蔦姫の余興5
Happy Halloween
シュタイアー公爵と皇太后兄妹の地図には、棒が付いた星の絵が描かれていた。
描いた本人であるイメリア夫人に、これは何かと尋ねると、菫曰く魔女の杖・スターワンドであると言う。
これも柄の部分に物が入れられるようになっていて、見れば分かると夫人はにっこり微笑んだ。
一方、ヴィオラントとルドヴィークの地図には、黒い蝙蝠の絵が描かれており、それも小物を入れられるようになっているらしい。
各々の地図を確認した後発組は、では健闘を祈ると冗談を交わし、それぞれ指定された扉を開いて中に入って行った。
イメリア夫人はそれを見送ると、共に控えていた老執事に声を掛け、後の片付けを侍女に任せて、裏道からゴールの部屋へと移動することにした。
「‥‥‥うう~ん。我が屋敷ながら、こう心許ない灯りだけで歩くと、なかなか新鮮なものだねえ」
「暢気な事おっしゃってないで、しっかりエスコートして下さいませ。お兄様」
「うんうん、任せておきなさい」
奇しくも、偶然ペアになったシュタイアー公爵と皇太后エリザベスにとっては、この屋敷は生まれ育った馴染みの深いものである。
思えば、兄妹二人きりで寄り添って歩く事など、もう何十年振りのことであろうか。
兄は、自分が不甲斐ないばかりに、愛する女性だけでなくこの妹にも大層辛い思いをさせてしまったことを、一生後悔し続けるだろう。
けれど、心優しい妹は兄を許し全てを許し、国母の名に恥じぬ立派な女性に成長した。
エリザベスは、シュタイアー公爵家にとっても、兄ヒルディベルにとっても誇りである。
「しかし、スミレは本当に面白い子だね。あの子が来てから、退屈しないねぇ」
「ええ、本当に。私たちも、いい大人があんな小さな子に振り回されて、周りから見ればさぞおかしいのでしょうけれど、でも全然嫌な気分にならないのですもの」
「生まれ持った才能というか、いっそ魔術だね。敵に回すと、一番厄介そうな相手だよ」
「スミレには、私が先に目を付けておりましたのに、お兄様ったら横から手を出して‥‥ずるいですわ」
「うう‥‥あれはヴィオラントの方からさぁ‥‥。根に持ってるんだね、妹よ」
「一生お恨みしますわ、お兄様」
「おおう」と大袈裟に天を仰いだシュタイアー公爵の目に、ちょうどその時、地図上の絵を彷彿とさせる物体が映った。
かぼちゃランタンで照らして良く見てみると、それは彼の掌程ある大きな青い星の下部に棒が突き刺さっていて、透明な柄の部分は中が空洞になり、何かがぎっしりと詰まっている。
「おお、これかな? これをゴールに持っていけばいいのか‥‥‥」
壁に掛けられた額縁の隙間に、ぶすりと無造作に刺さっていたそれを、シュタイアー公爵が手に取った瞬間、すぐ先の曲がり角から何やら小さな影がたくさん飛び出してきた。
そして、驚いて咄嗟に妹エリザベスを背に庇った公爵に向い、甲高い声が一斉にこう告げた。
「トリック・オア・トリートッ!!」
「‥‥‥‥なるほど」
一方、同じ頃。
目的のアイテムである、“ふわふわフェイクファーの蝙蝠バッグ(キャンディ入り)”を、難なく確保したヴィオラントとルドヴィークは、別ルートの二人と同じように、小さな者達による襲撃を受けていた。
しかし、こちらは予め忍ばせていたキャンディを彼らに配り、無事悪戯を回避することに成功したのだ。
高貴な身分の男二人に群がりキャンディを強請るのは、目鼻口の部分に穴を開けた白い布を被ったり、口紅で耳まで大きな口を描いたり、菫がカーティスに与えたような獣の耳や尻尾を付けたりと、それぞれユーモア溢れる仮装を施した幼い集団だ。
おそらく、シュタイアー家に仕える使用人の子供達だろう。
如何に今夜は無礼講だ存分に悪戯しても宜しいと言われようと、我が国の皇帝や敬愛する先帝閣下をはじめ、高貴な身分の方々に対して、大それた真似を大人の使用人に請うのは酷な事だ。
そこで思案した主催者、もとい首謀者菫は、まだまだ畏れを知らない小さな子供達に協力を仰いだのだ。
菫はこの半月の間、実家となったシュタイアー家に何度も足を運び、同伴したヴィオラントが陽気な実父に絡まれている隙に、子供達を集めて打ち合わせをしていたらしい。
