蔦姫の王宮行脚3
宰相クロヴィスが後宮にある皇太后陛下の私室を尋ねると、麗しき女主人は日の当たるテラスで盤上遊びに興じていた。
既に歳は四十を過ぎているというのに、彼女の女神の如き美しさは衰えを知らず、豪奢な金髪は日差しに溶けてまるで太陽の光そのもののようだ。
染み一つない白く優美な手に顎を乗せ、赤く艶やかな唇を笑みの形に吊り上げて、サファイアのように青い瞳は楽しそうに盤の上を眺めていた。
対して、その向いの席に長い足を組んで座るのは、皇太后陛下と対照的な美貌の男だ。
艶やかな銀髪は最高級の絹糸のように透き通り、緩い曲線を描いて高い位置にある肩を流れる。
様々な色合いを持つグラディアトリア人でも、ほんの僅かな確率でしか生まれ得ない稀なる色彩、高貴なるアメジストを抱いた彼の瞳は涼やかで、こちらはただ無感動な様子で盤の上を眺めていた。
現グラディアトリア皇帝ルドヴィークの生母、エリザベス・フィア・グラディアトリア皇太后陛下。
並びに、二年前に退位した先代の皇帝で、現在は皇帝に続く最高位の爵位を冠した、ヴィオラント・オル・レイスウェイク大公爵。
「‥‥‥おや、いやに落ち着いていらっしゃる。これは意外でしたね」
「あら、クロヴィスいらっしゃい。貴方もちょっとお座りなさいな」
溺愛する幼妻から引き離されて、さぞ荒れているであろうと思われたクロヴィスの兄は、意外にも普段どおり冷静な様子に見える。
後宮付きの女官がクロヴィスにも紅茶を用意しようとするのを断り、優雅に手招きをする義母に従い、彼もテラスに出た。
「チェスですか」
「ええ。なかなか、いい勝負ですのよ」
「‥‥‥義母上、存外にお強い」
だが、と呟いて、ヴィオラントは長い指で気怠げに駒を摘み上げ、それをこつんと音を立てて盤の上に置き直した。
それで、勝負はついたようだ。
「―――あら、いやだわ。またですの?」
「お約束通り五戦しました。もう気が済んだでしょう」
「五戦全部貴方の勝ちじゃない。つまらないですわ」
「ですが、約束は約束です」
そう言うと、ヴィオラントはテーブルの横に立ったままの弟に目を向けた。
「‥‥クロヴィス。スミレがそなたの所に行っただろう」
「ええ、いらっしゃいましたよ。部下達を和ませて、お行儀良くお茶を飲んで行かれました」
「‥‥‥‥‥‥‥そうか」
“部下達を和ませ”の部分で、僅かにヴィオラントの眉間がぴくりとしたのを、クロヴィスは見て見ぬ振りをした。
「一人でいらっしゃったので驚きましたが、兄上がお許しになったのですか?」
「許すと言ったわけでもないが、あの娘が私の言う事を大人しく聞くはずもない」
「ですが、追い掛けなかったのですね?」
「‥‥‥たまには好きにさせよと、義兄上がおっしゃるので堪えたのだ」
ヴィオラントが言う義兄上とは、もちろん妻である菫の実兄のことである。
レイスウェイク家の当主の私室と、奥方の故郷たる異世界は“通じて”おり、時折彼らは酒を呑み交わす仲であるらしい。
ただし、“壁”を隔ててではあるが‥‥。
菫の兄優斗はヴィオラントより二つばかり年下だが、実質妹を嫁に出すまで親代わりに育てただけあり、彼女のことに関してはこの上ない相談相手だった。
「あの子は昔から、押え付け過ぎれば極度に反抗したくなる質だと。だから、時々掌の上で好きにさせよと仰せだ。あどけないふうに見えても確と己のことを弁えているから心配ないと‥‥‥‥だが――――」
そこまで言って、ヴィオラントは徐に椅子から立ち上がった。
「そろそろ我慢がならなくなってきたので、捕まえに行くとしよう」
