蔦姫の王宮行脚4
その日、カーティス・ルト・シュタイアーは休暇をいただく予定だった。
しかし数日前、急遽新しく騎士を迎え入れる旨を団長より知らされ、新人は彼が隊長を務める第一騎士隊に配属が決まり、この午前中に様々な手続きに付き合わされたのだ。
現在シュタイアー家の当主は父であるヒルディベルだが、あと2,3年もすれば彼も引退し、長男であるカーティスが爵位を継ぐ事に決まっている。
今は寄宿舎に部屋を貰って寝起きし、父母にも年老いた執事にも干渉されない生活は自由で楽しいが、当主ともなればそういうわけにはいかないだろう。
そもそも、職場である王城とシュタイアー公爵家は馬に乗れば大した距離でもない。
現にカーティスは最近、休日は生家で過ごす事がほとんどだった。
そして、カーティスの足を頻繁に生家に向けさせるきっかけとなった張本人が、今彼の前でにっこりと佇んでいる。
「―――――スミレっ!?」
「隊長にお客様です」と部下に知らされ、寄宿舎の玄関に出てみると、カーティスの母方の従兄であり、尊敬してやまない騎士団長ジョルトと、男臭いこの場に恐ろしい程不釣り合いな存在が彼を出迎えた。
「おにいさま」
もろもろの事情と思惑と趣味により、父母があっさりと養女に迎え入れた為、突然カーティスの妹となった少女。
柔らかな曲線を描く黒髪をふわふわさせ、かの貴人と揃いの稀なる紫の瞳をきらきらと輝かせ、愛らしい頬は薔薇色に、瑞々しい唇を微笑みの形にして、極上の美少女はふわりと腕の中に飛び込んできた。
小柄で華奢な身体は危なげなく義兄に抱きとめられて、純粋無垢な愛らしい微笑みが胸元から彼を見上げた。
義妹が、実はものすごく大きな猫を被っていると知っているカーティスでさえ、一瞬くらりとしてしまいそうな壮絶な可憐さだった。
しかし菫は、呆然としている野次馬の目を盗んで、隠密のごとき素早さで自分の袂から取り出した封書を、衝撃と戸惑いに沈黙する義兄の胸元に忍び込ませた。
優秀な騎士たるカーティスがそのことに気付かぬはずもなく、更に優れた動体視力で表にシュタイアー家の刻印があるのを確認し、それが生家からの内密の文書であると判断した。
何らかの理由で、父か母が菫にそれを託したのだろうか。
こんなことは、初めてだった。
「カーティス兄様が帰ってらっしゃらないから、寂しくて‥‥。勝手に来ちゃいました、ごめんなさい」
「‥‥‥‥‥‥‥」
しかし、無事文書をカーティスに渡し任務を完了しても、何故か菫の大猫被り芝居はまだ続いている。
見た目に釣り合う幼げな言葉に、鈴の鳴るような澄んだ高い声。
世間知らずで無垢な令嬢を演じる彼女が、実は既に成人を迎えた既婚者であり、少々世間ずれはしていても頭のいい少女であることは良く知っていたので、カーティスはまだ何かあるのかもしれないと思って、その芝居に乗る事にした。
周囲の野次馬が、彼女に盛大に熱っぽい視線を向けている事に、義兄としてはかなり苛立ちながら‥‥‥。
「―――団長、妹がお世話になったようで。ありがとうございます」
「いやなに、彼女は私にとっても可愛い従妹だ。では、私は陛下の所に戻るからね。後はよろしく」
―――――あとはよろしく
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
何げないジョルトのその言葉の背後に、何かとてつもなく背筋の凍るものを感じ、カーティスは上司の見送りもそこそこに、傍らで己の袖口をちょんと掴んでにこにこしている義妹を凝視した。
よくよく考えてみれば、いつも彼女の側に寄り添っているはずの、かの御方がおいででない。
「‥‥‥スミレ。閣下は、一緒ではないのか?」
「はい。偉い方とご会談でしたので、席を外して参りました」
有り得ない、とカーティスは心中突っ込んだ。
かの御方が、溺愛するこの少女を自ら一人にするとは到底思えない。