まず、それぞれ仮装したい格好を決めさせて、イメリア夫人の協力のもと衣装を揃え、お菓子を貰えなかった時の悪戯についても意見を募った。
そうして、ヴィオラントとルドヴィークにはペタペタの刑ーーー水で練った小麦粉をペタペタ塗り付けられて、全身子供の白い手形だらけにされる刑ーーーが用意されていたのだが、残念ながらそれが実行されることはなかった。
色とりどりのキャンディをたくさん貰った子供達は大喜びで、もう大きな男達になど興味はないようだ。
無表情閣下の「寝る前に、きちんと歯を磨きなさい」との言葉に、「は~~い!」と素直な返事を返して、小さなお化け達は親が待っているらしい扉にぞろぞろと姿を消した。
「やれやれ、兄上のおかげで悪戯されずに済みましたね」
「ふむ、実に愛らしいお化け達だったな。あれらの頭がスミレだと思うと、何とも微笑ましいではないか」
「‥‥‥ぷっ、確かに」
小さなお化け達を集めて、真剣な顔で相談する可愛い魔女っ子を思い浮かべて、綺麗な姿のまま罠をクリアした男達は頬を緩めた。
後は、特に指示がないので地図通りのルートを辿ればゴールだろう。
途中、ホラーな飾りや大きな音を立てる仕掛けが彼らを待ち受けていたが、さすがに大国の皇族たるや、そんなものを怖がる程か弱く生きてきてはいないので、双方涼しい顔をして見事にスルーである。
特にルドヴィークにしてみれば、長兄が一緒にいるというのに、怖いものなどあろうはずがない。
否、彼以上に怖いものなどありはしない、が正しい。
「‥‥兄上には、怖いものなんてあるのですか?」
「もちろん、ある」
「‥‥えっ? あったんですか?」
「“あった”というか、“できた”というのが正しいな」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「どうした、ルドヴィーク。それが何なのか、聞かないのか?」
聞かなくても、ルドヴィークにはすぐにそれが何であるか分かった。
この無敵の長兄が恐れるもの。
それは、ルドヴィーク自身の心をも甘く揺さぶり続ける存在。
“彼女”の他に、一体何があろうか。
「‥‥‥聞きません。どうせ、惚気るんでしょう」
「良く分かっているではないか。賢いな、ルドヴィーク」
「‥‥‥兄上は、最近意地悪をなさるようになった!」
「私は、そなたの背を押しているつもりなのだがな」
ルドヴィークが冷静な皇帝の仮面を脱ぎ捨て、少年らしい悔しさを滲ませた目でヴィオラントを睨むと、長兄は苦笑するように目を細めて青い末弟を見下ろした。
慈しんで見守り、皇帝にまで押し上げた一番下の弟が、己の妻を未だに諦め切れていないのは知っている。
ヴィオラントは、彼が成人した今でも末弟のことは可愛いし、その望みなら大抵のことなら叶えてやろうと思うのだが、妻のことに関しては微かにでも譲るつもりはない。
もちろん、そんなことはルドヴィークとて承知の上であるし、長兄から少女を奪おうとも、ましてや奪えるとも思っていないので、今更彼ら夫婦に茶々を入れるつもりは毛頭ないのだが、ついつい恋しさを隠し切れずに小さな姿を目で追ってしまうのをやめられない。
「正妃を早く決めろと、だいぶ大臣達に責付かれているそうではないか」
「‥‥‥まだ、妃などいらないです」
「それに関しては、私も偉そうな事は言えないが‥‥‥、義母上をあまり心配させるな」
「はっ、母上はっ! 面白がってるだけで、心配なんてしてらっしゃいませんっ!」
ルドヴィークの実母である皇太后エリザベスは、ようやく一番上の息子であるヴィオラントが菫という伴侶を得、双児の娘アマリアスとミリアニスが懐妊すると、今度はいまだ独身を貫く下の息子達に矛先を向けて来た。
要領のいいクロヴィスはいつも上手く躱しているようだが、ルドヴィークは妃の話を持ち出される度に、つい菫の顔を思い浮かべては必要以上に動揺してしまう。
「しかも、何故か胸元豊かな女性ばかり、いやに勧められる。本気で推しているとは思えないっ!」
「ほう‥‥」
