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五臓六腑

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蔦姫の罠2

「ーーーー同感だな」


 けして大きくはないというのに、その声には誰もを振り向かせる威力があった。


「私とて、妻を一時も側から離したくはないし、他の男に仕えるのを許した覚えもないのだがな」
「‥‥‥ヴィオラント?」
「久しいなフランディース。貴殿は相変わらずのようだ。‥‥こちらへ来なさい、ーーースミレ」

 一声でその場を支配した来訪者は、皇帝ルドヴィークの長兄であり、腐敗に混沌としかけた祖国を荒療治で建て直した稀代の先帝、ヴィオラント・オル・レイスウェイク大公爵、そのひとであった。
 類稀なる美貌を無表情で固めた彼は、珍しい紫の瞳を眇めて皇帝の執務室を見回すと、見慣れぬ侍女服に身を包み弟の背に庇われた、同じ色の瞳を持つ少女の名を呼んだ。


「‥‥‥‥‥まさか、お主が?」

 戸惑うパトラーシュの皇帝と、ほっと胸を撫で下ろすグラディアトリアの皇帝をその場に残し、小さな侍女はしずしずと優雅に呼びつけた男の前まで歩き、それから彼の前で紺のお仕着せのスカートを摘んで淑女の礼をしてみせた。

「ヴィー、可愛い?」
「ああ、可愛い。いっそ食べてしまいたいほど可愛いが、その姿をルドヴィークはともかくとして、フランディースにも見られたのかと思うと、奴の両目を抉り出したくなる」
「ああ、兄上、それは困ります。どうぞ今は堪えて下さい」

 無表情のまま物騒な台詞を吐いて、小首を傾げる少女に腕を回して抱き寄せたヴィオラントに続き、困ると言いながらも全く困った様子の無い笑顔で部屋の中に入ってきたのは、今回の首謀者たる宰相クロヴィス・オル・リュネブルク公爵だ。

「クロヴィス! どういうつもりなんだっ!」
「ああ、陛下なりませんよ。他国の客人の前でそのように余裕のない態度、我が国の沽券に関わります」
「ぐ‥‥‥‥っ‥‥!」

 ただでさえ苦手で面倒くさい客人の接待を、侍女に扮した小悪魔を投入してさらにややこしく掻き回した諸悪の根源、つまり文句を言える相手を見付けたルドヴィークは、次兄クロヴィスを睨みつけて声を荒げたが、腹黒さを覆い隠すいっそ清々しい程の笑顔で簡単に躱されてしまった。
 血の繋がった兄とはいえ、臣下相手に全く歯が立たない皇帝の姿を見られた方が、よっぽど国の沽券に関わるのではないかと宰相に意見する者は、残念ながらこの場にはいなかった。


「‥‥‥‥何だ、宰相殿。本当にその娘はヴィオラントの妻なのか」
「はい、そうですよ。我々の義姉上です。可愛らしいでしょう?」
「‥‥‥‥レイスウェイク家は、新妻を奉公に出さねばならぬ程困窮していたのか。これは、何も知らずに申し訳ない。援助してやろうではないか、その娘をわしにくれれば」
「おやおや、その世迷い言を零す口を、さっさと閉じるが宜しいでしょう。」
「失敬な。わしは真剣に申しているのだ。先程本人にも伝えたがな、あの娘が我が国に来るというなら、一番良い部屋を与えようと思う」

 扉の前に兄夫婦を残して、客人と皇帝のいるソファの側までつかつかと歩いてきたクロヴィスは、パトラーシュ皇帝の言葉を聞いてその目を眇めた。
 来月五十三人目の花嫁を迎えようという、隣国パトラーシュの皇帝フランディースは、後宮に囲った五十二人の妻達を皆平等に深く愛していると言うが、彼女達の立場は全員違わず側妃であり、いまだ正妃の称号を与えられた者は、一人もいない。
 妃同士の嫉妬や争いを避ける為にも、それぞれの居室は同等に揃えられており、そんな状況において一番良い部屋と言えば、今は誰も住む者がいない、唯一贅に差を付けた正妃の居室を指す。


