蔦姫の王宮行脚1
「クロちゃん、こんにちは」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「クロちゃん? おねえちゃまですよ」
「‥‥‥‥‥‥どこから、突っ込めばよいのやら‥‥‥」
こんこんと執務室の扉をノックする音に、部屋の主であるグラディアトリアの宰相クロヴィス・オル・リュネブルクが誰何すると、重厚な扉の向こうから返って来たのは小鳥の囀りように愛らしい声。
クロヴィスが慌てて開けた扉の向こうには、思い描いた通りの客人が佇んでいた。
肩に付くか付かないか程度の短さの、黒いふわふわの髪を可憐な花々で飾り、稀なる紫の瞳は光を湛得て真っ直ぐに相手を見据え、白い肌にふっくらとした薔薇色の頬、小振りな鼻にぷるんと瑞々しい小さな唇、化粧気のない顔はされど何処をとっても息を呑む愛らしさ。
年齢的には既にグラディアトリアの成人にあたるのだが、全体的にひどく小柄で幼い子供のように見えて仕方ない彼女が、実は既婚者であるというのは周知の事実である。
スミレ・ルト・レイスウェイク
クロヴィスの兄であり、グラディアトリアの先の皇帝でもあった、ヴィオラント・オル・レイスウェイク大公爵の奥方だ。
十以上も年上の美貌の大公閣下が溺愛するのも頷ける、稀なる魅力満載の小さな淑女は、本日もシフォンと繊細なレースをふんだんに駆使したワンピースドレスをお召しである。
それはまだ身体の凹凸の少ない彼女によく似合うスタイルだが、実はどうも夫であるレイスウェイク大公が、身体の線が出やすい一般的なスタイルのドレスを許さないかららしいのだ。
彼の意見ばかり聞いて服を作ると、どんどん肌の露出が少なくなって最終的には修道服になってしまうと、先日レイスウェイク家を訪ねたおりに、旧知の女官長がぼやいていた。
「まっ、クロちゃん。おねえちゃまにご挨拶は?」
「‥‥‥どうしても、言わせたいのですね。分かりました‥‥‥こんにちは、義姉上」
「うむ、クロちゃん、いいこいいこ」
執務室に詰めていた文官たちは、目の前の光景に唖然とした。
中には、せっかく揃えた書類をばさばさとばらまいてしまう者までいる。
それもそうだろう。
氷の微笑みに泣く子も黙ると恐れられる宰相閣下が、その美貌に疲労を滲ませながらも、あどけない少女に大人しく頭を撫でられているのだから。
そんな部下達の衝撃を背中に感じていたクロヴィスだったが、特に取り繕う訳でもなく、溜息一つにくるりと室内に向き直すと、少し休憩を入れましょうと告げて彼らを部屋から追い出した。
そして、すれ違い様隠し切れない戸惑いの眼差しを向けてくる文官達を、大猫被りな微笑みで蕩けさせた菫を室内に促し、自らお茶の用意を始めた。
勧められたソファにちょこんと座った少女は、書類に埋もれた宰相の執務室を物珍しそうに見回しながら、大人しく給仕されるのを待っている。
行儀良く膝に揃えて置かれた手は指先まで磨き上げられ、薄い貝殻のように艶やかな爪など見ると、彼女が本当に深窓の令嬢であるかのような錯覚に陥る。
もしくは、それこそ皆が口を揃えて似ていると謳う、精巧な愛玩人形のように思えてならない。
実際には快活な少女であり、大の男を手玉に取って振り回しても無邪気な顔をしていられる、魔性の化身であると知っている身としては、馬鹿馬鹿しい錯覚であるが。
程よく茶葉が解けると、クロヴィスは二つのカップにそれを注ぎ入れ、一つを世界を越えて兄に嫁いできた少女に手渡す。
温かい湯気に乗り、香しく上質な香りにが辺りに漂い、彼は満足げに溜息を吐いた。
「―――それで? なぜ、スミレが一人でこんな所に?」
「おねえちゃまってちゃんと呼ばなきゃ、答えてあげませーん」
「‥‥‥‥では、義姉上。兄上は一緒ではないのですか?」
悶々とする心情を誤魔化すように目頭の間を揉む彼を見て、「書類の見過ぎで目がお疲れなのね。時々遠くの緑を見て目を休めなきゃだめよ」などと大人ぶって注意するうんと年下の義姉に、クロヴィスはいろいろ諦めの境地で再度溜息を吐いた。
「ヴィーは、皇太后様のところで足止めされてます」
「はあ、皇太后陛下の‥‥。それにしても、貴女が一人で出歩くのを兄上がよく許しましたね?」
レイスウェイク大公閣下の妻に対する独占欲はそれはそれは凄まじく、彼女の可憐すぎる容姿に惑わされて寄ってくる男達を嫌って、屋敷の外に出す時は少女から目を離さないのが常だった。
