蔦姫の王宮行脚5
皇帝の執務室、デスクの後ろに位置する窓からは、階下の騎士寄宿舎の玄関がしっかりと見下ろせた。
菫の訪問に驚いた様子だったシュタイアー家のカーティスが、他の騎士達から彼女を守るように足早にその場を離れようとしたところ、いやに身形の整った少年騎士が行く手を阻んだ。
その様子を階上から眺めながら訝し気に眉を顰めたルドヴィークに、傍らの兄クロヴィスは「ああ‥‥」と思い出したように溜息を吐いた。
「ロートリアスの馬鹿息子。そういえば、今日城に上がる事になってましたね」
「ロートリアス‥‥財務相のご子息か。――――馬鹿なのか?」
「ええ、それはもう。世間知らずもいいところで。ロートリアス公爵もご自身は大変優秀でいらっしゃるのに、長女といい長男といい‥‥‥本当にお気の毒なことで」
「‥‥‥‥‥‥‥」
宰相クロヴィスは四大公爵家の一つ、リュネブルク公爵家の現当主である。
彼もロートリアス公爵に跡取り息子の事で相談を受けた一人であるので、当然彼が騎士団に入った経緯を知っていた。
皇帝ルドヴィークは、ロートリアスの次期当主とはまだ面識がないが、その姉ソフィリアには何度か会ったことがあるし、何より彼女が菫を誘拐した事実は忘れようもなく、当然それに対する心象は最悪であった。
そんなことを考えている間に、階下の情景に大きな動きがあった。
「――――ああ、兄上のご到着ですよ」
「‥‥‥‥‥‥早すぎないか?」
「まあ、兄上ですから。スミレのことですから」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
急いで駆付けたとは到底思えない優雅な長身に、いち早く気付いた黒髪の少女が、対峙する二人の次期公爵の間をすり抜けふわりと彼に飛び付いたのが見えた。
当然難なくそれを受け止めた長兄は、一瞬深く彼女の小さな身体を抱き込み、それから片腕に軽々と抱き上げてしまう。
それら一連の動作には、少女に対する深い執着と厚い愛情が否が応にも見受けられ、ルドヴィークの中に今だひっそりと燻る思いを刺激した。
「‥‥‥あ~‥‥ルド? 慰めてほしいですか? それとも、そっとしておいてほしい?」
「何が?」
長兄夫婦からクロヴィスの示す先に視線を向けると、寄宿舎の前に屯しあれだけ騒いでいた騎士達、カーティスと件のロートリアス公爵の子息を除く全員が、地面に片膝を付き静まり返っていた。
「悔しいでしょうが、兄上が相手なら諦めもつくでしょう」
「‥‥‥別に、悔しくない」
皇帝陛下に忠誠を誓ったはずの騎士団が、皇帝陛下以外の者に膝を付く。
本来ならば、それは皇帝に対する裏切りともとれる、許されない行為だ。
しかし、彼らが膝を付いた相手は二年前に退位したばかりの先代皇帝。
騎士団の中枢を担う者達にとっては、激動の時代を命を懸けて仕えた主君であり、故国を安泰させた英雄でもある。
彼に対する深い尊敬と忠誠が、新しい皇帝を迎えたからといって消えて無くなるはずもなく、その事をルドヴィークは先帝の弟として誇らしく思う。
「私は、兄上にはまだまだ敵うとも思っていないし、だからと言って騎士達の忠誠を疑う気もない」
「‥‥‥‥そうですか」
そして、清々しい表情でそう述べるルドヴィークのことを、クロヴィスも兄ヴィオラントを思うのと同じ位、誇らしく思った。
そうこうしているうちに、菫を寄宿舎まで送った皇帝の護衛騎士であり、クロヴィスと同じく四大公爵家の一つオルセオロ公爵家当主ジョルトが、執務室に戻ってきた。
彼も先の二人と同じように窓際までやって来て階下を見下ろすと、ちょうどロートリアス公爵の子息が周囲に気圧されたように片膝を付いた所だった。
「ああ、あの坊ちゃん。閣下の気に当てられて、初日から気の毒なことですねぇ」
「いや、いい経験になったでしょう。世の中にはけして逆らってはならないものがあると、若い内に気付けばこの先伸びますよ。‥‥‥うん? 珍しい。カーティスが怒っているようですね」
「おや、本当だ。だが、カーティスはどれだけ怒っていても過ぎた指導はしないでしょう。彼に任せて正解でしたねぇ」
「そうですね」
はっはっはっはっ‥‥と、満足気に笑い合う公爵達を他所に、ルドヴィークの視線は長兄に抱かれたまま去っていく少女に向けられていた。
