らしいんだけど、あんまり需要がないし、サイズが小さくて現役の侍女さん達には着れないからって、クロちゃんがくれたの」
「ほう」
「ね、可愛いでしょ? せっかくだし、今日終日、ヴィーの専属侍女さんになるね、私」
「…………うん?」
可愛い可愛い奥方の申し出に、回廊を抜けて馬車で待っているであろう侍従長の元を目指していたヴィオラントは瞬き、思わず歩みが止まる。
「お茶をいれてさしあげますわ、ご主人様」
「……………」
「膝枕もしちゃいますわ、ご主人様」
「……………」
「肩だって揉んじゃいますわ、ご主人様」
「……………」
お茶を入れる以降は、もはや侍女の仕事ではないと突っ込む良識者は、残念ながらこの場には居合わせていなかった。
まじまじと見つめてくるヴィオラントは無言で、まだまだ先を促されているようで、菫は呆れる。
「んー? んー……じゃあ出血大サービスで、お背中も流しちゃいますわ、ご主人様」
「……もう一声」
「まー、人使いの荒いご主人様ねぇ。これより先は、サービス超過料金をいただきますけど?」
「幾らでも払おう。言い値で結構」
「わお、散財、散財! 何なりとお申し付け下さいませ、ご主人様」
くだらないことを言い交わしている内に、すっかりヴィオラントの機嫌も無事浮上したようだった。
それに満足した菫は、ふふと笑い、彼の首筋に両腕を回す。
睫毛が絡み合う程近くから、自分と同じ色合いの瞳と見つめ合い、それからふと、先ほど見たパトラーシュ皇帝の金色の瞳を思い出した。
恋多き自覚があると認めたフランディースだが、確かに菫を口説いた時の彼の瞳に、嘘はなかった。
同時に複数を愛せる種類の人間がいるのは、どの世界も一緒のようだが、全ての相手に同じ温度で情を注げる者は、けして多くはないだろう。
おそらく、フランディースはその数少ない人種であって、それ故に五十人を超える側妃達にドロドロの争いを起こさせず、新しい花嫁を想いながら他の者を口説くという、呆れた芸当ができたのだろう。
菫には理解できないし、今目の前に存在するアメジストが、例えばマックスの愛情で菫を映したとしても、同時に他の相手も映すとなったら、穏やかでないに違いない。
「スミレ、何を考えている?」
勝手な想像に、無意識のうちに菫の眉がぎゅと顰められていたようで、ヴィオラントがその心内を見透かすように、凪いだ声で問うてきた。
思えば、これが、菫が生まれて初めて経験する、色恋沙汰に関する“嫉妬”という感情であった。
それは、苛立ちと焦燥をごちゃ混ぜにし、痛いような苦しいような、ともかく不快な感覚であり。
そしていつの間に、これほどまでに彼に心を渡してしまっていたのか、という驚きを齎した。
「スミレ」と甘く呼ぶ声に、抗うようにぶんぶんと頭を振った。
菫は、初めての感情に戸惑い振り回された表情を見られないように、キスを寄せてきた夫の唇を避けて、彼の首筋に顔を伏せてしまう。
少女の幼い心の葛藤などお見通しならしい男は、いやに満足げに口角を引き上げ、それから頬をくすぐる柔らかな黒髪に、それはそれは愛おしそうにキスをした。
その後
屋敷に戻ったレイスウェイク大公爵家の当主が、終日上機嫌でいらっしゃったというのは、かの家に長く仕える侍従長殿の話である。
【蔦姫の罠:おわり】
スポンサーサイト