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五臓六腑

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蔦姫の王宮行脚2


さすがに大国の長たる皇帝陛下の執務室の前には、見張りが立っている。
それでも、甲冑を着込んだり槍を構えたりという物々しさはなく、彼らの制服ともいえる騎士服を纏い腰に剣を携えて、宰相室よりも更に重厚な扉の左右に陣取っていた。

皇帝陛下の周囲で勤務する近衛騎士の間で、菫の認知度はなかなか高い。
この時間が当番の近衛の二人も、黒髪の小柄な少女の正体を知っていたらしく、ひとり廊下を渡ってきたのを見付けても警戒する様子はなかった。
貴族の姫君達が愛でる精巧なドールのように可憐な少女は、実は彼らが仕える皇帝陛下の長兄にして偉大なる先代の皇帝、現レイスウェイク大公閣下の唯一の奥方であり、皇太后陛下をはじめ皇族の方々がそれはそれは大事にしていらっしゃる至宝である。
それは若き皇帝にとっても例外ではなく、兄の後を継いで重圧にも負けずに見事に大国を治める彼が、大公夫人の前では年相応のまだ少年らしさの抜け切らない青さを見せる事があり、彼を守る年嵩の近衛の目にはそれがとても微笑ましく映るのだ。

菫が皇帝陛下の執務室の前まで辿り着き、淑女らしくちょこんとドレスを摘んで挨拶すると、扉を背に立つ二人の近衛騎士達は厳つい顔を和ませて、入室を断られるはずもない彼女の訪問を主に知らせる為に、扉をノックした。
すると、誰何の声が掛かる前にがちゃりとそれが開き、中から出て来た者があった。


「――――おや」

皇帝陛下の第一護衛騎士の名誉を預かり、同時にグラディアトリアの騎士団長を務める、ジョルト・クル・オルセオロ。
皇帝家への忠誠も厚い大貴族オルセオロ公爵家の現当主であり、菫の養母となったシュタイアー公爵夫人の甥でもある彼は、物静かで穏やかな普段の雰囲気に騙されやすいが、実は大国最強の騎士である。
同じく最凶と名高いレイスウェイク大公閣下と唯一互角に戦える男であり、誰よりも冷静で思慮深く、それでいて一緒にいて和む彼は、菫の大のお気に入りだった。
シュタイアー家側の立場で見ると、彼は菫にとって従兄。
レイスウェイク家側の立場で見ると、彼は夫の妹である第二王女ミリアニスを妻に頂いているので、菫にとって義理の弟ということになる。
しかし、菫は親愛を込めて彼をこう呼ぶ。

「ジョル兄」
「やあ、スミレちゃん。一人で来たのかい? 偉いねぇ」

ジョルトの方は菫を完璧に“可愛い親戚の子”扱いだが、何故か彼には腹が立たないから不思議だ。

ほわほわとした微笑みを端整な顔に浮かべて場を和ませた騎士団長は、何故か手付かずのティーセットを乗せたワゴンを押して来た。
菫がそれを見ているのに気付いたジョルトは、いいことを思いついたとばかりに徐に長身を折り曲げ、彼女の小さな耳にこっそり耳打ちをした。




こんこんこん


山積みの書類に埋もれ、その中の一枚を睨み付けるように読んでいた男は、軽いノックの音に気付いて眉を顰めた。

ルドヴィーク・フィア・グラディアトリア

齢十八にして、大国グラディアトリアを治める皇帝である。
何事も真面目で妥協を許さない彼は、長兄ヴィオラントが整え繋いでくれた祖国の安穏を守る為に、毎日誰よりも多くの時間を執務室に籠っている。
今日も休憩時間といえば昼餉を食べる間だけで、それから一時も休まず書類にサインを繰り返していた。
あまり根を詰めるのを心配した護衛騎士のジョルトが、女官の用意したお茶のワゴンを引っ張ってきて休憩を促したが、その時間も惜しいと素気無く断った所だった。

