五臓六腑

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蔦姫とデート

ツイッターのRTお題「あなたは3時間以内に10RTされたら、一方が幽霊になった設定でほのぼの休日デートなヴィーとスミレの、漫画または小説を書きます」から出来上がった代物です。
「蔦姫の奇跡」を前提とした設定。


『蔦姫とデート』



 血塗られた日々を送る彼に、この日、束の間の休日が訪れた。
 ただし、目を覚ましたのはいつも通りの朝も早い時刻。
 そのまま普段と変わらず鍛錬場へと向かい、騎士団に入団したばかりの下の妹に剣の稽古をつけた。
 その後は、上の妹と義母が用意した朝食の席へと座り、今朝は特別ゆっくりと食後の紅茶を楽しむことができた。
 続いて、上の弟に付き合って、王城に古くからある図書館へ。
 この図書館にも、生き字引のような図書館長にも、彼は幼い頃から随分と世話になっている。
 昼食を済ませると、今度は十も年の離れた一番下の弟と遊んでやった。
 まだ九歳と幼い末弟は、多忙な長兄の休日をずっと前から楽しみにしていたのだ。
 末弟を膝の間に抱え込むようにして馬に乗せ、腕の立つ護衛騎士を伴に城から出て丘の上まで駆けた。
 そう遠くない未来、自分の跡を継ぎこの大国を担う運命にある末弟に、彼はそうして守っていくべきものを見せたのだ。
 午後のお茶の時間に王城に戻ると、末弟には勉学の予定が入っていた。
 そうして夕刻まで、彼はようやく一人きりの時間を過ごすことになる――はずだった。



「おーい。ねー、起きてー。お・き・て!」
「――っ……!?」

 私室のソファで束の間うとうとしていたらしい彼――大国グラディアトリアの皇帝ヴィオラント・オル・グラディアトリアは、突然降ってきた声にぱっと両目を見開いた。
 すると、至近距離からじっと自分を見つめている者がいて驚いた。
 しかも、その瞳は紫色――ヴィオラントと同じ稀色だ。
 同じく稀少な白銀色の髪を持つヴィオラントの腹の上に、こちらも大変珍しい黒色の髪をした少女が、両足を揃えてちょこんと座っていた。

「あっ、おはよーございます」
「……お前は……」

 黒髪と紫の瞳をした少女は、ヴィオラントが目を覚ましたことに気づくと、にっこりと微笑んだ。
 彼の腹の上に、相変わらず正座をしたまま。
 ただし、乗っかられているヴィオラントの方は、不思議と彼女の重みを感じていなかった。
 
「お前、また透けているぞ……」

 少女の姿は確かにそこにあるというのに、その背後の風景がヴィオラントの目には透けて見えるのだ。
 彼女とは、以前も会ったことがある。
 ヴィオラントが師と慕う植物学者であり、グラディアトリア城の筆頭庭師であるロバート・ウルセルが、彼のためにこしらえた秘密の箱庭でのことだ。
 策略と粛清を繰り返す凄惨な毎日に疲れ果て、束の間の憩いを求めて東屋のベンチでうとうとしていたヴィオラントの前に、少女はやはり今と同じ朧げな様子で姿を現した。
 しかし、前回と今回では明らかに違っているところもあった。
 
「うっ、わ!」

 ヴィオラントは少女を腹の上に乗せたまま、腹筋を使って一気に上体を起き上がらせた。
 そして、驚きぐらつく少女の身体に、とっさに両腕を回した。
 前回は、ヴィオラントは彼女に触れることができなかった。
 伸ばした手はその身体をすり抜けてしまい、一方少女の方からは彼に触れることが可能であった。
 ところが今回、ヴィオラントは確かに少女を腕の中に捕えることに成功したのだ。

