デートのおまけ
前作『蔦姫とデート』のおまけ。
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『デートのおまけ』
菫が流行り病から全快して十日ほど経った頃。
レイスウェイク大公爵一家はグラディアトリア城を訪れた。
菫が寝込んでいる間、心配したヴィオラントの義母や弟達が代わる代わる見舞いに来てくれた。
その時のお礼にと、菫は彼らのために得意のお菓子をこしらえてきたのだ。
母后陛下の私室に集まって、芳しい香りが立つお茶とともにそれを食しつつ、一同は菫の快復を祝った。
その後、それぞれの仕事場に戻って行く忙しい叔父達を見送ると、もうすぐ一歳になるレイスウェイク家の跡継ぎはお昼寝の時間。
母后陛下が抱き上げると、シオンはすぐさま眠りの世界へ旅立ってしまった。
「ヴィオラントの赤子の頃とそっくりですわね」
その寝顔に愛おしげに目を細めた母后陛下は、シオンは自分が見ているから、たまにはゆっくり二人で散歩でもしていらっしゃいと言って、ヴィオラントと菫を私室から追い出した。
菫はヴィオラントに連れられて、グラディアトリア城の庭園を歩いていた。
ふと辺りを見渡せば、それは高熱にうなされていた夜に、十九歳のヴィオラントと共に辿ったのと同じ道だった。
あれがただの夢であったのか、はたまた臨死体験であったのか、結局菫には分からないままである。
ただ、間違いなく彼女が現実を生きている今もまた、カスケードと装飾花壇を眺めつつ常緑樹の垣根に沿って歩いた先には、あの時と同様パーゴラからブドウの実が垂れ下がっていた。
小柄な菫の背では到底届かない高さにあるそれを、彼女がじっと見上げていることに気づいたのか、ヴィオラントが腕を伸ばして一房もいだ。
そして、彼はそのブドウの実を片手に持ったまま、もう片方で菫の手を掴み、少しだけ歩調を早めた。
ヴィオラントが菫の手を引いて辿り着いたのは、やはりあの秘密の庭園であった。
その場所を共有していたロバート・ウルセルはすでに亡いが、管理は彼の後継者である現在の筆頭庭師が引き継いでいるらしく、手入れがきちんと行き届いている。
その東屋の袂に置かれたベンチに、ヴィオラントは菫を座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
「ヴィー、何を怒ってるの?」
菫は隣に寄り添うヴィオラントを見上げ、そっとそう問うた。
彼の菫に対する溺愛っぷりは相変わらずである。
特に、先日はその彼女が流行り病で生死の境を彷徨ったこともあり、ヴィオラントの過保護っぷりは輪をかけて強くなっている。
そんな彼が菫に対して怒っているなんて、誰も思わないに違いない。
しかし、無表情な夫の感情の機微に敏感な菫には、ヴィオラントの胸に小さなくすぶりがあることを見抜いていた。
そして、その原因について、彼女には心当たりがあったのだ。
ヴィオラントは小さくため息をつくと、じっと見上げてくる菫の瞳を見つめ返して口を開いた。
「そなたが熱を出して倒れた時、すでに病状は進行していた。サリバンの話では、そなたは随分と前から体調が優れないのを我慢していたのではないかということだった」
「あ〜……」
「それに、全く気づいてやれなかったことが、私は口惜しくてならない」
「私、平気な顔するの得意だから」
菫がへらりと笑ってそう言うと、ヴィオラントの眉間にぎゅっと深く皺が寄った。
最近では、感情に対する表情の連動機能が回復しつつあるヴィオラントだが、ここまで不快をあらわにするのは珍しい。
菫は余計に彼を怒らせてしまったと気づき、心の中で「しまった」と呟いて肩を竦めた。
しかし、怒りを滾らせたように見えたヴィオラントの瞳は、すぐに別の感情に支配された。
それは、悲しみだった。
「ヴィー?」
菫が戸惑いながら声をかけると、ヴィオラントは深く大きく一つため息をついてから、腕を回して傍らの彼女を抱き寄せた。
「何故、言ってくれなかった」
ヴィオラントの声は、苦渋に満ちていた。
「早くに薬を飲んでいれば、あれほど重症にはならなかったかもしれない。そなたの体調が優れないと知っていれば、シオンの寝ずの看病などさせなかったというのに」
「だって、私、お母さんだもの。自分の身体より、シオン君の方が……」
「それでそなたにもしものことがあったら……それをいつかシオンが知ったとしたら、あの子が自分を責めるとは思わないのか」
「……」
菫には、返す言葉がなかった。
しかし、ヴィオラントの方も、何もスミレを叱責したいだけではなかった。
彼は黙り込んでしまった妻を膝の上に抱き上げると、その小柄な身体をぎゅっと抱き竦め、彼女の特徴的な黒髪に鼻先を埋めて言った。