仕事は嫌いではないがそれなりに疲労し始めていたルドヴィークは、そのノックの音になげやりに返事を返した。
どうせ、更なる書類を抱えた宰相かその部下だろうと思って。


「入れ」
「はーい。お邪魔しまーす」
「――――――――っ!?」

断ったはずのお茶のワゴンを押して現れたのは、ルドヴィークの心臓の隅に今も居場所を持つ、可憐な少女であった。

「――あっ! ‥‥なっ! なんでスミレが!?」
「まあ、おねえちゃまを呼び捨てするなんて、生意気ぃ!」

予想もしなかった人物の登場に、がたんと大きな音を立てて椅子から立ち上がったルドヴィークは、その衝撃で机の端に積んでいたサイン済み書類の山が崩れて頭を抱えた。
仕方がないので、凝り固まった首をごきりと鳴らして深く溜息を吐くと、絨毯の床に膝を付いてばらまかれた書類を拾い始める。
すると華奢な足首が滑るように側にやってきて、シフォンのドレスの裾をふわりと靡かせてしゃがんだ黒髪の少女が、一緒になって拾うのを手伝ってくれた。
幸いすぐに纏まったそれらを机の上でとんとん揃えて、菫は束にしてルドヴィークに差し出す。

「はい、ルド」
「あ、ああ、悪い」

ところが、何が気に入らなかったのか、菫は大きな目を半分に眇めてじとりと彼を睨み上げた。

「な、何だ‥‥?」
「“ありがとうございます、おねえちゃま”でしょう?」
「―――なっ‥‥!?」
「ちゃんとおねえちゃまって呼べなきゃ、返してあげませーん」

そう言って、菫は大事な書類の束を自らの胸にぎゅうと抱き締めてしまった。
華奢な少女の細腕から紙の束を奪うくらい、ルドヴィークにとっては簡単過ぎる事だったが、そもそも腕力の問題ではない。
淑女の、しかも好いた娘の胸元深く抱き込まれた物を力づくで奪うなど、意外に初心な皇帝陛下には無理な話だ。

「呼べるかっ、そんな‥‥! 馬鹿なこと言ってないで、さっさと返せ!!」
「人にものを頼む態度もなってないね。おねえちゃまはかなしい」
「なっ! な‥な―――‥‥っ!」

頭に血が上って口をぱくぱくさせるルドヴィークに、菫は憂いたっぷりの溜息を吐き、そしてぼそりと「クロちゃんはちゃんと言ってくれたのにな‥‥」と、わざと彼に聞こえるほどの小さな声で呟いた。
そして、まんまと乗せられた素直な皇帝陛下はむっと口を噤み、しばし葛藤するかのように眉間に皺を寄せ床を睨みつけていたが、意を決したように顔を上げ目の前の少女に向って口を開いた。

「‥‥それを、お返し下さい。お、お、お‥‥おねえ‥ちゃま」
「ぶふっ! おねえちゃまって!!」
「―――なっ! お前がそう呼べって言ったんじゃないかっ!!」
「ルドのそういう馬鹿正直なところ、おねえちゃまはとってもきゃわいいと思うのよ‥ぷぷぷっ!」
「―――くそっ‥‥!!」

からかわれたと知ったルドヴィークは豪奢な金髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、悔しさと恥ずかしさに散々身悶えたかと思うと、遂には執務用の椅子に後ろ向きに座って黙り込んでしまった。
一方、一頻り腹を抱えて笑って満足した菫は、拗ね拗ねモードの皇帝陛下をとりあえずそっとしておいて、ジョルトから預かったワゴンの上でお茶の用意を始める。
彼女は最近趣味と花嫁修業を兼ねて、大陸一と名高い老舗茶葉屋フリードに紅茶の入れ方を習っている。
ポットのお湯は少しばかり冷めてはいるかもしれないが、それでもゆっくりと解ける茶葉の香りは鼻腔に心地よい。