「あれ、触れるの?」

 少女の方も、それにはひどく驚いた様子だった。
 しかし、思いがけず腕の中に収まった温もりに、ヴィオラントが一瞬我を忘れそうになると、とたんにむっと口を尖らせた。

「もー、ぎゅうぎゅうしたら痛いでしょー」
「っ……」

 白くすべらかな手刀が、躊躇なくヴィオラントの眉間に叩き込まれた。
 大国の皇帝陛下に対し、何たる仕打ち。
 しかし、ヴィオラントがそれを咎めることはなく、眉間にしわをこしらえただけで両腕の力を緩めた。
 ただし、捕えた少女を離すつもりはない。
 前回、微睡んでいるヴィオラントの前に突然現れた少女は、その後彼が再び眠り落ちている隙にこつ然と姿を消してしまった。
 また会いたいと願っても、少女の素性は分からず、あの逢瀬はただの夢であったかとヴィオラントも忘れようとしていたのだ。
 そんな少女が、再び目の前に現れた。
 そして、腕の中から上目遣いにじっと彼を見つめ、至極愛らしい様子で首を傾げて言った。

「あのね。ちょっと、助けてほしいんだけど」





 グラディアトリアの王城の庭園は見事なものだった。
 それは、今から七年前に隣国コンラートから渡ってきたロバート・ウルセルが筆頭庭師となってから、さらに洗練された。

「――指輪?」
「うん」

 突然現れて助けを請うた少女と一緒に、ヴィオラントはその庭園を歩いていた。
 目指しているのは、二人が前回出会った秘密の庭園だった。
 そこに設えられた東屋のベンチの脇に、少女は大切な指輪を落としてしまったのだという。
 
「うとうとしてたみたいなんだけど、目が覚めたらまたこっちの世界に居たんだよね。で、驚いて飛び起きた拍子に、指輪が外れちゃって……」
「身体が透けて、拾うことができなかったと?」
「そういうこと」

 常緑樹の垣根に沿って歩くと、カスケードと呼ばれる階段状に流れ落ちる滝を横目に、計算しつくされて植え込まれた装飾花壇を愛でることもできた。
 色とりどりの花が目を楽しませてくれるとともに、様々な果樹も立ち並び、それらは折々に果実を実らせる。
 今もまた、煉瓦の柱に支えられたパーゴラからは、たわわに実ったブドウが垂れ下がっていた。
 ヴィオラントと並んで歩いていた少女は、そのブドウに向かって手を伸ばした。

「あー、美味しそう」
「おい……」

 夕刻まで私室でのんびりと過ごそうと思っていたヴィオラントを、半ば強引に庭まで引っ張ってきたくせに、勝手なものである。
 しかし、高い位置に実っている果実に、小柄な少女はいくら腕を伸ばしても届く気配はなく、しまいにはその場でぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。
 少女の身体は、庭に出ても相変わらず透けている。
 しかも、ここに来るまで何人もの人間とすれ違ったが、彼女を目視できる者は一人もいなかった。
 少女の姿が見えるのはヴィオラントだけであり、彼女に触れられるのもまたヴィオラントだけなのである。
 本人は、幽体離脱したのだろうかなどと、のん気に語っていた。
 しかし、幽体だと言うわりには少女は重力に支配されたままで、手の届かないブドウを恋しげに見上げている。
 ヴィオラントは一つため息をつくと、手を伸ばしてブドウの実を一粒ちぎり取った。

「ほら」

 それを差し出すと、少女はぱっと顔を輝かせて掌に受けようとしたが、その表情はたちまち曇ってしまった。

「あっ……」

 ヴィオラントが掌に載せてやったつもりのブドウは、彼女の透明な身体をすり抜けて、ぽとんと地面に落ちてしまったのだ。
 ころころと土の上を転がる丸い実を、少女は悲しげな表情で見つめた。
 ヴィオラントはまた一つため息をついて、もう一粒新たな実を房からちぎり取った。
 そして、その紫色の果皮を眺めつつ、どうしたものかと頭を捻った。
 すると……