「まあ、あなた程の男が余裕のないこと。可愛い子には旅をさせよと言うでしょう?少し位遊ばせて、どんと構えていらっしゃいな」
「余裕がないと言われても結構です。それに、可愛い子とは子供のことでしょう。あれは私の子供ではなく、妻です」
手に入れたばかりの愛妻を、本当なら屋敷に閉じ込めておきたい位なのにと、恥ずかし気もなく言ってのける兄は、ある意味すごいなと思いつつクロヴィスが眺めていると、彼が再びこちらに向き直った。
「それで、クロヴィス。スミレはそなたの部屋を出て何処に行ったのだろうか?」
「ルドのところです。廊下のすぐ先でしたからお一人で行かせましたが、ちゃんと中に入るまで見届けましたから大丈夫ですよ」
「そうか」
「ルドも真面目に仕事するのはいいのですが、融通が利かないのがたまに傷でしてね。スミレ‥‥否、“おねえちゃま”が上手く息抜きさせてくれていると有難いです」
「‥‥‥‥なんだ、その脱力する呼び方は」
「先程スミレにそう呼ぶ様に強要されました。私は適当に躱しましたが、馬鹿正直な我らの弟は‥‥‥」
「‥‥‥‥そのまま、呼ばされていそうだな」
「ですね。ああ、弄ばれている光景が目に浮かぶ‥‥」
「ルドヴィークが再起不能になる前に、スミレを回収するとしよう」
一致団結して立ち上がったそんな息子達を、この部屋の主であり皆の母である皇太后陛下は、女官が新しく入れた紅茶に舌鼓を打ちつつ眺めていた。
普段は同じ城内に居ても滅多に顔を合わすことのない子供達が、菫が関わると途端につるむので彼女は楽しいのだ。
いつも難しい顔して部屋に籠ってばかりいるクロヴィスも、こんな時は表情も生き生きと晴れやかで、気軽に義母の部屋を訪ねて来てくれるし、、ルドヴィークの方もおそらく菫の訪問で休憩を余儀なくされていることだろう。
菫に、“慰問”という名の使命を与えた張本人としては、満足のいく結果であったようだ。
温い微笑みを浮かべる皇太后陛下に見送られて御前を辞したヴィオラントとクロヴィスは、結局兄弟仲良く末弟たる皇帝陛下の執務室を訪ねることになった。
彼らが目的の部屋まで来ると、扉の前に立つ二人の近衛騎士達は、緊張した面持ちで新たな皇帝への客人を迎え受けた。
畏怖と尊敬の象徴ともいえる偉大なる先帝と、若き現帝を支え国を動かす厳格な宰相が、先触れもなく揃ってやって来たのだから、緊張するなという方が無理だろう。
畏まり縮こまる彼らに苦笑しつつ、クロヴィスがドアをノックし訪問を告げると、中から皇帝本人の声で入室を許可する声が返ってきた。
「――――ルド? 何をしているのですか?」
「クロヴィス‥‥‥、兄上も!?」
ヴィオラントとクロヴィスが部屋の中に入ると、ルドヴィークは執務机の背後に位置する窓際に佇み、外を眺めていた。
そして、室内に居たのは彼ただ一人で、目的の少女の姿は何処にも見えなかった。
それを認識した途端、クロヴィスは体感温度が確実に下がったのを感じた。
それはルドヴィークも同じだったようで、口の端が少々引き攣っている。
「ルドヴィーク、スミレはどうした」
いっそ穏やかにも聞こえる長兄の静かな声に、実は盛大な不機嫌さが滲み出している事を、ヴィオラントの聡い弟達は当然気付いている。
窓辺に貼付いた末弟に向ってゆっくり歩を進めた彼は、途中のテーブルに置かれた二つのティーカップに片眉を上げ、立ち止まった。
ルドヴィークも菫も利き手は右。
それと置かれたカップの持ち手の方向を見れば、彼らが同じソファに座ってお茶を飲んだということも、そして不自然な程くっついて座っていたということも、容易に想像できる。