「ルド。紅茶入ったよ」
「‥‥‥‥‥‥‥いらん」
「冷めちゃうよー、渋くなっちゃうよー?」
「‥‥‥‥‥‥‥」

こちらを向きもしないルドヴィークを呼びつつ、菫は二人分の紅茶に温めたミルクとスプーン2杯分の蜂蜜を入れた。
先程宰相執務室で既に一杯いただいてきたのだが、一言に紅茶と言っても茶葉のブレンドの仕方で味は大いに異なるし、ミルクを入れたり柑橘類を絞ったりといろんな楽しみ方があって、日本にいるときはどちらかというと珈琲派だった彼女もすっかり馴染んでしまった。

「ルドー」

クロヴィスが入れてくれた紅茶も美味しかったし、自分で入れた甘い紅茶も美味しいが、一人で飲むのはつまらないので、もう一度ルドヴィークを呼んだ。
答えは返らなかったが、彼が椅子の背に埋めていた顔を上げてちらっとこちらを見たので、菫は意識して極上の微笑みを浮かべ、蜂蜜よりも甘い声で更に誘いをかけた。

「一緒に飲も?」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「ここ、おいで。ルド」

青い瞳を泳がせて逡巡する素振りを見逃さず、菫はとどめとばかりにソファに腰掛けた自分の横をぽんぽん叩いた。

「‥‥‥‥‥‥‥」

心持ち頬を赤めた若き皇帝は、渋々という雰囲気を醸し出しつつ自らの椅子からのろのろと立ち上がり、長い足ではほんの数歩の距離を緩慢に歩いてきたかと思うと、わざと乱暴な所作で示された席にどさりと腰を下ろした。
そして、菫のほうを見ない様にしながら、用意された紅茶に口を付けた。

「‥‥‥甘い」
「蜂蜜入れたからねぇ」

実は猫舌のルドヴィークでもそのまま飲める丁度良い温度の紅茶は、ミルクのまろやかさと蜂蜜のこくのある甘さが混ざり合い、とても優しい味わいになっていた。
女官や侍従はポットから紅茶を注ぐ所まではするが、恐れ多くも皇帝陛下のカップに好き勝手ミルクや蜂蜜を足して、スプーンでぐるぐる掻き混ぜて差し出すことはない。
そんなことをするのは、彼女ただ一人。

ルドヴィークは甘い紅茶を口に含みながら、ちらりと隣に座る少女に視線だけ向けた。
小柄な彼女との身長差は、当然座ってもそのままであり、彼からはふわふわの黒髪に包まれた頭の天辺が見えた。
そのまま視線を降ろすと、伏し目がちに紅茶を飲む少女の輪郭が見え、驚く程長く黒い睫毛と、ふっくらと愛らしい薔薇色の頬に視線が釘付けになった。
よく考えれば、ソファはテーブルを挟む形で大きいのが二脚あるというのに、何故かルドヴィークは菫と同じソファに、しかも尻がくっ付きそうな程接近して座っている。
いや、それは菫にここに座れと呼び寄せられたからなのだが、それにしてもこの近さは不自然だと座る前に気付くべきだっただろう。

左隣に、今だ恋心を諦め切れない愛しい娘。
カップを持つのと逆の手を、そろりと伸ばせばすぐそこに彼女は居て、そのまま引き寄せれば容易に腕の中に捕らえてしまえるに違いない。

そこまで考えて、ルドヴィークははっと我に返った。

「―――ルド?」

何を、馬鹿な事を。
彼女は既に長兄に娶られ、その寵愛の深さをいやと言う程知っているというのに。

ルドヴィークは菫がびっくりする程の勢いでカップの紅茶を飲み干すと、大きな瞳をぱちくりさせながら見上げてくる彼女にそれを突きつけた。

「―――――おかわり」
「はいはい」



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