「ねえねえ」
「うん?」
「あーんして」
「……あーん?」

 地面に転がった実を諦めた少女が、ヴィオラントを見上げてパカリと口を開いた。
 まるで、親にエサを強請る雛鳥のように。
 それを目にしたヴィオラントは、一瞬固まった。
 それからしばしの間、彼は指に摘んだブドウの実を見つめて何やら考え込んでいたが、やがてそれを待ち望む場所へとそっと差し出した。
 正直を言うと、ヴィオラントはこの時、ブドウの実は少女の小さな顎をすり抜け、また地面に転がるだろうと思っていた。
 ところが、それを受け入れた唇が窄まったとたん、紫色のまん丸い果実は彼の視界から消え失せたではないか。
 と同時に、指先に触れた柔らかな感触に、ヴィオラントの胸は不覚にもドキリと高鳴った。
 その美貌に吸い寄せられる女性は数知れず、ベッドの上でも彼女達を有効利用してきた皇帝陛下にしては、随分と初心な反応だった。
 しかし、そんな彼の心の乱れなど知りもしない少女は、円やかな頬をふんわりと色付かせて、ふふと笑った。

「あまーい。何だか喉が渇いてたから、美味しい」

 その笑顔に目を奪われたヴィオラントには、手では触れることはできないのに、食べることができるのは何故なのだろうか、などという疑問は、どうでもよくなった。
 そもそも、少女の存在自体がわけが分からないのだから、その彼女の身の上に何が起ころうと不思議ではない。
 ヴィオラントは頼まれもしないのに、気がつけばまたブドウの実を一粒もいでいた。
 そしてそれを、やはり雛鳥のような少女の口に放り込む。
 何度かそれを繰り返していると、やがて少女は両の掌を顔の前で重ね合わせ、彼に向かってペコリとお辞儀をした。

「ありがと。もうお腹いっぱいだから、ごちそうさま」
「……」

 それを聞いたヴィオラントは、なおもブドウの実をもごうとしていた手を止めた。
 指先は、熟した実から溢れた果汁で少しばかり濡れている。
 それをどうしようかと考えたのは一瞬のことで、彼は指を自分の口元へと持っていった。

「甘いな……」

 近くには噴水があって指を濯ぐのは容易かったし、懐にはハンカチも入っていたというのに、ヴィオラントは薄紫色の果汁を舐め取ることを選んだ。
 それは、指先に何度も触れた少女の柔らかな唇の感触を、拭い去りたくなかったからかもしれない。
 艶やかなブドウと似た色をした少女の瞳とかち合うと、彼女はにっこりと微笑んだ。
 ヴィオラントも同じ色の瞳を細め、苦笑を返した。
 ところが、そんな二人の和やかな時間を邪魔する者が現れた。
 それは、大国の皇帝陛下というヴィオラントの現在の立場上、そしてこの場所が欺瞞と策略に満ちた王城である以上、仕方のないことでもあった。

「これはこれは、陛下」
「陛下、ごきげんよう」

 媚び入るような笑顔を浮かべて近づいてくる貴族。
 美貌の皇帝陛下にうっとりと頬を染める貴婦人。
 どれも、ヴィオラントにとっては見飽きた表情ばかりで、自然と心は冷えて瞳は冷徹さを宿す。
 揉み手をしながら擦り寄る男が、どうやって私腹を肥やしているのか、ヴィオラントは知っている。
 女がまとう艶やかなドレスに、汚い金が幾ら注ぎ込まれているかも知っている。
 それなのに彼らときたら、まやかしの栄華に溺れるばかりで、その下で喘ぎ苦しむ人々がいることを知らない。
 若き皇帝の腹づもり一つで、己の首が簡単に飛ぶことも知らない。
 これからのグラディアトリアに、自分達の居場所がないことを知れば、彼らはすぐさま顔色を変えるだろう。
 その時、自らの生き方を顧みて改めるのか、あるいは自らを脅かす皇帝に刃を向けるのか。
 後者のような人間がほとんどであることを、ヴィオラントはこれまでの経験上よく分かっている。
 だから、彼らに期待をすることも、がっかりすることもない。
 玉座に就いて三年目。
 ヴィオラントの周囲は今や敵ばかりで、気を許せる相手と言えば、家族の他にはほんの一握りの側近だけだった。

「陛下、隣国との小麦の取り引きについてですが。実は、私は特別いいルートを持っておりまして……」
「陛下、次の夜会では、わたくしと一番に踊っていただけますか?」

 勝手に話し始める彼らに、今日は自分は休日なのだと訴えても受け入れられないだろう。
 ヴィオラントが真に解放される時は、玉座を末弟ルドヴィークに譲るまで訪れないのかもしれない。
 けれど、この時彼は、皇帝の仮面を一時脱ぎたいと思った。
 己の片手が、弟妹とはまた違った小さな手を握っている、この時は――。
 