「胸なんか大きくても小さくても関係ないと、何度言っても聞いて下さらない。例え小さくても、私は‥‥‥」
「ーーーールドヴィーク」
例え小さくても、私は構わない
そう続けようとしたルドヴィークが、小さいの基準にしたささやかな胸の持ち主を見透かしたらしいヴィオラントは、冷たい目をして背後の弟を振り返る。
その眼差しにはっとなったルドヴィークは、己の無礼に気付き頬を赤らめ、そうしてひどく情けない気分になった。
「例え想像上であろうと、あれの身体を話題にされるのは不愉快だ」
「‥‥‥大変失礼を‥‥致しました」
「義母上も冗談が過ぎるな。これでは、余計にそなたが出会いを敬遠してしまう。後で一言申し上げておこう」
「‥‥‥‥何だか、居たたまれないので、もういいです」
消沈した様子でふらふらと廊下を進んで行く末弟を、さすがに可哀想に思ったらしいヴィオラントは、ふっと溜息を吐いて眼差しを改めた。
そして、苦笑を滲ませ、その背に向って待ったを掛ける。
「待て、ルドヴィーク。もう一つ、持ち帰らねばならないものがあるようだ」
「‥‥‥え、何ですか? 地図には蝙蝠の印しか付いてませんよ?」
長兄の声の調子がいつも通り穏やかに戻っていることに気付き、ルドヴィークも平静を取り繕って彼を振り返り、手に持っている蝙蝠の小物入れを掲げて見せた。
何があっても兄を敬愛する気持ちは変わらないし、菫を想うのとはまた違った意味で、ルドヴィークにとってヴィオラントは永遠に想い続ける目標なのだ。
ヴィオラントは立ち止まった弟にランタンを預けると、首を傾げる彼をよそに気配を消して、そっと前方の曲がり角に近付いていった。
この廊下は、地図では真っ直ぐに進むように指定されていて、それに従ってゴールを目指すならば曲がる必要のない角である。
彼は、足音を忍ばせてぎりぎりまで近付くと、訝し気な弟の目の前で暗闇の中にさっと身を滑り込ませた。
次いで曲がり角の向こうから、「んぎゃっ!」という悲鳴が上がる。
ルドヴィークにとっても馴染みのある、先程の子供達とはまた違った類いの高い声だった。
慌ててルドヴィークが曲がり角まで駆け寄り、灯りが落とされて真っ暗なその先をかぼちゃのランタンで照らすと、壮絶に妖しく美しい夜の王に、可憐な魔女が捕われている光景が浮かび上がった。
「ーーーースミレっ?」
「見つかっちゃった。こっそり、皆が悪戯されるの見物してたのにぃ」
菫は、二つのコースのちょうど真ん中を走るルートを行ったり来たりして、双方の様子を窺っていたらしい。
お化けに扮した子供達に、飛び出すタイミングを指示していたのも彼女だった。
もちろんそれは、小さな子供相手に手も足も出ない大人達の滑稽な様子を、一番近くで見て楽しむためだ。
「それはそれは、さぞ楽しんだことだろう」
「うんっ!‥‥‥でも、ヴィーとルドはやられなかったんだね。メッセージに気付いたんだ?」
「ああ」
「もしかして、皇太后様にだけ教えた? 皇太后様もマミィのキャンディ持ってたし」
「義母上が悪戯されるのは、さすがに気の毒だったのでな。構わなかっただろう?」
「うん、ダディで充分楽しんだからいいよ。それより、気付いたのに他のメンバーには教えないなんて、ヴィー‥‥お主も悪よのぅ」
「なに、そなたほどではあるまいて」
‥‥‥兄上もスミレも、どっちも黒い‥‥
ルドヴィークの知らない悪代官ごっこで締めくくった腹黒夫妻に、純朴な皇帝は頬を引き攣らせる。
そんな彼に気付いた菫は、ヴィオラントに抱き上げられて高くなった位置から手を伸ばし、藍のロングコートを羽織った海賊王の肩をぽんぽんと叩くと、魅惑的な魔女の顔を作って口を開いた。
「ルドー! トリック・オア・トリート!!」
「まだするかっ!?」
思わず叫び返したルドヴィークに、一瞬勝利を確信した菫だったが、彼が半眼になって蝙蝠バッグの中身を掴み、「ほら、やる」とぞんざいにキャンディを差し出すと、途端にがっかりした顔になった。
「ちぇー、つまんないー」
「うるさい、子供はそれでも舐めていろ」
「まっ、おねえちゃまに対して何たる口のきき方!」
そこにお座り!