「それは、スミレを正妃として迎えたいと、おっしゃっているように聞こえますが?」
「そのとおりだ」
「‥‥‥‥‥オルセオロ公爵。お腰の物を、どうぞ兄上に奪われないよう、お気をつけ下さい。」

 無駄に偉そうに胸を張って肯定してみせたフランディースに、クロヴィスは眉間の皺を指先で解しながら、愛妻の事に関しては極端に沸点の低い兄に凶器が渡らぬよう、扉の前で穏やかな笑みを浮かべて佇んでいる騎士団長に注意を忘れない。
 この状況を作り出した一因は自分にもあるので、正直今の兄の表情を見るのは気が引ける。


「しかし、貴方がそこまでだとは‥‥。私も少々読みが甘かったようです」
「うん?」
「スミレが、貴方の目に留まるのは計画通りなんですよ。でなくば、彼女にわざわざ侍女の真似事などさせはしない」
「侍女は真似事なのか。茶の用意は手慣れていたし、旨かったぞ」
「義姉を褒めていただき光栄ですよ。ですが、彼女はれっきとしたレイスウェイク大公爵の奥方であり、勿論、かの家が困窮しているなどとは完全な誤解です。むしろ彼女を娶ってから、兄上のやる気に比例して資産は増える一方で、今や皇帝家も太刀打ち出来ない状況ですから」
「ふん。では何故、その奥方にわしを誘惑させたのだ?」
「人聞きの悪い事を言うのはやめて下さい。貴方が勝手に彼女に魅せられたんでしょう。まあ、そうなると予想して彼女を送り込んだんですが‥‥。私が何をしたかったのかというとね、貴方もそろそろ落ち着くべきだと、教えて差し上げたかったのですよ」
「わしは、いつだって落ち着いている」
「いいえ、女性関連では全く。少なくとも、我々は迷惑を被っております」

 パトラーシュの皇帝は、愛して娶った五十人を超える側妃全員と、それぞれ毎回盛大な結婚式を執り行った。
 はじめのうちこそは、友好国の祝い事であるからと、当時グラディアトリアの皇帝であったヴィオラントや、その他高位の大臣たちが交代で出席していたが、その内きりがなくなって祝いの書簡と品物を贈るだけになり、それも流石にこう頻繁となると費用が嵩む。
 宰相クロヴィスにとって、フランディースへの結婚祝いはもはや無駄であり、正直どうにかならないものかと思っていたところだった。

「それに、そちらの国の方々も、あなたの放蕩ぶりにはほとほと困っている様ですよ」

 どうにかならないものかと思っているのは、パトラーシュの大臣達もである。
 ただし、彼らを悩ませているのは財政的な理由ではなく、皇帝が大勢の女性を後宮に囲っておきながら、未だ正妃を迎えていない事と、五十二人それぞれ均等の回数閨を共にしているというのに、未だ御子が一人も生まれていないというのが理由である。
 しかも、子が出来ない原因は、皇帝がわざわざ避妊の薬を服用しているからであるというのは、王家の侍医が最も憂いているところである。

「国民を安心させるのも皇帝の仕事ですよ。いつまでもふらふらしていないで、さっさと正妃を娶ってはどうです」

 現在のパトラーシュの宰相を務めるのは、フランディースとは別腹の妹であり、女ながら兄と共に幼少時代はグラディアトリアに留学し、クロヴィスとは共に当時の宰相ヒルディベルに師事した仲である。
 さっぱりとした性格の才女であり、思慮深い幼なじみから、兄皇帝フランディースの訪問に先駆けて、書簡で相談を受けていたクロヴィスは、どうにか彼の女性関係を落ち着かせる方法はないか思案していた。
 パトラーシュの宰相は、兄の旧知であり同い年のグラディアトリアの先帝が、最近ようやく妻を娶ったことを知り、彼にうまく兄を説得してもらえないものかと期待していたようで、クロヴィスもその為に兄に頼み込んで、フランディースの訪問に合わせて王城に来てもらったのだが、肝心の相談をする前に、ヴィオラントが皇太后陛下に捕まってしまったことは、誤算であった。
 最近、新しい盤を手に入れたらしい皇太后エリザベスは、いまだチェスでは一勝もできない長男に並々ならぬ闘志を燃やしており、稀代の先帝に有無を言わせず従わせる姿は、女帝さながら。
 仕方なく彼女に付き合うことに決めたヴィオラントは、一緒に登城した愛妻を退屈させないために、「弟たちの執務室のどちらかにいなさい」と言い聞かせてから、大人しく義母上の私室に拉致されたのだった。