もしも本当に菫が遠慮して席を外そうものなら、どんな大事な内容でも迷わず会談の方を中断し、何よりも彼女を優先するだろう。
菫の、カーティスの義妹の夫、ヴィオラント・オル・レイスウェイク大公閣下とは、そういうお人だ。
しかし、実際義妹は彼の手を離れてカーティスの元までやってきた。
それはつまり、大公閣下の目を盗んでこっそり、彼の承諾も得ずにやってきてしまったということだろうか。
「‥‥‥私が送って行くから、即刻閣下の元に戻れ」
「おにいさま?」
可愛らしく小首を傾げる義妹に、見蕩れている場合ではない。
住人たるカーティスでさえも、義妹をこれ以上留まらせるのは堪え難い、男だらけの騎士寄宿舎。
王城に召されるだけの騎士達であるから、腕っ節がいいだけのならず者のような卑猥な野次などは上がらないが、それでも極上の美少女に物欲し気な視線を向けてしまうのは、悲しい哉男の性である。
最初は遠巻きに義兄妹のやりとりを眺めていたはずが、二人を取り囲む男達の輪がだんだん小さくなってきているように見えるのは、けしてカーティスの気のせいではないだろう。
騎士の中でも、公爵家の夜会の招待状が来る位の家の者は、この義妹の正体及びその伴侶の正体を知っている。
しかし、寄宿舎に住む者の多くは、実力のみでのし上がった一般階級出身者だ。
貴族社会の常識には縁もゆかりも、興味さえもない者達である。
つまりほどんどの者が、目の前の最高に愛らしい少女が既に人妻で、その相手というのが皆が寄ってたかって逆立ちしても敵わぬ最強の剣の使い手であり、祖国グラディアトリアを平定した偉大な先帝、現レイスウェイク大公閣下だとは知らないのだ。
そしてかの貴人が、こと妻のこととなると凄まじいまでの執着をみせ、それを邪魔する如何なる者に対しても、不正貴族の生首をばっさばっさと飛ばしていた頃を思い起こさせる、激しく酷薄な視線を向けなさることも、彼らは知らないのだ。
いろいろな事態を想像して、胃の辺りがきりきりと痛んだカーティスは、とにかく早急に菫をこの場から遠ざけ、出来るだけ早くヴィオラントの手に返さねばならないと思った。
周囲の野獣共を刺激しないように細心の注意を払いながら、無邪気な笑顔を浮かべて何を考えているのか分からない義妹を促し、騎士達の描いた人垣を突破しようとした、その時―――
「お待ち下さい、隊長」
無視出来ない程凛と響いたのは、まだ少年の雰囲気が抜け切れていない若い男の声。
カーティスの休暇を潰させた要因たる、本日付けでグラディアトリア第一騎士隊に配属された、新しい騎士の声だった。
騎士団とは、その性質上上下関係の非常に厳しい世界である。
究極の体育会系だ。
故に、新人も新人、騎士団一の下っ端であるはずの彼が、一個隊を率いる隊長であるカーティスを呼び止めるなどという無礼は、相当の用件がない限り許されない行為なのだ。
しかし、彼はおそらくそんなことを知りもしないのか、冷めた視線を向ける先輩騎士達の人垣を堂々とくぐり抜け、自らが配属になった隊長とその妹君の目の前に立った。
この新人騎士、実はシュタイアー・オルセオロ・リュネブルクと並ぶ四大公爵家の一つ、ロートリアス公爵家の嫡男である。
ロートリアス公爵家といえば、長女であるソフィリアが菫を誘拐まがいに連れ去って皇族家の顰蹙を買った、あの一族だ。
幸い、彼女の父親であり財務相を務める現当主の日頃の貢献のおかげと、被害者である菫が特に処罰を望まなかった為に大事にはならずに済んだが、仕事人間であったロートリアス公爵の父親としての力不足が明るみになった事件だった。
そして、この跡取り息子もまた、多くの問題を抱えていた。
歳は、成人を迎えたばかりの16才。菫と同い年である。
姉ソフィリアの二年後に生まれた彼は、待望の跡取り息子として、それはそれは大事に育てられた。
特に母親は、仕事で家庭を顧みない夫の代わりにと、子供達を溺愛した。
