二月十五日
グラディアトリア四大公爵家の筆頭ともいえる大貴族、シュタイアー公爵家の二人の子息は、共に王城の騎士団に属し、それぞれ第一・第二騎士隊の隊長を務めるエリートである。
息子達が自らの努力で着々と出世していく姿を、その父母である公爵夫妻は誇らしく思いながらも、城の寄宿舎に入り浸りでなかなか実家に帰ってこない彼らに、寂しい思いも隠せなかった。
男の子供は、大きくなれば忽ち手を離れていってしまって、本当につまらない。
妻イメリアがそう言って溜め息を吐くのを、肩を抱いて慰めながらも、シュタイアー公爵ヒルディベルも同じ思いを抱いていた。
だが、そんな彼ら夫婦に、神は素晴らしい贈り物を寄越してくれた。
「ダディ」
扉を開けて部屋の中に入ってきたのは、甘い砂糖菓子のような存在だ。
ピンクを基調に様々なレースを飾り付け、ふわんとボリュームをもって膨らませたドレスの下には、幾重にもフリルを重ねたペチコート。
キャメルの編み上げブーツの上からちらりと見え隠れする膝小僧は、柔らかな蜜の色。
稀色を纏うふわふわの髪に着けられた、繊細に編まれたレースのヘッドドレスは、シュタイアー公爵夫人イメリアのお手製に違いない。
スミレ・ルト・レイスウェイク
イメリアの血名を名乗る彼女こそ、天がシュタイアー公爵家に齎した奇跡の贈り物。
とある事情において、この家の養女となった異世界の少女である。
「いらっしゃい、スミレ。ダディにもっと、そなたの愛らしい顔をよく見せておくれ」
彼女の本日の少女趣味満載の装いは、妻イメリアの見立てに間違いないだろう。
菫は、「可愛い娘を自分の作った物で飾りたい」という夫人の、長年の願望をも叶えさせてくれたのだ。
しかも、「そんな者誰が着るのだ‥‥?」と思うようなゴテゴテのフリルの塊さえも、違和感無く着こなしてしまうのだから素晴らしい。
呼ばれて側に寄ってきた少女は、はにかんだような愛らしい笑顔を浮かべ、手に持っていたリボンが掛かった小さな箱を、はいと養父に手渡した。
「んー、何かなぁ? ダディにプレゼントをくれるのかい。嬉しいなあ」
「昨日は、バレンタインっていって、私の世界では大切な人にチョコをプレゼントする日だったんだ。本当は、昨日のうちにちゃんと渡したかったんだけど‥‥」
菫はヒルディベルにそんな嬉しいことを言いつつ、最後の方の言葉を濁して、少々恨みがましく背後を振り仰いだ。
その視線の先には、鉄壁の無表情。
しかしそれが、彼女を見返す時には、ふわりと一瞬にして凍土が融けるように、柔らかく慈しみ溢れる美貌へと変化する。
ヴィオラント・オル・レイスウェイク
先の皇帝にして、現在は大国唯一の大公爵の地位を賜り、広大な私邸において莫大な資産で悠々自適の隠居生活を送る、レイスウェイク家の当主である。
そして、実はシュタイアー公爵ヒルディベルの、実の息子でもあった。
しかも、異世界からやってきた菫を、うまくこの世界に馴染ませる一端として、シュタイアー家に白羽の矢を立てた張本人であり、その後まんまと彼女を娶って今や幸せの絶頂であろう人物だ。
「何だい、ヴィオラントが私にチョコを渡す邪魔をしたのかい? やだね、父親にまで妬くなんて、小さい男だね」
「‥‥‥邪魔するつもりはなかったのですが‥‥まあ、結果的に」
バレンタイン当日である昨日は、菫はもちろん一番にヴィオラントにチョコを渡し、そのあとチョコ諸共彼に美味しく頂かれてしまって、はっと気がつけば既に日は傾き、外出できる時間ではなくなってしまっていたのだ。
「あーやだやだ、嫉妬深い男はいかんよ、娘よ。彼の言動が息苦しくなったら、いつでもダディのところに帰っておいで! ダディはいつも、そなたの味方さ!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
娘に思い掛けずプレゼントをもらって上機嫌なシュタイアー公爵の言葉に、ヴィオラントは沈黙でもって返す。
しかし無言で腰に回された腕の強さと、背後の彼の纏うオーラが明らかに不穏なものであったので、賢い少女は養父の言葉に頷かず、微笑みだけ返した。
綺麗にラッピングされた包みを丁寧に剥がし、中から現れた箱の蓋を開けると、そこにはハート型をした大きなチョコの塊が、ドデンと入っていた。
「うわおっ! 娘よっ! これほどまでに父のことをっっ!!」
ちなみに、グラディアトリアをはじめ、菫から見た異世界には、ハートの形=ラブという概念がない。
ただし、彼女に近しい者は彼女の故郷の文化に興味津々なので、ハートの意味も既に教えられて知っていたのだ。
大きなハート、つまりは大きなラブを菫から貰ったと喜んだ父は、恭しくそれを箱の中から取り出すと、あまりの嬉しさに涙ぐみながら「いただきます」とそれにかぶりついた。
それを見ていた菫の「あ、しまった‥‥」という呟きは、彼の耳には届かなかった。
ーーーーガチッ‥‥‥!