もう一度、顔を見せに来てはくれないだろうか―――と、思いながら。
そして、ルドヴィークの願い虚しく、菫を抱いたヴィオラントの足は、己の侍従長であるサリバンに用意させた馬車の方に向っていた。
「ねえ、ねえ、ヴィー。怒ってるの?」
「怒られるようなことをした、自覚はあるのか?」
ヴィオラントの表情がないのも口数が少ないのもいつものことだが、抱き上げられて目線の高さが同じになった彼のアメジストは、明らかに不機嫌な様相を呈していた。
他の者なら凍り付きそうな形相だが、彼の唯一の妻はそんなことを露程も気にしない。
相変わらず全開の可愛らしさで、柔らかな黒髪をふわりと揺らし、無邪気な様子で夫の冷厳な美貌を覗き込んだ。
「別に、何にも危ないこともなかったよ。実に平和な午後でしたけど?」
「その平和な午後に、少なくとも二回拉致されたことを忘れたか?」
「忘れてないけど、私、根に持たないタイプだから」
「そういう問題ではない」
最近頓に眉間の筋肉の動きが良くなってきたヴィオラントの、ぴしりと刻まれた縦の皺を、ピンク色のふっくらと柔らかい指先がこしこしと撫でる。
「‥‥‥‥兄上のご苦労が、骨身に応えるな」
「あにうえ? どの? 今スミレには、おにいちゃまが三人ばかしいるんですが?」
「そなたの、血の繋がった、実の兄上だ」
「あ、そう」
どれだけ擦っても、今日はヴィオラントの眉間の皺は消えてくれない。
早々にそれを諦めた菫は、自分で歩くから降ろしてくれと彼に頼んだが、勿論にべなく却下された。
「ヴィーもお兄ちゃんだから、うちのお兄ちゃんの気持ちが分かるんでしょ? 私は下の子だから、ヴィーの下の兄弟の気持ちが分かるんだよ」
「うん?」
「例えばねえ、お兄ちゃんのお嫁さんの事、すごく優しいし大好きなんだけど、でも心の何処かで私のお兄ちゃん盗ったな~って恨めしく思ってるの。だからね、時々お義姉ちゃん抜きで兄妹水入らずで居たいって、思う時があったの」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ヴィー、私を捜してくれてる時、クロちゃんとルドのとこ寄ったでしょ。兄弟だけで集まるのって、久しぶりじゃない。いっぱいお話できた?」
「そなたのことが気になって、兄弟水入らずなど考えもしなかった。‥‥まさか、その為に一人で出歩いていたのか?」
「そりゃちょっとは、私も義弟君たちで遊びたかったからってのもあるけどね。皇太后様ともゆっくり出来たでしょ? 喜んでた?」
「‥‥‥‥確かに。あんなに長い時間、義母上とチェスをする機会は、今までなかったな。楽しそうでいらっしゃった」
「ね? ほら、よかった」
そう言って、菫は再びヴィオラントの眉間を撫でる。
先程よりは幾分解れたようだが、それでもやはり皺がすっかり消える事はなかった。
「もしかして。一緒にいなかったから、ヴィー寂しかったの?」
「‥‥‥‥‥‥」
「おーよしよし。可哀想に。この胸で、たーんとお泣きなさい」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
口を噤んだヴィオラントの頭を両腕で引き寄せ、本当にその慎ましやかな胸元に抱き締めてしまう菫に、もはや敵う者はいないであろう。
少なくとも、この国には。
ささやかながら柔らかな膨らみの感触と、何よりも心地よい甘い香りに包まれて、燻っていた男の焦燥と苛立と微かな嫉妬は急速に形を潜めた。
誤魔化されている感は多々あるが、今確かに腕の中に戻ってきた愛おしい存在に、これ以上説教を垂れるのはとてもつまらない行為に感じてしまった。
それよりも、滑らかなシフォンと繊細なレースで飾られた清純な少女のデコルテに、鼻先を擦り付けてはその奥の血潮の香りまで感じようと鼻腔に吸い込み、控え目な谷間に唇を寄せてそこを強く吸い上げた。
「――――うわんっ!? おいたはダメでしょ~」
「慰めてくれるのだろう?」
「だから、よしよししてあげるからっ。‥‥‥わっ、こらぁ‥‥」
「寂しくて死にそうだった。頭を撫でられた位では泣き止めぬな」
白い肌の上にくっきりと残ったキスの跡に満足気に目を細めたヴィオラントは、馬車を待たせている王城の玄関に向っていた足を徐に方向転換し、かつて慣れ親しんだ庭園の方に向って歩き出した。