しかも、肝心の妻には危機感が全くないのだから、大公閣下の苦労も一入だろう。
「うん、まあ、足止めされてますから?」
「‥‥‥‥それは、兄上のお許しなしに出歩いていると思って、宜しいのでしょうか?」
「うふふふ~」
「うふふふ~じゃないですよ。‥‥いいのですか、後が怖いですよ?」
皇太后陛下だからこそまだ足止めできているのだろうが、兄は菫のこととなると普段の穏やかな態度が180度ひっくり返るので、今までの例から言って大変危険な状況になりつつあるに違いない。
自分達はのんびりティータイムなんぞ楽しんでいるが、これはもしや嵐の前の静けさではなかろうか。
しかし、そんな魔王召還の種である少女は暢気なもので、クロヴィスの入れた紅茶をゆっくり上品に飲み干したかと思うと、ふわりと蝶が舞う様に立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「どこへ行く気ですか? 悪い事は言いません、兄上が来るまでここに居なさい」
「だめだよー、使命があるのです」
「使命? なんですか、それは‥‥」
自ら宰相執務室の重厚な扉を開いた菫は、引き留めるクロヴィスににっこりと愛らしく微笑み、彼の高い位置にある肩をぽんぽんと叩いて言った。
「慰問」
「‥‥‥‥‥‥‥」
そう言って彼女が身を翻した廊下の先が、現皇帝陛下であり彼らの弟であり、そしてレイスウェイク大公夫人に今だ未練を残す男の執務室であることに気付き、クロヴィスは口を噤んだ。
この時間、皇帝はまだ執務の真っただ中だろう。
真面目過ぎる感がある彼は、きっと休憩も入れずに机に向っているに違いない。
なるほど、それでは菫の訪問は確かに慰問になる。
それが、たとえ弟の心を掻き乱す存在でも、無邪気で飾らず、そして愛らしい彼女の訪問は、彼に一時でも安らぎと慰めを与えるだろう。
グラディアトリアの王城は、先帝であるヴィオラントの大粛正の功労で、今は隅々まで光が通り安穏としている。
騎士団も常駐してはいるが、実際剣を抜かねばならないような事件もここ数年起きてはおらず、至極平和と言っていい。
しかも菫が歩いて行く廊下は、皇太后陛下のおわす後宮と皇帝陛下や宰相以下文官の各々の執務室を繋ぐものであり、王城内でも特に部外者の立ち入りが禁止されている区域。
いつぞや菫本人が公爵令嬢とその騎士に浚われるという事件以降警備も強化され、今や国内で最も安全な場所と言っても過言ではないだろう。
それでもせめて皇帝の執務室まで送ろうと申し出たクロヴィスに、菫は必要ないと告げ、それからふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「お仕事お疲れさま、クロちゃん」
媚びも打算もない純粋な労いの言葉に、クロヴィスは自身も昼餉の後からずっと休憩も取らずに、書類を睨みつけていたことに気付いた。
菫が部屋を訪れなかったら、きっと夕餉の用意を知らされるまでその調子だっただろう。
そして、上司を差し置いて休憩できるはずもない文官達を、必要以上に疲労させるところだった。
「‥‥ありがとう、スミレ。もう少し休憩したら、また頑張りますよ」
「おねえちゃまって呼ばなきゃ、もう来てあげないよ!」
「ああ、はいはい」
可愛らしい眉間に皺を寄せて振り返り、びしりと人差し指を突きつけてくる少女に苦笑しつつ、クロヴィスは胸に片手を当てて恭しくその長身を折り曲げた。
「では、義姉上。次においでになる時は是非先触れを。珍しい菓子を用意してお持て成しさせていただきます」
「うむ。苦しゅう無い。では、ごきげんよう」
偉そうな言葉を愛らしい声で述べながら、彼女が“珍しい菓子”のくだりに頬を上気させたのを見逃さず、その小さな後ろ姿を見守るクロヴィスは目元を緩めた。
よくよく見れば、菫の頭を飾る髪飾りの花々の合間で、レイスウェイク家の執事の眷属と思わしき、ハートの葉が数枚揺れている。
この上ない護衛が彼女に付いていることに安心しつつ、おそらく時を経たずしてこの廊下をやって来るであろう彼女の夫を、自分も足止めすべきかどうかと悩むところだ。
「‥‥‥兄上、怖いんですけどね‥‥」
皆に愛される奇跡の少女をいつも独り占めしている兄に、すこし位意地悪してもいいのではないかと、働き過ぎの宰相閣下は笑った。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「クロちゃん? おねえちゃまですよ」