その結果、姉ソフィリアは美しく穏やかな淑女に成長したが、何でも己の思い通りになると思っている傲慢な一面を持ってしまう。
そして、弟ユリアス・ビス・ロートリアスは、それに輪をかけて傲慢で利己的な少年に成長してしまった。
長女ソフィリアの不祥事をきっかけに、己の家族と真摯に向き合う機会を持ったロートリアス公爵は、そんな息子の由々しき問題に気付き、恥を承知で他の三公爵に相談を持ちかける。
そうして、ユリアスの剣の腕がなかなか優れていることに注目したオルセオロ公爵が、自らが長である騎士団への入団を勧め、それならばとシュタイアー公爵が第一騎士隊長を務める長男カーティスを指南役として推したのだ。
騎士団では、生まれ持った身分は関係なく、才能と努力で出世が決まる。
公爵家の跡取りとして何不自由なくぬるま湯に浸かって生きてきたユリアスの、庶民を見下し傲慢でひ弱な根性を叩き直すには、騎士団で揉まれるのが一番手っ取り早いだろうと意見が一致した。
そうして、本日第一騎士隊に入隊してカーティスに身柄を預けられた少年は、しかしまだ自分のおかれた状況が理解出来ていないらしく、午前中の同隊騎士との顔合わせの際には、庶民出の先輩騎士達を見下すような態度を取って早速反感を買っていた。
おそらく後で呼び出されて制裁を受けるだろうが、己の隊の騎士達は加減を弁えていると信じているので、教育的指導の一環として知らぬ振りをするとカーティスは決めていた。
「初めまして、姫。シュタイアー公爵家にこんな可憐な方がいらっしゃるとは、知りませんでした」
そんなことは露とも知らないこの暢気なお坊ちゃまは、突然目の前にやってきたとびっきりの美少女がシュタイアー家の令嬢と知ると、自分と身分が釣り合うし年齢も相応しいと判断し、こともあろうにアタックを始めたのだ。
こいつは真性のばかだと、カーティスは思った。
四大公爵家であるにも関わらず、菫の正体を知らないことには呆れ返る。
社交界の情報をいち早く仕入れ世の機微に目を光らせるのも、いずれ当主となるものの責務である。
それに関してはカーティスもあまり得意ではないが、最低限の責任は果たしているつもりだ。
貴族たちを騒がせたレイスウェイク大公閣下の伴侶の姿も知らず、己の姉が起こした不祥事の被害者の姿を知らず、ただその生まれ持った身分を奢るばかりで慎む事を知らない少年の傲慢さに、カーティスはひどく苛立った。
そして、それは彼の聡い義妹にも伝わったようで、小さな手がシャツの裾をつんと引くので視線下ろすと、不思議そうに小首を傾げてこちらを見上げていた。
こういう時の計算していない仕草はまた、本当に堪らなく可愛らしいと、兄バカ街道まっしぐらのカーティスは思う。
その可憐な耳に愚かな少年の名前を入れるも疎ましく、カーティスが無視を決め込んで菫を促し通り過ぎようとすると、自尊心を傷付けられた少年は上司に向けるとは思えない剣呑な目で彼を睨み、行く手を阻む様に彼らの前に躍り出ると、事も有ろうに強引に菫の手を取ろうとしたのだ。
この時ばかりはあまりの無礼さに、沸点が高いと定評があるカーティスの怒りが、一気に最高位まで達した。
しかし――――
カーティスが菫に伸ばされる少年の手を叩き落とす前に、彼らの間を蝶のようにすり抜け、少女はワンピースの裾をふわりと風に靡かせ舞い上がった。
「ヴィー」
飛び付いてきた少女の軽い身体を、先程のカーティスと同じく危な気なく抱きとめた腕は、更にそのまま軽々と彼女を抱き上げてしまう。
幼い子供のように片腕一本で抱えられた少女は、散々相手を振り回しておきながら悪びれる様子もなく、華奢な両腕を彼の首筋に巻き付けて薔薇色の頬を寄せた。
菫の夫は腕の中の存在を確かめる様に、彼女の柔らかな黒髪に鼻先を埋め、それから擦り寄った頬に唇を押し当てた。
「――――閣下」
カーティスは、ほっと息を吐いた。
こんなにすぐ近くまでいらしていたのに、気配の欠片さえ感じさせない所には、相変わらず平伏させられる気分だったが、とにかく菫は無事大公閣下の腕の中に戻ったのだ。