「ヴィー、どこ行くの?」
「庭園に、秘密の場所がある。私とルータスと亡きロバートしか知らない」
「‥‥‥何しに、行くの?」
「勿論、そなたに慰めてもらうのだ。誰もこない、ちょうどいい東屋だから安心しなさい」
そして、そのまま一時間程庭園の中に消えていたヴィオラントと菫を、優秀な侍従長は何事もなく馬車の御者台で迎えるのだった。
帰りの馬車の中、幾分ぐったりとお疲れのレイスウェイク大公爵夫人は、大人しく夫の膝の上に収まっていた。
寵愛する彼女を捕らえて、心身ともに満足したヴィオラントだったが、自身の気に障った事柄だけはこの妻に注意しておかなければと、口を開いた。
「それにしても、騎士の寄宿舎を訪ねるのは行過ぎだっただろう。王城の主殿とはわけが違うぞ」
その言葉に、菫は気怠気に閉じていた瞳を開いて、目の前の端正な男の顔を見上げた。
「それはねぇ、仕方なかったんですよ。どうしてもカーティス兄に会って渡さなきゃいけない物があったの」
「ほう?」
「スミレはなんと、ダディとマミィから密命を受けたエージェントだったのだ」
「‥‥‥で、何を渡したんだ?」
「それはシュタイアー家のトップシークレットです。まあ、ヴィーは口が堅そうだから教えてあげよう」と、偉そうに告げて、両掌で囲いを作ってヴィオラントの耳に囁かれた内容を要約すると‥‥‥
秘密文書の正体は、次期公爵でありながら今だ独身を貫くカーティスに宛てられた、見合い書の数々である。
父であるシュタイアー公爵は叡智に富んだ美しい女性を、母である公爵夫人は穏やかで慎ましく裁縫が得意な女性を、そして何故か義兄の見合い相手選びに参加した菫は、胸が大きく弾力がありそうな女性を選んだ。
菫が彼の懐に忍び込ませた封書には、それらの女性のプロフィールと身辺調査の書類と姿絵がセットで納められ、三人の内の最低誰か一人とは会うようにと、父公爵からの命令書も添えられていたのだ。
件の愚鈍な新人騎士のせいで、機嫌が最悪だった時にそれを読んだカーティスが、ちょっとくらいしごきに私情を挟んでも、笑って許してやってほしい‥‥‥。
【蔦姫の王宮行脚:おわり】
菫の訪問に驚いた様子だったシュタイアー家のカーティスが、他の騎士達から彼女を守るように足早にその場を離れようとしたところ、いやに身形の整った少年騎士が行く手を阻んだ。
その様子を階上から眺めながら訝し気に眉を顰めたルドヴィークに、傍らの兄クロヴィスは「ああ‥‥」と思い出したように溜息を吐いた。
「ロートリアスの馬鹿息子。そういえば、今日城に上がる事になってましたね」
「ロートリアス‥‥財務相のご子息か。――――馬鹿なのか?」
「ええ、それはもう。世間知らずもいいところで。ロートリアス公爵もご自身は大変優秀でいらっしゃるのに、長女といい長男といい‥‥‥本当にお気の毒なことで」
「‥‥‥‥‥‥‥」
宰相クロヴィスは四大公爵家の一つ、リュネブルク公爵家の現当主である。
彼もロートリアス公爵に跡取り息子の事で相談を受けた一人であるので、当然彼が騎士団に入った経緯を知っていた。
皇帝ルドヴィークは、ロートリアスの次期当主とはまだ面識がないが、その姉ソフィリアには何度か会ったことがあるし、何より彼女が菫を誘拐した事実は忘れようもなく、当然それに対する心象は最悪であった。
そんなことを考えている間に、階下の情景に大きな動きがあった。
「――――ああ、兄上のご到着ですよ」
「‥‥‥‥‥‥早すぎないか?」
「まあ、兄上ですから。スミレのことですから」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
急いで駆付けたとは到底思えない優雅な長身に、いち早く気付いた黒髪の少女が、対峙する二人の次期公爵の間をすり抜けふわりと彼に飛び付いたのが見えた。
当然難なくそれを受け止めた長兄は、一瞬深く彼女の小さな身体を抱き込み、それから片腕に軽々と抱き上げてしまう。
それら一連の動作には、少女に対する深い執着と厚い愛情が否が応にも見受けられ、ルドヴィークの中に今だひっそりと燻る思いを刺激した。
「‥‥‥あ~‥‥ルド? 慰めてほしいですか? それとも、そっとしておいてほしい?」
「何が?」