「‥‥‥‥‥‥どこから、突っ込めばよいのやら‥‥‥」
こんこんと執務室の扉をノックする音に、部屋の主であるグラディアトリアの宰相クロヴィス・オル・リュネブルクが誰何すると、重厚な扉の向こうから返って来たのは小鳥の囀りように愛らしい声。
クロヴィスが慌てて開けた扉の向こうには、思い描いた通りの客人が佇んでいた。
肩に付くか付かないか程度の短さの、黒いふわふわの髪を可憐な花々で飾り、稀なる紫の瞳は光を湛得て真っ直ぐに相手を見据え、白い肌にふっくらとした薔薇色の頬、小振りな鼻にぷるんと瑞々しい小さな唇、化粧気のない顔はされど何処をとっても息を呑む愛らしさ。
年齢的には既にグラディアトリアの成人にあたるのだが、全体的にひどく小柄で幼い子供のように見えて仕方ない彼女が、実は既婚者であるというのは周知の事実である。
スミレ・ルト・レイスウェイク
クロヴィスの兄であり、グラディアトリアの先の皇帝でもあった、ヴィオラント・オル・レイスウェイク大公爵の奥方だ。
十以上も年上の美貌の大公閣下が溺愛するのも頷ける、稀なる魅力満載の小さな淑女は、本日もシフォンと繊細なレースをふんだんに駆使したワンピースドレスをお召しである。
それはまだ身体の凹凸の少ない彼女によく似合うスタイルだが、実はどうも夫であるレイスウェイク大公が、身体の線が出やすい一般的なスタイルのドレスを許さないかららしいのだ。
彼の意見ばかり聞いて服を作ると、どんどん肌の露出が少なくなって最終的には修道服になってしまうと、先日レイスウェイク家を訪ねたおりに、旧知の女官長がぼやいていた。
「まっ、クロちゃん。おねえちゃまにご挨拶は?」
「‥‥‥どうしても、言わせたいのですね。分かりました‥‥‥こんにちは、義姉上」
「うむ、クロちゃん、いいこいいこ」
執務室に詰めていた文官たちは、目の前の光景に唖然とした。
中には、せっかく揃えた書類をばさばさとばらまいてしまう者までいる。
それもそうだろう。
氷の微笑みに泣く子も黙ると恐れられる宰相閣下が、その美貌に疲労を滲ませながらも、あどけない少女に大人しく頭を撫でられているのだから。
そんな部下達の衝撃を背中に感じていたクロヴィスだったが、特に取り繕う訳でもなく、溜息一つにくるりと室内に向き直すと、少し休憩を入れましょうと告げて彼らを部屋から追い出した。
そして、すれ違い様隠し切れない戸惑いの眼差しを向けてくる文官達を、大猫被りな微笑みで蕩けさせた菫を室内に促し、自らお茶の用意を始めた。
勧められたソファにちょこんと座った少女は、書類に埋もれた宰相の執務室を物珍しそうに見回しながら、大人しく給仕されるのを待っている。
行儀良く膝に揃えて置かれた手は指先まで磨き上げられ、薄い貝殻のように艶やかな爪など見ると、彼女が本当に深窓の令嬢であるかのような錯覚に陥る。
もしくは、それこそ皆が口を揃えて似ていると謳う、精巧な愛玩人形のように思えてならない。
実際には快活な少女であり、大の男を手玉に取って振り回しても無邪気な顔をしていられる、魔性の化身であると知っている身としては、馬鹿馬鹿しい錯覚であるが。
程よく茶葉が解けると、クロヴィスは二つのカップにそれを注ぎ入れ、一つを世界を越えて兄に嫁いできた少女に手渡す。
温かい湯気に乗り、香しく上質な香りにが辺りに漂い、彼は満足げに溜息を吐いた。
「―――それで? なぜ、スミレが一人でこんな所に?」
「おねえちゃまってちゃんと呼ばなきゃ、答えてあげませーん」
「‥‥‥‥では、義姉上。兄上は一緒ではないのですか?」
悶々とする心情を誤魔化すように目頭の間を揉む彼を見て、「書類の見過ぎで目がお疲れなのね。時々遠くの緑を見て目を休めなきゃだめよ」などと大人ぶって注意するうんと年下の義姉に、クロヴィスはいろいろ諦めの境地で再度溜息を吐いた。
「ヴィーは、皇太后様のところで足止めされてます」
「はあ、皇太后陛下の‥‥。それにしても、貴女が一人で出歩くのを兄上がよく許しましたね?」
レイスウェイク大公閣下の妻に対する独占欲はそれはそれは凄まじく、彼女の可憐すぎる容姿に惑わされて寄ってくる男達を嫌って、屋敷の外に出す時は少女から目を離さないのが常だった。
しかも、肝心の妻には危機感が全くないのだから、大公閣下の苦労も一入だろう。