正座しな!
折檻だ、折檻!
と、お怒りの義姉上様を無視して、悩める青少年な皇帝陛下は、かぼちゃランタンを掲げてさっさと先に歩き始めた。
その後ろから、膨れっ面な少女を宥めつつ、心中は愛妻をようやく我が手に確保してご満悦な先帝閣下が続く。
この道を真っ直ぐ突き当たって、右に曲がればもうすぐゴールの部屋だという時、三人の前をふと淡い光が横切った。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥二人とも、黙り込んでどうした?」
まず、ヴィオラントとルドヴィークの指定されたルートを先攻したのは、クロヴィスとディクレスのペアだ。
彼らは既にゴールを完了しており、だからこそ後攻組が出発できたはずだ。
そして、別ルートを通ってくる組は、今彼ら三人がいる場所とは、ゴールの部屋を挟んで対称になる廊下を通ってくることになっている。
つまり、同時に出発したシュタイア―公爵と皇太后のペアに出会うとすれば、この先の角を曲がってからしか有り得ないのだ。
菫が仕込んだお化け隊のちびっ子達は、既に双方のルートで役目を終えて、保護者が控える部屋に帰っている。
今宵は、シュタイアー家の使用人達全員を、地図にあるコース上から完全排除しているので、彼らにばったり会うという事も考えられない。
菫達の前方を横切った光は、ふよふよと宙を舞っていたかと思うとその場に留まり、まるで彼女達がやってくるのを待ち構えているようだった。
シュタイアー公爵と皇太后兄妹の地図には、棒が付いた星の絵が描かれていた。
描いた本人であるイメリア夫人に、これは何かと尋ねると、菫曰く魔女の杖・スターワンドであると言う。
これも柄の部分に物が入れられるようになっていて、見れば分かると夫人はにっこり微笑んだ。
一方、ヴィオラントとルドヴィークの地図には、黒い蝙蝠の絵が描かれており、それも小物を入れられるようになっているらしい。
各々の地図を確認した後発組は、では健闘を祈ると冗談を交わし、それぞれ指定された扉を開いて中に入って行った。
イメリア夫人はそれを見送ると、共に控えていた老執事に声を掛け、後の片付けを侍女に任せて、裏道からゴールの部屋へと移動することにした。
「‥‥‥うう~ん。我が屋敷ながら、こう心許ない灯りだけで歩くと、なかなか新鮮なものだねえ」
「暢気な事おっしゃってないで、しっかりエスコートして下さいませ。お兄様」
「うんうん、任せておきなさい」
奇しくも、偶然ペアになったシュタイアー公爵と皇太后エリザベスにとっては、この屋敷は生まれ育った馴染みの深いものである。
思えば、兄妹二人きりで寄り添って歩く事など、もう何十年振りのことであろうか。
兄は、自分が不甲斐ないばかりに、愛する女性だけでなくこの妹にも大層辛い思いをさせてしまったことを、一生後悔し続けるだろう。
けれど、心優しい妹は兄を許し全てを許し、国母の名に恥じぬ立派な女性に成長した。
エリザベスは、シュタイアー公爵家にとっても、兄ヒルディベルにとっても誇りである。
「しかし、スミレは本当に面白い子だね。あの子が来てから、退屈しないねぇ」
「ええ、本当に。私たちも、いい大人があんな小さな子に振り回されて、周りから見ればさぞおかしいのでしょうけれど、でも全然嫌な気分にならないのですもの」
「生まれ持った才能というか、いっそ魔術だね。敵に回すと、一番厄介そうな相手だよ」
「スミレには、私が先に目を付けておりましたのに、お兄様ったら横から手を出して‥‥ずるいですわ」
「うう‥‥あれはヴィオラントの方からさぁ‥‥。根に持ってるんだね、妹よ」
「一生お恨みしますわ、お兄様」
「おおう」と大袈裟に天を仰いだシュタイアー公爵の目に、ちょうどその時、地図上の絵を彷彿とさせる物体が映った。