「わしが正妃を娶るのと、ヴィオラントの妻に侍女の真似事をさせるのと、一体何の関係があるのだ。彼女を正妃にと薦めているのならば、喜んでもらいうけるぞ?」
「……ですから、滅多なことをおっしゃるのは、やめて下さいってば。誰が貴方のような女たらしに、大事な義姉上をくれてやりますか。スミレなら、貴方のことを間違いなくフッてくれると思ったから、送り込んだんですよ」

 予定通り、ヴィオラントにフランディースを説得してもらうよう、彼が義母上から解放されるのを待とうかと思ったクロヴィスだったが、可愛い可愛い兄の細君を預かったことで、違う考えが浮かんだようだ。

「スミレの容姿に貴方が食いつくのは疑う余地もありませんでしたからね。女性に断られた経験のない貴方のことです、こんな少女に盛大にふられれば少しは目を覚ますんじゃないかと思ったのですが……、予想以上の反応には驚きましたね」
「……そんなの、他にも見目のいい侍女はいるだろう。何もスミレを駆り出さなくても彼女たちにさせればよかったじゃないか」

 不満そうに声を上げたのは、何も知らずに巻き込まれた皇帝ルドヴィークで、しかしそんな彼に実兄である宰相は呆れたようにため息を吐いた。

「分かってませんねぇ、ルドは。侍女共が、いざフランディースに口説かれて本当にそれを断れると思いますか? 彼女たちにとっては、またとない玉の輿のチャンスをですよ? 彼の、五十四番目の花嫁になるのがオチでしょう」
「………………」
「その点、スミレは全く心配いりません。彼女が、フランディースに靡くことなど、あり得ませんから」
「言ってくれるではないか、クロヴィス。もしも、あの娘がヴィオラントよりわしを選べば、お主は一体どうするつもりだったのだ」
「だから、そんなこと、万が一にもあり得ないと言っているんです」

 鼻で笑われ、さすがに自尊心を傷つけられて眉を顰めたパトラーシュの皇帝に、グラディアトリアの宰相は、いっそ華やかな笑顔を浮かべて宣った。


「兄上より貴方を選ぶような浅はかな女を、私が義姉などと認めるとお思いですか」
「……………」


 潔く真っ黒な腹の内を曝け出した相手に、返す言葉が見つからなくて、離れた場所に居る件の男を見やったフランディースの目に映ったのは、遂には妻たる少女を抱き上げて部屋を出て行こうとする、ヴィオラントの姿だった。
 まだあどけなさの色濃い少女は人形のように愛らしく、側妃の何人かの部屋で見た、精巧なドールによく似ている。
 在位時代の武勇伝は、フランディースに勝らずとも劣らない、若くして皇位を退いた旧友が、それはそれは大事そうに、幼げな少女を腕に抱え上げているのを見るのは、なかなか複雑な気分である。

「待たれよ、ヴィオラント」

 それと共に、いつも自身に群がる女たちをうまく利用して立ち回っていたはずの彼が、小さな少女に完璧に振り回されている様子は、ひどくフランディースの興を誘った。


「その娘は、先ほどグラディアトリア皇帝自ら己の侍女だと肯定した者だ。わしは客人であるパトラーシュ皇帝として、彼女に茶をもう一杯所望する。勝手に連れ出すことなど罷り成らぬ」
「……………」