長兄夫婦からクロヴィスの示す先に視線を向けると、寄宿舎の前に屯しあれだけ騒いでいた騎士達、カーティスと件のロートリアス公爵の子息を除く全員が、地面に片膝を付き静まり返っていた。
「悔しいでしょうが、兄上が相手なら諦めもつくでしょう」
「‥‥‥別に、悔しくない」
皇帝陛下に忠誠を誓ったはずの騎士団が、皇帝陛下以外の者に膝を付く。
本来ならば、それは皇帝に対する裏切りともとれる、許されない行為だ。
しかし、彼らが膝を付いた相手は二年前に退位したばかりの先代皇帝。
騎士団の中枢を担う者達にとっては、激動の時代を命を懸けて仕えた主君であり、故国を安泰させた英雄でもある。
彼に対する深い尊敬と忠誠が、新しい皇帝を迎えたからといって消えて無くなるはずもなく、その事をルドヴィークは先帝の弟として誇らしく思う。
「私は、兄上にはまだまだ敵うとも思っていないし、だからと言って騎士達の忠誠を疑う気もない」
「‥‥‥‥そうですか」
そして、清々しい表情でそう述べるルドヴィークのことを、クロヴィスも兄ヴィオラントを思うのと同じ位、誇らしく思った。
そうこうしているうちに、菫を寄宿舎まで送った皇帝の護衛騎士であり、クロヴィスと同じく四大公爵家の一つオルセオロ公爵家当主ジョルトが、執務室に戻ってきた。
彼も先の二人と同じように窓際までやって来て階下を見下ろすと、ちょうどロートリアス公爵の子息が周囲に気圧されたように片膝を付いた所だった。
「ああ、あの坊ちゃん。閣下の気に当てられて、初日から気の毒なことですねぇ」
「いや、いい経験になったでしょう。世の中にはけして逆らってはならないものがあると、若い内に気付けばこの先伸びますよ。‥‥‥うん? 珍しい。カーティスが怒っているようですね」
「おや、本当だ。だが、カーティスはどれだけ怒っていても過ぎた指導はしないでしょう。彼に任せて正解でしたねぇ」
「そうですね」
はっはっはっはっ‥‥と、満足気に笑い合う公爵達を他所に、ルドヴィークの視線は長兄に抱かれたまま去っていく少女に向けられていた。
もう一度、顔を見せに来てはくれないだろうか―――と、思いながら。
そして、ルドヴィークの願い虚しく、菫を抱いたヴィオラントの足は、己の侍従長であるサリバンに用意させた馬車の方に向っていた。
「ねえ、ねえ、ヴィー。怒ってるの?」
「怒られるようなことをした、自覚はあるのか?」
ヴィオラントの表情がないのも口数が少ないのもいつものことだが、抱き上げられて目線の高さが同じになった彼のアメジストは、明らかに不機嫌な様相を呈していた。
他の者なら凍り付きそうな形相だが、彼の唯一の妻はそんなことを露程も気にしない。
相変わらず全開の可愛らしさで、柔らかな黒髪をふわりと揺らし、無邪気な様子で夫の冷厳な美貌を覗き込んだ。
「別に、何にも危ないこともなかったよ。実に平和な午後でしたけど?」
「その平和な午後に、少なくとも二回拉致されたことを忘れたか?」
「忘れてないけど、私、根に持たないタイプだから」
「そういう問題ではない」
最近頓に眉間の筋肉の動きが良くなってきたヴィオラントの、ぴしりと刻まれた縦の皺を、ピンク色のふっくらと柔らかい指先がこしこしと撫でる。
「‥‥‥‥兄上のご苦労が、骨身に応えるな」
「あにうえ? どの? 今スミレには、おにいちゃまが三人ばかしいるんですが?」
「そなたの、血の繋がった、実の兄上だ」
「あ、そう」
どれだけ擦っても、今日はヴィオラントの眉間の皺は消えてくれない。
早々にそれを諦めた菫は、自分で歩くから降ろしてくれと彼に頼んだが、勿論にべなく却下された。
「ヴィーもお兄ちゃんだから、うちのお兄ちゃんの気持ちが分かるんでしょ? 私は下の子だから、ヴィーの下の兄弟の気持ちが分かるんだよ」
「うん?」
「例えばねえ、お兄ちゃんのお嫁さんの事、すごく優しいし大好きなんだけど、でも心の何処かで私のお兄ちゃん盗ったな~って恨めしく思ってるの。だからね、時々お義姉ちゃん抜きで兄妹水入らずで居たいって、思う時があったの」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ヴィー、私を捜してくれてる時、クロちゃんとルドのとこ寄ったでしょ。兄弟だけで集まるのって、久しぶりじゃない。いっぱいお話できた?」