心中はどうであれ、彼女を抱かせておけば、だいたい彼の周囲は平和である。
カーティスは、けして長くはない義妹夫婦との付き合いの中で、それを正しく学習していた。
しかし、レイスウェイク大公閣下の登場で肩の力を抜けたのは、カーティスだけだったようだ。
グラディアトリアの騎士団において、この御方を知らない者はまずいない。
眩いばかりの白銀の髪。
最も高貴で稀なる紫の瞳。
完璧に整いたる美貌と神々しく強靭な肢体。
ほんの二年前まで、彼ら騎士が忠誠と命を捧げていた畏怖と尊敬の象徴、先帝ヴィオラント・オル・レイスウェイク。
退位して以来、拝顔することも叶わなかった貴き御方が、突然目の前にやって来たのだ。
彼はただ一瞬ちらりと寄宿舎の方を見遣っただけで、後の関心は全て腕の中の少女に向けられているというのに、騎士達は弾かれたように揃って背筋を伸ばした。
そして、命じられたわけでもないのに、全員が示し合わせたかのようにその場に膝を付く。
主君に対する、騎士の礼式である。
その場に立っているのは、礼を受けたレイスウェイク大公爵夫婦と苦笑いを浮かべる第一騎士隊長、そして取り残された愚かで幼い新人騎士だけだった。
いくら愚鈍とはいえ、腐っても四大公爵家の跡取り息子。
さすがに、父公爵が命をもって仕えた偉大なる先帝の事は知っていた。
呆然と、しばしの間彼を見つめていたユリアスだったが、周囲の騎士達の異様な雰囲気に戸惑い、そして何故かひしひしと我が身に伸し掛かる威圧感に屈する様に、生まれて初めて地べたに膝を付いたのだった。
そして、それが合図であったかのように、ヴィオラントがふっと息を吐いた。
「そなた達の心遣い、痛み入る。しかし、膝を付くべき相手は、今はもう私ではないはずだ」
凛と響く、美しく無表情の支配者の声。
騎士達がかつて崇めた主君の声は、しかし二年前よりもずっと穏やかになったように聞こえる。
膝を付く必要はないと言われても、彼らは誰一人としてそれを解こうとはしなかった。
ヴィオラントはそれに対して苦笑するかのように瞳を眇め、肩を竦めているカーティスを見遣り、そして青い顔で膝を付く少年騎士の上を視線が滑った。
「せっかくの休憩中、妻が邪魔をして申し訳なかった」
そう言うと、優雅な足取りで踵を返し、愛らしい細君を猫の子のように腕に抱いたまま、レイスウェイク大公閣下は寄宿舎を後にしたのだった。
騎士達がようやく立ち上がったのは、かつての主君の姿が王宮の中に完全に消えてからであった。
ざわつく周囲に我に返ったユリアスも、痺れる足を叱咤して立ち上がろうとすると、頭上にゆらりと影が差した。
思わず見上げた彼を見下ろしていたのは、直属の上司である第一騎士隊長。
次期ロートリアス公爵を約束された我が身に奢り、他者を見下す傾向にあるユリアスでも、身分的に同等なカーティス・ルト・シュタイアーを愚弄するつもりはないし、誠実で生真面目な彼とは上手くやっていけそうな気がしていたが、その考えが恐ろしく甘く稚拙だったことを、こちらを見下ろす目を見て思い知った。
「世間を舐めるのも大概にしろ。―――小僧」
「夕餉まで暇だろう、これから特別に稽古をつけてやる。剣を持って裏庭に出ろ」と、厳しい声で告げられ震え上がった少年騎士は、その言葉通り夕刻まで隊長の容赦ないしごきを受けた。
しかし結果的には、そのおかげで先輩方からの制裁は免れたし、人間として必要なものの一端を学ぶ事ができた。
ただ、途中思い出したように休憩を告げ、立ち上がれない程疲弊したユリアスに背中を向けて、何やら懐から取り出した封書に目を通した後からは、隊長の稽古に八つ当たりめいた乱暴さが見えたというのが、一部始終を見守っていた副隊長の感想であった。
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