「そなたが、自分の不調を隠すくせがあるのは知っている。それが、そなたの生い立ちのせいであるのも知っている」
「……」
「兄上に心配をかけさせまいと、兄上を煩わせまいと、そなたはいつもああやって身体の不調を平気な顔をして隠してきたのだな」
育児放棄気味の多忙な両親のせいで、十歳離れた兄を親代わりにして成長してきた菫は、兄の勉学や交友を邪魔したくなくて、いつの間にか体調不良を隠すようになっていた。
軽い風邪なら市販の薬を飲んでやり過ごしてきたし、どうにもならないと思った時はこっそり自分で病院にも行った。
結局はいつも後から兄にばれて、今のヴィオラントと同じように「何故言ってくれなかったのか」と嘆かれたのだが。
「だが、今はもう隠す必要はないだろう。いや、もう隠してはいけない。そなたが熱に浮かされている間、私がどれほど恐ろしかったか分かるか? もしもの時、残された私とシオンを襲う絶望を想像してみてほしい」
「ヴィー……」
「恐ろしかった。そなたを失うかもしれないと思った時、恐ろしくてならなかった」
強く抱き竦められていて、菫にはヴィオラントの顔を窺うことはできなかった。
しかし、その声がかすかに震えているのに気づき、彼が泣いているような気がした。
「ごめんね、ヴィー……ごめんなさい」
菫は、心から彼に申し訳ないと思った。
と同時に、こんなに深く自分を想ってくれる人がいることの幸せを、改めて噛み締めた。
菫は両腕をヴィオラントの脇から後ろへと回し、その広い背中を優しく撫でた。
「ごめんなさい」
ヴィオラントの腕の力が増し、二人は苦しいほどに密着した。
菫の耳元で、安堵したようなため息が聞こえた。
菫はヴィオラントの肩に額を擦りつけつつ、ふとベンチの上に置かれた物に目を留めた。
それは、ここへ来るまでの道すがらヴィオラントがもいだブドウの実であり、あの夢の中で彼が一粒一粒菫の口に入れてくれたものと同じだった。
菫はそのブドウの実を眺めて、今度はそれを自分がヴィオラントの口に入れてやろうと思った。
苦しみの中にいる若かりし頃の彼にしてやれなかったことが、今の菫にはできるのだから。
責務を果たし自由を得た彼のそばにいて、彼を力いっぱい抱き締め返すことが、今ならできるのだから。
そこで菫は、ブドウの実を口に含んだヴィオラントがどんな反応をするのか想像して、小さくふふと笑った。
何故なら、それはとてもとても甘かったのだから——。
菫が流行り病から全快して十日ほど経った頃。
レイスウェイク大公爵一家はグラディアトリア城を訪れた。
菫が寝込んでいる間、心配したヴィオラントの義母や弟達が代わる代わる見舞いに来てくれた。
その時のお礼にと、菫は彼らのために得意のお菓子をこしらえてきたのだ。
母后陛下の私室に集まって、芳しい香りが立つお茶とともにそれを食しつつ、一同は菫の快復を祝った。
その後、それぞれの仕事場に戻って行く忙しい叔父達を見送ると、もうすぐ一歳になるレイスウェイク家の跡継ぎはお昼寝の時間。
母后陛下が抱き上げると、シオンはすぐさま眠りの世界へ旅立ってしまった。
「ヴィオラントの赤子の頃とそっくりですわね」
その寝顔に愛おしげに目を細めた母后陛下は、シオンは自分が見ているから、たまにはゆっくり二人で散歩でもしていらっしゃいと言って、ヴィオラントと菫を私室から追い出した。
菫はヴィオラントに連れられて、グラディアトリア城の庭園を歩いていた。
ふと辺りを見渡せば、それは高熱にうなされていた夜に、十九歳のヴィオラントと共に辿ったのと同じ道だった。
あれがただの夢であったのか、はたまた臨死体験であったのか、結局菫には分からないままである。
ただ、間違いなく彼女が現実を生きている今もまた、カスケードと装飾花壇を眺めつつ常緑樹の垣根に沿って歩いた先には、あの時と同様パーゴラからブドウの実が垂れ下がっていた。
小柄な菫の背では到底届かない高さにあるそれを、彼女がじっと見上げていることに気づいたのか、ヴィオラントが腕を伸ばして一房もいだ。
そして、彼はそのブドウの実を片手に持ったまま、もう片方で菫の手を掴み、少しだけ歩調を早めた。
ヴィオラントが菫の手を引いて辿り着いたのは、やはりあの秘密の庭園であった。
その場所を共有していたロバート・ウルセルはすでに亡いが、管理は彼の後継者である現在の筆頭庭師が引き継いでいるらしく、手入れがきちんと行き届いている。
その東屋の袂に置かれたベンチに、ヴィオラントは菫を座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
「ヴィー、何を怒ってるの?」
菫は隣に寄り添うヴィオラントを見上げ、そっとそう問うた。
彼の菫に対する溺愛っぷりは相変わらずである。