 そのままヴィオラントが彼女を連れていってしまえば、もう二度と会わせてはもらえないような気がするので、せっかく持った権力を振りかざして友の足を止まらせた。
 そうして、フランディースの言葉に、扉の取手に手を掛けたまま振り向いた、今でも大陸一と名高いグラディアトリアの先帝閣下の美貌は、見た者の背筋を凍らせるに容易い絶対零度の冷たさを宿していた。
 フランディースのせいで、同じようにその視線に晒され、ルドヴィークは青い顔をして背筋を伸ばし、クロヴィスは「あ~あ」という風に天を仰いだ。


「これ以上、妻をくだらぬ茶番に付き合わせるつもりはない」
「だがその妻は、茶番と分かっていてクロヴィスの策に乗ったのだろう。それは、彼女の意思ではないか。本日はルドに侍女として仕えると自ら口にしたのを、わしも聞いている。皇帝二人の前でした口約を違うなどと、大公家の奥方の品位を疑われるぞ?」
「この娘を、肩書きで縛るつもりも重責を負わせるつもりもない。品位を疑いたいならば勝手にすればいいが、我妻を貶め傷付けるのが目的ならば、それ相応の覚悟をしておくがいい」
「ああ、何だかお主、とてつもなく物騒な旦那に成り下がったな……。まあ、いい。ーーーーおい、スミレとやら」

 片手で子供を抱くように菫を抱え、扉の取手から外れた利き手がもしも得物を握っていれば、間違いなく相手の喉元に突きつけているだろう剣呑な雰囲気で、ヴィオラントは古い馴染みに向き直った。
 フランディースが妻の名を呼んだ途端、彼の秀麗な眉がぎゅっと不快げに寄ったのを見て、いつの間に無表情を克服したのだと、パトラーシュの皇帝は今更ながらに驚いた。
 名を呼ばれた少女は、夫の腕に抱き上げられたまま、首だけくるんと動かして声の主を振り向き、それから稀色の瞳をしばたかせて、甘い色の唇を開いた。


「なに? フランダースのパトラッシュさん」
「うん? 発音がおかしいのではないか? ……ああ、お主は異国の出か」
「そうなんですよ。私の国において、貴方の名はあまりにも有名で、しかも涙を誘うの」

 「なんたって、世界名作劇場ですから。感動名場面殿堂入りですから」と頷く彼女の言葉を、フランディースはほとんど理解できなかったが、その態度が侍女を演じていた時の様子と全く違うことには気がついた。
 さては猫を被っていたなと思いながらも、大人しく慎ましい女には間に合っているフランディースにとって、隣国の皇帝と知りながらも畏まったり謙った様子のない、おそらく少女の素の態度で返されたことは、生意気だと苦笑させられるが不快ではなかった。
 むしろ新鮮で愛らしく、なるほどこの可憐で清楚な容姿を裏切る奔放さが、かの先帝閣下を陥落させた手管かと、納得させられる。


「宰相殿の手駒となって、わしの私情に口を挟んだのだ。最後まで責任を持たぬか」
「やだよ、面倒くさい。そもそも女好きは一生治らないよって、私はクロちゃんにも忠告したよ。それでもいいから協力してって言われたから手伝っただけだし。貴方がどれだけ女の子囲おうと、どんな偉業をしても、結局は色情魔皇帝と歴史に名を刻まれようと、私にはどうでもいいし、関係ない」
「ぬ……、愛らしい唇から盛大に毒を吐くな、お主。さすがに今のは、ぐさっと来たぞ。それに…“クロちゃん”とは、まさか」
「私のことですよ。文句ありますか。スミレ以外が呼んだら捻り潰すところですよ」

 こちらも、相変わらず笑顔で毒を吐きまくる宰相を振り返り、グラディアトリアに留学中に見た幼少時代の彼は、こんなキャラだったかと、フランディースは首を捻った。
 己の腹違いの妹と共に、当時の宰相シュタイアー公爵にくっついていた頃は、生真面目なだけで面白みのない奴だと思っていたが、とんだ誤解だったようだ。





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