「おや。貴方達、わざわざ並んで座ったのですか? こんなに席があるのに? ‥‥ふうん‥‥」
そして、長兄に続いてテーブルの所までやってきた次兄が、余計な状況分析をして意味深な笑みを向けてくるのに、疾しい事など何もないはずなのにあたふたと挙動不審になる皇帝は、やはりまだまだ人生経験が足りないと言われても仕方ないだろう。
「‥‥ス、スミレが、そこに座れとっ!」
「はあ、素直ですねルドは。では素直なルドちゃんは言われるままに呼んじゃいました? ―――彼女を“おねえちゃま”と‥‥」
「――――――っ!!」
「‥‥‥‥しっかり、呼んじゃったみたいですね」
「う、う、うるさいよっ!」
ご愁傷様と生暖かい笑みを浮かべるクロヴィスに、顔を真っ赤にして叫んだルドヴィークだったが、近くまでやってきたヴィオラントの無表情を見てうっと口を噤んだ。
「スミレは、何処へ行った」
「あ‥‥か、彼女なら騎士の寄宿舎に行くと‥‥」
「寄宿舎だと―――?」
ヴィオラントの紫の瞳が、更に剣呑な光を宿して眇められた。
それもそうだろう。
今でこそミリアニスのような女性騎士も何人か入団しているが、もともと騎士団は究極の男所帯だ。
しかも寄宿舎など、血気盛ん精力旺盛な独身男性の巣窟ではないか。
そんな所に、菫のような可憐な少女が訪ねていくなどと、想像するだけでも恐ろしい。
猛獣の群れに子兎を放り込むようなものだ。
ヴィオラントに至っては、総毛立つ程の胸くそ悪さに襲われ、無言でくるりと踵を返すと、盛大に冷気をまき散らしつつ皇帝の執務室を出て行ってしまった。
「ああ、兄上の堪忍袋の緒がついに‥‥。しかし、寄宿舎はさすがにスミレのような娘が行く所ではないでしょう。知っていてよく送り出しましたね、ルドは」
一緒に長兄を見送ったクロヴィスの丁寧な言葉の端々に、ちくちくとした非難を感じたルドヴィークは慌てて弁解をする。
「ジョルトが付いていると言うので行かせたんだ。それに、あそこにはシュタイアー公爵家の嫡男‥‥スミレの義理の兄のカーティスとディクレスが居る。シュタイアー家絡みで彼らに用があると言われれば、仕方ないだろう」
「‥‥なるほど。確かに騎士団長であるジョルトが一緒なら、問題も起きないでしょうし、第一騎士隊長と第二騎士隊長の縁者と分かって不埒な真似をする愚か者もいないでしょうね」
「そうだろう」
「しかし、それでも行かせては駄目だったんですよ」
「‥‥‥‥‥‥?」
「一緒に行くのは、ジョルトではなく兄上でなければならなかった。‥‥言っている意味が、分かりますか?」
「‥‥‥‥分かった、何となく」
少し考えれば分かる事だった。
欲しくて欲しくて堪らなかった娘をようやく妻とした長兄は、信頼出来るオルセオロ公爵とはいえ彼女を預けたいとは思わないだろう。
「‥‥‥私が、浅慮だった」
「まあ、スミレもやりますね。とことん兄上を振り回す魂胆でしょうか。これはちょっと、今日こそ兄上の雷が落ちるのでは‥‥?」
「えっ!? 兄上が、スミレを叱るのか?」
「さあ? ただ、上手く対処しなければ、今後しばらく屋敷から出してもらえない位の仕置きは受けるでしょうね」
さあ、彼女はどうするのかなと思いつつ、窓際のルドヴィークに並んだクロヴィスは、何げに見た眼下の景色に片眉を上げた。
「なんだ、ルド。特等席じゃないですか」
皇帝陛下の執務室の窓からは、地階の片隅にある騎士団寄宿舎の入り口がよく見える。
ちょうどそこに、ジョルトを伴った菫が到着した所だった。
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