かぼちゃランタンで照らして良く見てみると、それは彼の掌程ある大きな青い星の下部に棒が突き刺さっていて、透明な柄の部分は中が空洞になり、何かがぎっしりと詰まっている。
「おお、これかな? これをゴールに持っていけばいいのか‥‥‥」
壁に掛けられた額縁の隙間に、ぶすりと無造作に刺さっていたそれを、シュタイアー公爵が手に取った瞬間、すぐ先の曲がり角から何やら小さな影がたくさん飛び出してきた。
そして、驚いて咄嗟に妹エリザベスを背に庇った公爵に向い、甲高い声が一斉にこう告げた。
「トリック・オア・トリートッ!!」
「‥‥‥‥なるほど」
一方、同じ頃。
目的のアイテムである、“ふわふわフェイクファーの蝙蝠バッグ(キャンディ入り)”を、難なく確保したヴィオラントとルドヴィークは、別ルートの二人と同じように、小さな者達による襲撃を受けていた。
しかし、こちらは予め忍ばせていたキャンディを彼らに配り、無事悪戯を回避することに成功したのだ。
高貴な身分の男二人に群がりキャンディを強請るのは、目鼻口の部分に穴を開けた白い布を被ったり、口紅で耳まで大きな口を描いたり、菫がカーティスに与えたような獣の耳や尻尾を付けたりと、それぞれユーモア溢れる仮装を施した幼い集団だ。
おそらく、シュタイアー家に仕える使用人の子供達だろう。
如何に今夜は無礼講だ存分に悪戯しても宜しいと言われようと、我が国の皇帝や敬愛する先帝閣下をはじめ、高貴な身分の方々に対して、大それた真似を大人の使用人に請うのは酷な事だ。
そこで思案した主催者、もとい首謀者菫は、まだまだ畏れを知らない小さな子供達に協力を仰いだのだ。
菫はこの半月の間、実家となったシュタイアー家に何度も足を運び、同伴したヴィオラントが陽気な実父に絡まれている隙に、子供達を集めて打ち合わせをしていたらしい。
まず、それぞれ仮装したい格好を決めさせて、イメリア夫人の協力のもと衣装を揃え、お菓子を貰えなかった時の悪戯についても意見を募った。
そうして、ヴィオラントとルドヴィークにはペタペタの刑ーーー水で練った小麦粉をペタペタ塗り付けられて、全身子供の白い手形だらけにされる刑ーーーが用意されていたのだが、残念ながらそれが実行されることはなかった。
色とりどりのキャンディをたくさん貰った子供達は大喜びで、もう大きな男達になど興味はないようだ。
無表情閣下の「寝る前に、きちんと歯を磨きなさい」との言葉に、「は~~い!」と素直な返事を返して、小さなお化け達は親が待っているらしい扉にぞろぞろと姿を消した。
「やれやれ、兄上のおかげで悪戯されずに済みましたね」
「ふむ、実に愛らしいお化け達だったな。あれらの頭がスミレだと思うと、何とも微笑ましいではないか」
「‥‥‥ぷっ、確かに」
小さなお化け達を集めて、真剣な顔で相談する可愛い魔女っ子を思い浮かべて、綺麗な姿のまま罠をクリアした男達は頬を緩めた。
後は、特に指示がないので地図通りのルートを辿ればゴールだろう。
途中、ホラーな飾りや大きな音を立てる仕掛けが彼らを待ち受けていたが、さすがに大国の皇族たるや、そんなものを怖がる程か弱く生きてきてはいないので、双方涼しい顔をして見事にスルーである。
特にルドヴィークにしてみれば、長兄が一緒にいるというのに、怖いものなどあろうはずがない。
否、彼以上に怖いものなどありはしない、が正しい。
「‥‥兄上には、怖いものなんてあるのですか?」
「もちろん、ある」
「‥‥えっ? あったんですか?」
「“あった”というか、“できた”というのが正しいな」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「どうした、ルドヴィーク。それが何なのか、聞かないのか?」
聞かなくても、ルドヴィークにはすぐにそれが何であるか分かった。
この無敵の長兄が恐れるもの。