「うん、まあ、足止めされてますから?」
「‥‥‥‥それは、兄上のお許しなしに出歩いていると思って、宜しいのでしょうか?」
「うふふふ~」
「うふふふ~じゃないですよ。‥‥いいのですか、後が怖いですよ?」
皇太后陛下だからこそまだ足止めできているのだろうが、兄は菫のこととなると普段の穏やかな態度が180度ひっくり返るので、今までの例から言って大変危険な状況になりつつあるに違いない。
自分達はのんびりティータイムなんぞ楽しんでいるが、これはもしや嵐の前の静けさではなかろうか。
しかし、そんな魔王召還の種である少女は暢気なもので、クロヴィスの入れた紅茶をゆっくり上品に飲み干したかと思うと、ふわりと蝶が舞う様に立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「どこへ行く気ですか? 悪い事は言いません、兄上が来るまでここに居なさい」
「だめだよー、使命があるのです」
「使命? なんですか、それは‥‥」
自ら宰相執務室の重厚な扉を開いた菫は、引き留めるクロヴィスににっこりと愛らしく微笑み、彼の高い位置にある肩をぽんぽんと叩いて言った。
「慰問」
「‥‥‥‥‥‥‥」
そう言って彼女が身を翻した廊下の先が、現皇帝陛下であり彼らの弟であり、そしてレイスウェイク大公夫人に今だ未練を残す男の執務室であることに気付き、クロヴィスは口を噤んだ。
この時間、皇帝はまだ執務の真っただ中だろう。
真面目過ぎる感がある彼は、きっと休憩も入れずに机に向っているに違いない。
なるほど、それでは菫の訪問は確かに慰問になる。
それが、たとえ弟の心を掻き乱す存在でも、無邪気で飾らず、そして愛らしい彼女の訪問は、彼に一時でも安らぎと慰めを与えるだろう。
グラディアトリアの王城は、先帝であるヴィオラントの大粛正の功労で、今は隅々まで光が通り安穏としている。
騎士団も常駐してはいるが、実際剣を抜かねばならないような事件もここ数年起きてはおらず、至極平和と言っていい。
しかも菫が歩いて行く廊下は、皇太后陛下のおわす後宮と皇帝陛下や宰相以下文官の各々の執務室を繋ぐものであり、王城内でも特に部外者の立ち入りが禁止されている区域。
いつぞや菫本人が公爵令嬢とその騎士に浚われるという事件以降警備も強化され、今や国内で最も安全な場所と言っても過言ではないだろう。
それでもせめて皇帝の執務室まで送ろうと申し出たクロヴィスに、菫は必要ないと告げ、それからふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「お仕事お疲れさま、クロちゃん」
媚びも打算もない純粋な労いの言葉に、クロヴィスは自身も昼餉の後からずっと休憩も取らずに、書類を睨みつけていたことに気付いた。
菫が部屋を訪れなかったら、きっと夕餉の用意を知らされるまでその調子だっただろう。
そして、上司を差し置いて休憩できるはずもない文官達を、必要以上に疲労させるところだった。
「‥‥ありがとう、スミレ。もう少し休憩したら、また頑張りますよ」
「おねえちゃまって呼ばなきゃ、もう来てあげないよ!」
「ああ、はいはい」
可愛らしい眉間に皺を寄せて振り返り、びしりと人差し指を突きつけてくる少女に苦笑しつつ、クロヴィスは胸に片手を当てて恭しくその長身を折り曲げた。
「では、義姉上。次においでになる時は是非先触れを。珍しい菓子を用意してお持て成しさせていただきます」
「うむ。苦しゅう無い。では、ごきげんよう」
偉そうな言葉を愛らしい声で述べながら、彼女が“珍しい菓子”のくだりに頬を上気させたのを見逃さず、その小さな後ろ姿を見守るクロヴィスは目元を緩めた。
よくよく見れば、菫の頭を飾る髪飾りの花々の合間で、レイスウェイク家の執事の眷属と思わしき、ハートの葉が数枚揺れている。
この上ない護衛が彼女に付いていることに安心しつつ、おそらく時を経たずしてこの廊下をやって来るであろう彼女の夫を、自分も足止めすべきかどうかと悩むところだ。
「‥‥‥兄上、怖いんですけどね‥‥」
皆に愛される奇跡の少女をいつも独り占めしている兄に、すこし位意地悪してもいいのではないかと、働き過ぎの宰相閣下は笑った。
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