「――先を急いでいる」

 そう冷たく告げたヴィオラントの手は、いつの間にか傍らの少女の手をぎゅっと握り締めていた。
 彼の顔と貴族の男女の顔を見比べている彼女の姿は、ヴィオラント以外の人間には見えないし、彼以外の人間がその身に触れることもできない。
 しかし、そうと分かっていても、身振り手振りを交えて話す男の手が、少女の透けた身体を掠めるのが許せなかった。
 香が絡みついた女の手に縋り付かれて、少女の温もりを乱されるのは我慢ならなかった。

「あ、陛下っ……」
「陛下、お待ちください」

 ヴィオラントは引き止めようとする彼らに背を向けると、少女の手を引いて足早にその場を後にした。 
 
 二人はやがて、件の秘密の庭園に到着した。
 ヴィオラントが腰を屈めてベンチの脇を覗き込むと、柔らかな芝生の上に確かに小さな指輪が落ちていた。  
 少女は以前ここに現れた時、ヴィオラントにだけは触れることができたのを思い出し、彼に助けを求めたのだった。
 その、何ものにも触れることが叶わない少女の手を、ヴィオラントの手はまだしっかりと握っていた。

「……これか?」

 ヴィオラントは指輪を人差し指と親指の先で摘んで拾い上げた。
 飾り気のない、ごくごくシンプルな指輪だ。
 ここに来る途中に出会った貴婦人の指にはまっていた、ごろごろと宝石の付いたものとは対照的である。
 しかし、よくよく観察してみると、表面には繊細な飾り彫りが施されていて、それがどれほど上等な代物であるのかはすぐに知れた。

「拾ったはいいが……さて、どうやって渡そうか」
「え~っと……」

 拾い上げた指輪を、ヴィオラントはまず少女の掌に載せようと試みた。
 しかし、それはやはり透けた身体を通り抜け、再び地面へと落ちてしまった。
 次に、少女が胸元を寛げてここに入れろと言うので、ヴィオラントははしたないことをするなと窘めつつ、結局は言われるままにそこに放り込んでみたが、やはり結果は同じだった。
 少女はその度に地面にしゃがみ込み、落ちた指輪を必死に両手ですくい上げようとするが、それが叶うことはついになかった。

「どうしよう……」

 ヴィオラントが代わりに指輪を拾い上げてやると、少女は眉を八の字にして彼を見上げた。
 その困り顔を眺めつつ、ヴィオラントは指輪を持っていない方の手を顎に当ててふむと首を捻った。
 
「これは、元々どこにはまっていた?」
「……左手の薬指」
「ここのベンチで目を覚ました時には、まだ確かにそこにはまっていたんだな?」
「うん、たぶん……」

 ということは、左手の薬指になら、指輪をはめることができるのかもしれない。
 そもそも、先ほどブドウの実を口に含むことはできたのだから、どうにもならない場合は口に銜えさせるという手もある。
 そう思ったヴィオラントは、しょんぼりとした少女の左手を掴むと、透けた薬指の根元深くまで指輪を押し込んでみた。

「――あれっ!?」

 するとどうだろう。
 指輪は、当たり前にようにそこに留まったではないか。
 しかし、驚いた少女が身じろぐと、それはまたスポンと指から抜け落ちてしまった。
 どうやら、指輪は少々サイズが合わなくなっていて、しかも薬指の根元という限定された部分以外には留まらなくなっているらしい。
 ヴィオラントがどういう理屈だと眉を顰めつつ、もう一度指輪を所定の位置にはめ直してやると、少女は今度は抜け落ちないようにと左手を拳にし、さらにそれをぎゅっと右手で握り込んだ。