それは、ルドヴィーク自身の心をも甘く揺さぶり続ける存在。
“彼女”の他に、一体何があろうか。
「‥‥‥聞きません。どうせ、惚気るんでしょう」
「良く分かっているではないか。賢いな、ルドヴィーク」
「‥‥‥兄上は、最近意地悪をなさるようになった!」
「私は、そなたの背を押しているつもりなのだがな」
ルドヴィークが冷静な皇帝の仮面を脱ぎ捨て、少年らしい悔しさを滲ませた目でヴィオラントを睨むと、長兄は苦笑するように目を細めて青い末弟を見下ろした。
慈しんで見守り、皇帝にまで押し上げた一番下の弟が、己の妻を未だに諦め切れていないのは知っている。
ヴィオラントは、彼が成人した今でも末弟のことは可愛いし、その望みなら大抵のことなら叶えてやろうと思うのだが、妻のことに関しては微かにでも譲るつもりはない。
もちろん、そんなことはルドヴィークとて承知の上であるし、長兄から少女を奪おうとも、ましてや奪えるとも思っていないので、今更彼ら夫婦に茶々を入れるつもりは毛頭ないのだが、ついつい恋しさを隠し切れずに小さな姿を目で追ってしまうのをやめられない。
「正妃を早く決めろと、だいぶ大臣達に責付かれているそうではないか」
「‥‥‥まだ、妃などいらないです」
「それに関しては、私も偉そうな事は言えないが‥‥‥、義母上をあまり心配させるな」
「はっ、母上はっ! 面白がってるだけで、心配なんてしてらっしゃいませんっ!」
ルドヴィークの実母である皇太后エリザベスは、ようやく一番上の息子であるヴィオラントが菫という伴侶を得、双児の娘アマリアスとミリアニスが懐妊すると、今度はいまだ独身を貫く下の息子達に矛先を向けて来た。
要領のいいクロヴィスはいつも上手く躱しているようだが、ルドヴィークは妃の話を持ち出される度に、つい菫の顔を思い浮かべては必要以上に動揺してしまう。
「しかも、何故か胸元豊かな女性ばかり、いやに勧められる。本気で推しているとは思えないっ!」
「ほう‥‥」
「胸なんか大きくても小さくても関係ないと、何度言っても聞いて下さらない。例え小さくても、私は‥‥‥」
「ーーーールドヴィーク」
例え小さくても、私は構わない
そう続けようとしたルドヴィークが、小さいの基準にしたささやかな胸の持ち主を見透かしたらしいヴィオラントは、冷たい目をして背後の弟を振り返る。
その眼差しにはっとなったルドヴィークは、己の無礼に気付き頬を赤らめ、そうしてひどく情けない気分になった。
「例え想像上であろうと、あれの身体を話題にされるのは不愉快だ」
「‥‥‥大変失礼を‥‥致しました」
「義母上も冗談が過ぎるな。これでは、余計にそなたが出会いを敬遠してしまう。後で一言申し上げておこう」
「‥‥‥‥何だか、居たたまれないので、もういいです」
消沈した様子でふらふらと廊下を進んで行く末弟を、さすがに可哀想に思ったらしいヴィオラントは、ふっと溜息を吐いて眼差しを改めた。
そして、苦笑を滲ませ、その背に向って待ったを掛ける。
「待て、ルドヴィーク。もう一つ、持ち帰らねばならないものがあるようだ」
「‥‥‥え、何ですか? 地図には蝙蝠の印しか付いてませんよ?」
長兄の声の調子がいつも通り穏やかに戻っていることに気付き、ルドヴィークも平静を取り繕って彼を振り返り、手に持っている蝙蝠の小物入れを掲げて見せた。
何があっても兄を敬愛する気持ちは変わらないし、菫を想うのとはまた違った意味で、ルドヴィークにとってヴィオラントは永遠に想い続ける目標なのだ。
ヴィオラントは立ち止まった弟にランタンを預けると、首を傾げる彼をよそに気配を消して、そっと前方の曲がり角に近付いていった。
この廊下は、地図では真っ直ぐに進むように指定されていて、それに従ってゴールを目指すならば曲がる必要のない角である。
彼は、足音を忍ばせてぎりぎりまで近付くと、訝し気な弟の目の前で暗闇の中にさっと身を滑り込ませた。