「‥‥‥ん?」
ーーーーガッ、ガチッ、ガチッ!
「‥‥‥んん?」
ーーーーガキッ、ボキッ!!
「んおう‥‥‥‥」
そして、チョコレートで出来たハートは、それはそれはとてつもない硬さだった。
「スミレ、どうかしたか?」
「うん‥‥あのね、中身間違えちゃった」
「中身? ショコラをか?」
「うん」
超合金並みの硬さのハートチョコに悪戦苦闘しているシュタイアー公爵を見守りながら、ヴィオラントはもちろん妻の呟きを聞き逃していなかった。
かのチョコレートは、おおよそ食べ物らしからぬ音を立て、それでもヒルディベルは何とか一片を噛み切ることに成功したようだ。
しかし、噛み切ったはいいものの、更にそれを口の中で噛み砕いて嚥下するには、相当の苦労が必要と思われる。
「あのね、バレンタインのこと、マミィにもこの前教えておいたから、マミィもダディに作ってあったのよね。それで、さっき一緒にラッピングだけしたの」
「ふむ、それでシュタイアー家に着いて早々、そなたはイメリア夫人に攫われたのだな」
「うん。でも、ラッピングをお揃いにしたのがまずかった。間違えて、マミィの作った方のチョコ、持ってきちゃった」
「‥‥‥‥なるほど」
シュタイアー公爵夫人イメリアは、先代のオルセオロ公爵の実姉であり、生粋の大貴族のお姫様。
可愛らしいものが大好きな彼女は、裁縫は師範の免許を持つ程得意であるが、料理となるとからっきしであった。
「ちゃんと生クリーム入れなきゃだめだよって、散々言っといたのに。マミィってば、お約束なミスを」
「うむ、確かに‥‥あの硬さは尋常ではなさそうだ。ヒルディベル殿、無理をなさるな。歯が折れては大事だ」
しかしながら、シュタイアー公爵ヒルディベルは、立派になった愛息の忠告を有り難く受け取りながらも、妻が作ったという超合金なショコラの塊に全力で挑み、そして見事それを屈服させた。
何故ならそれは、料理に自信が無い妻が、彼に初めて作ってくれたお菓子だったのだ。
残すなんて勿体ないし、あり得ないことだった。
その後、箱の僅かな形状の違いで取り間違いに気付いた公爵夫人が、夫と客人のいる部屋にやってくると、ヒルディベルが最後の一欠片を何とか飲み込んだ所で、彼は「ありがとう、とても美味しかったよ」と、驚く妻を抱きしめた。
その時の、少女のように頬を染めたイメリア夫人を、菫はとても可愛いと思った。
しかし後ほど。
シュタイアー公爵は、養女の可愛らしい耳にこっそりと口元を寄せ
「来年は、是非一緒に作ってね」
お願いだからね、よろしく頼むね、絶対絶対ねと、懇願したらしい。
ハッピーバレンタイン。
スポンサーサイト