「そなたのことが気になって、兄弟水入らずなど考えもしなかった。‥‥まさか、その為に一人で出歩いていたのか?」
「そりゃちょっとは、私も義弟君たちで遊びたかったからってのもあるけどね。皇太后様ともゆっくり出来たでしょ? 喜んでた?」
「‥‥‥‥確かに。あんなに長い時間、義母上とチェスをする機会は、今までなかったな。楽しそうでいらっしゃった」
「ね? ほら、よかった」
そう言って、菫は再びヴィオラントの眉間を撫でる。
先程よりは幾分解れたようだが、それでもやはり皺がすっかり消える事はなかった。
「もしかして。一緒にいなかったから、ヴィー寂しかったの?」
「‥‥‥‥‥‥」
「おーよしよし。可哀想に。この胸で、たーんとお泣きなさい」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
口を噤んだヴィオラントの頭を両腕で引き寄せ、本当にその慎ましやかな胸元に抱き締めてしまう菫に、もはや敵う者はいないであろう。
少なくとも、この国には。
ささやかながら柔らかな膨らみの感触と、何よりも心地よい甘い香りに包まれて、燻っていた男の焦燥と苛立と微かな嫉妬は急速に形を潜めた。
誤魔化されている感は多々あるが、今確かに腕の中に戻ってきた愛おしい存在に、これ以上説教を垂れるのはとてもつまらない行為に感じてしまった。
それよりも、滑らかなシフォンと繊細なレースで飾られた清純な少女のデコルテに、鼻先を擦り付けてはその奥の血潮の香りまで感じようと鼻腔に吸い込み、控え目な谷間に唇を寄せてそこを強く吸い上げた。
「――――うわんっ!? おいたはダメでしょ~」
「慰めてくれるのだろう?」
「だから、よしよししてあげるからっ。‥‥‥わっ、こらぁ‥‥」
「寂しくて死にそうだった。頭を撫でられた位では泣き止めぬな」
白い肌の上にくっきりと残ったキスの跡に満足気に目を細めたヴィオラントは、馬車を待たせている王城の玄関に向っていた足を徐に方向転換し、かつて慣れ親しんだ庭園の方に向って歩き出した。
「ヴィー、どこ行くの?」
「庭園に、秘密の場所がある。私とルータスと亡きロバートしか知らない」
「‥‥‥何しに、行くの?」
「勿論、そなたに慰めてもらうのだ。誰もこない、ちょうどいい東屋だから安心しなさい」
そして、そのまま一時間程庭園の中に消えていたヴィオラントと菫を、優秀な侍従長は何事もなく馬車の御者台で迎えるのだった。
帰りの馬車の中、幾分ぐったりとお疲れのレイスウェイク大公爵夫人は、大人しく夫の膝の上に収まっていた。
寵愛する彼女を捕らえて、心身ともに満足したヴィオラントだったが、自身の気に障った事柄だけはこの妻に注意しておかなければと、口を開いた。
「それにしても、騎士の寄宿舎を訪ねるのは行過ぎだっただろう。王城の主殿とはわけが違うぞ」
その言葉に、菫は気怠気に閉じていた瞳を開いて、目の前の端正な男の顔を見上げた。
「それはねぇ、仕方なかったんですよ。どうしてもカーティス兄に会って渡さなきゃいけない物があったの」
「ほう?」
「スミレはなんと、ダディとマミィから密命を受けたエージェントだったのだ」
「‥‥‥で、何を渡したんだ?」
「それはシュタイアー家のトップシークレットです。まあ、ヴィーは口が堅そうだから教えてあげよう」と、偉そうに告げて、両掌で囲いを作ってヴィオラントの耳に囁かれた内容を要約すると‥‥‥
秘密文書の正体は、次期公爵でありながら今だ独身を貫くカーティスに宛てられた、見合い書の数々である。
父であるシュタイアー公爵は叡智に富んだ美しい女性を、母である公爵夫人は穏やかで慎ましく裁縫が得意な女性を、そして何故か義兄の見合い相手選びに参加した菫は、胸が大きく弾力がありそうな女性を選んだ。
菫が彼の懐に忍び込ませた封書には、それらの女性のプロフィールと身辺調査の書類と姿絵がセットで納められ、三人の内の最低誰か一人とは会うようにと、父公爵からの命令書も添えられていたのだ。
件の愚鈍な新人騎士のせいで、機嫌が最悪だった時にそれを読んだカーティスが、ちょっとくらいしごきに私情を挟んでも、笑って許してやってほしい‥‥‥。
【蔦姫の王宮行脚:おわり】
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