次いで曲がり角の向こうから、「んぎゃっ!」という悲鳴が上がる。
ルドヴィークにとっても馴染みのある、先程の子供達とはまた違った類いの高い声だった。
慌ててルドヴィークが曲がり角まで駆け寄り、灯りが落とされて真っ暗なその先をかぼちゃのランタンで照らすと、壮絶に妖しく美しい夜の王に、可憐な魔女が捕われている光景が浮かび上がった。
「ーーーースミレっ?」
「見つかっちゃった。こっそり、皆が悪戯されるの見物してたのにぃ」
菫は、二つのコースのちょうど真ん中を走るルートを行ったり来たりして、双方の様子を窺っていたらしい。
お化けに扮した子供達に、飛び出すタイミングを指示していたのも彼女だった。
もちろんそれは、小さな子供相手に手も足も出ない大人達の滑稽な様子を、一番近くで見て楽しむためだ。
「それはそれは、さぞ楽しんだことだろう」
「うんっ!‥‥‥でも、ヴィーとルドはやられなかったんだね。メッセージに気付いたんだ?」
「ああ」
「もしかして、皇太后様にだけ教えた? 皇太后様もマミィのキャンディ持ってたし」
「義母上が悪戯されるのは、さすがに気の毒だったのでな。構わなかっただろう?」
「うん、ダディで充分楽しんだからいいよ。それより、気付いたのに他のメンバーには教えないなんて、ヴィー‥‥お主も悪よのぅ」
「なに、そなたほどではあるまいて」
‥‥‥兄上もスミレも、どっちも黒い‥‥
ルドヴィークの知らない悪代官ごっこで締めくくった腹黒夫妻に、純朴な皇帝は頬を引き攣らせる。
そんな彼に気付いた菫は、ヴィオラントに抱き上げられて高くなった位置から手を伸ばし、藍のロングコートを羽織った海賊王の肩をぽんぽんと叩くと、魅惑的な魔女の顔を作って口を開いた。
「ルドー! トリック・オア・トリート!!」
「まだするかっ!?」
思わず叫び返したルドヴィークに、一瞬勝利を確信した菫だったが、彼が半眼になって蝙蝠バッグの中身を掴み、「ほら、やる」とぞんざいにキャンディを差し出すと、途端にがっかりした顔になった。
「ちぇー、つまんないー」
「うるさい、子供はそれでも舐めていろ」
「まっ、おねえちゃまに対して何たる口のきき方!」
そこにお座り!
正座しな!
折檻だ、折檻!
と、お怒りの義姉上様を無視して、悩める青少年な皇帝陛下は、かぼちゃランタンを掲げてさっさと先に歩き始めた。
その後ろから、膨れっ面な少女を宥めつつ、心中は愛妻をようやく我が手に確保してご満悦な先帝閣下が続く。
この道を真っ直ぐ突き当たって、右に曲がればもうすぐゴールの部屋だという時、三人の前をふと淡い光が横切った。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥二人とも、黙り込んでどうした?」
まず、ヴィオラントとルドヴィークの指定されたルートを先攻したのは、クロヴィスとディクレスのペアだ。
彼らは既にゴールを完了しており、だからこそ後攻組が出発できたはずだ。
そして、別ルートを通ってくる組は、今彼ら三人がいる場所とは、ゴールの部屋を挟んで対称になる廊下を通ってくることになっている。
つまり、同時に出発したシュタイア―公爵と皇太后のペアに出会うとすれば、この先の角を曲がってからしか有り得ないのだ。
菫が仕込んだお化け隊のちびっ子達は、既に双方のルートで役目を終えて、保護者が控える部屋に帰っている。
今宵は、シュタイアー家の使用人達全員を、地図にあるコース上から完全排除しているので、彼らにばったり会うという事も考えられない。
菫達の前方を横切った光は、ふよふよと宙を舞っていたかと思うとその場に留まり、まるで彼女達がやってくるのを待ち構えているようだった。
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