特に、先日はその彼女が流行り病で生死の境を彷徨ったこともあり、ヴィオラントの過保護っぷりは輪をかけて強くなっている。
そんな彼が菫に対して怒っているなんて、誰も思わないに違いない。
しかし、無表情な夫の感情の機微に敏感な菫には、ヴィオラントの胸に小さなくすぶりがあることを見抜いていた。
そして、その原因について、彼女には心当たりがあったのだ。
ヴィオラントは小さくため息をつくと、じっと見上げてくる菫の瞳を見つめ返して口を開いた。
「そなたが熱を出して倒れた時、すでに病状は進行していた。サリバンの話では、そなたは随分と前から体調が優れないのを我慢していたのではないかということだった」
「あ〜……」
「それに、全く気づいてやれなかったことが、私は口惜しくてならない」
「私、平気な顔するの得意だから」
菫がへらりと笑ってそう言うと、ヴィオラントの眉間にぎゅっと深く皺が寄った。
最近では、感情に対する表情の連動機能が回復しつつあるヴィオラントだが、ここまで不快をあらわにするのは珍しい。
菫は余計に彼を怒らせてしまったと気づき、心の中で「しまった」と呟いて肩を竦めた。
しかし、怒りを滾らせたように見えたヴィオラントの瞳は、すぐに別の感情に支配された。
それは、悲しみだった。
「ヴィー?」
菫が戸惑いながら声をかけると、ヴィオラントは深く大きく一つため息をついてから、腕を回して傍らの彼女を抱き寄せた。
「何故、言ってくれなかった」
ヴィオラントの声は、苦渋に満ちていた。
「早くに薬を飲んでいれば、あれほど重症にはならなかったかもしれない。そなたの体調が優れないと知っていれば、シオンの寝ずの看病などさせなかったというのに」
「だって、私、お母さんだもの。自分の身体より、シオン君の方が……」
「それでそなたにもしものことがあったら……それをいつかシオンが知ったとしたら、あの子が自分を責めるとは思わないのか」
「……」
菫には、返す言葉がなかった。
しかし、ヴィオラントの方も、何もスミレを叱責したいだけではなかった。
彼は黙り込んでしまった妻を膝の上に抱き上げると、その小柄な身体をぎゅっと抱き竦め、彼女の特徴的な黒髪に鼻先を埋めて言った。
「そなたが、自分の不調を隠すくせがあるのは知っている。それが、そなたの生い立ちのせいであるのも知っている」
「……」
「兄上に心配をかけさせまいと、兄上を煩わせまいと、そなたはいつもああやって身体の不調を平気な顔をして隠してきたのだな」
育児放棄気味の多忙な両親のせいで、十歳離れた兄を親代わりにして成長してきた菫は、兄の勉学や交友を邪魔したくなくて、いつの間にか体調不良を隠すようになっていた。
軽い風邪なら市販の薬を飲んでやり過ごしてきたし、どうにもならないと思った時はこっそり自分で病院にも行った。
結局はいつも後から兄にばれて、今のヴィオラントと同じように「何故言ってくれなかったのか」と嘆かれたのだが。
「だが、今はもう隠す必要はないだろう。いや、もう隠してはいけない。そなたが熱に浮かされている間、私がどれほど恐ろしかったか分かるか? もしもの時、残された私とシオンを襲う絶望を想像してみてほしい」
「ヴィー……」
「恐ろしかった。そなたを失うかもしれないと思った時、恐ろしくてならなかった」
強く抱き竦められていて、菫にはヴィオラントの顔を窺うことはできなかった。
しかし、その声がかすかに震えているのに気づき、彼が泣いているような気がした。
「ごめんね、ヴィー……ごめんなさい」
菫は、心から彼に申し訳ないと思った。
と同時に、こんなに深く自分を想ってくれる人がいることの幸せを、改めて噛み締めた。
菫は両腕をヴィオラントの脇から後ろへと回し、その広い背中を優しく撫でた。
「ごめんなさい」
ヴィオラントの腕の力が増し、二人は苦しいほどに密着した。
菫の耳元で、安堵したようなため息が聞こえた。
菫はヴィオラントの肩に額を擦りつけつつ、ふとベンチの上に置かれた物に目を留めた。
それは、ここへ来るまでの道すがらヴィオラントがもいだブドウの実であり、あの夢の中で彼が一粒一粒菫の口に入れてくれたものと同じだった。
菫はそのブドウの実を眺めて、今度はそれを自分がヴィオラントの口に入れてやろうと思った。
苦しみの中にいる若かりし頃の彼にしてやれなかったことが、今の菫にはできるのだから。
責務を果たし自由を得た彼のそばにいて、彼を力いっぱい抱き締め返すことが、今ならできるのだから。
そこで菫は、ブドウの実を口に含んだヴィオラントがどんな反応をするのか想像して、小さくふふと笑った。
何故なら、それはとてもとても甘かったのだから——。
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