「……何か、特別な指輪なのか?」

 さも大事そうに指輪を握り締める様子に、ヴィオラントはふとそう尋ねてみた。
 それに、少女はこくりと頷くと、「とても大事なもの」と答えた。

「左手の薬指の血管は、心臓に繋がっているんだって。私、この指輪を通して、これをくれた人の心と繋がっているの」
「心臓? 心……?」

 ヴィオラントは訝しい顔をしたが、少女は指輪のはまった指を握り締めたまま、なおも続けた。

「私の心臓は、あの人の心音をいつも感じている。あの人の想いを糧に、動いている。そして、私も想いもあの人の糧になればいいと思っている」

 少女が語る抽象的な言葉を、ヴィオラントはさほど理解できなかった。
 ただ、彼女が誰かを――その指輪を贈った人物をとても愛し、大切に思っていることだけは、ひしひしと伝わってきた。
 とたんに、つきりと胸を突いた痛みは、嫉妬であろうか。
 しかし、少女が顔を上げたとたん、ヴィオラントを苛みそうになっていたその痛みは、柔らかな羽毛に優しく撫でられるようにして凪ぎ払われた。

「――あの人に、会いたい」

 少女は満面の笑みを浮かべて、誰かへの想いを口にした。
 それは、ヴィオラントの知らない相手に向けられたものであるはずなのに、自分が彼女に求められたと思ってしまったのは、はたして錯覚だろうか。
 ふと気づくと、ただでさえ透けていた少女の身体が、さらに薄れて儚くなってしまっていた。
 
「おい……!」

 ヴィオラントはとっさにその身体を捕まえようとしたが、伸ばした両手は宙を切っただけで、もう彼女の温もりを得ることができなかった。
 このまま、また少女は消えてしまうのだろうと、彼は思った。

 ——行くな!

 そう口にしようとして、しかしヴィオラントはぐっと唇を噛んでそれを耐えた。
 きっと、少女自身にもどうしようもないことなのだと漠然と分かっていたからだ。
 それに、何故だか今、彼女を引き止めてはいけないような気がした。
 そんなヴィオラントを、少女は少しだけ大人びた笑顔を浮かべて見つめ、静かな声で言った。

「あなたの心臓の音が、私には聞こえるよ」
「何を言っている……?」
「大丈夫、それを止めることは誰にもできない。前を見て、歩いて、そしていつか――私の心をさらいに来てね」
「——!」

 その言葉を最後に、風に浚われるようにして、黒髪の少女の姿はヴィオラントの目の前から消え去った。

「……」

 ヴィオラントは伸ばしかけた片手を下ろすと、背後にあったベンチに無言のままドサリと腰を下ろした。
 不思議な黒髪の少女が側にいた痕跡は、何一つ残っていない。
 まるで、彼女と過ごした時間が夢であったかのように、ヴィオラントの静かな休日がまた戻ってきた。
 ヴィオラントはそのままベンチの上に寝そべり、両手で目を覆おうとした。
 ところが、突如ふわりと鼻腔をくすぐった甘い香りに、彼はぱっと両目を見開いた。
 それは間違いなく瑞々しいブドウの香りであり、目を覆おうとしていた自身の手から漂っていた。
 夢でも幻でもなく、ヴィオラントは確かにあの少女のためにブドウの実をもぎ、それを手ずから彼女に食わせたのだ。
 とたんに、かすかに触れた柔らかな唇の感触さえもまざまざと蘇ってきて、ヴィオラントは大事なもの守るかのように、彼女に触れた手をぎゅっと握り込んだ。
 そして、もう片方の手を胸の上に置いた。
 その皮膚と筋肉の下では、確かにドクドクと心臓が脈打っている。
 少女はその音が聞こえると言い、そしていつか自身の心をさらいに来いとヴィオラントに告げた。

「——また、きっと会える」

 そう確信したヴィオラントは、安堵したかのような長い長いため息を一つ吐いた。
 そして、夕刻になってこの秘密の場所を共有するロバート・ウルセルが揺り動かすまで、若きグラディアトリアの皇帝は、しばしの間何も考えずに眠った。


 





「――スミレ」

 菫が目を覚ますと、目の前には夫であるヴィオラント・オル・レイスウェイクの顔があった。
 先ほどまで彼女が一緒にいた十九歳のグラディアトリア皇帝ではなく、玉座を下りてレイスウェイク大公爵となった二十八歳の彼だ。
 いささか顔色が優れないように見えたのが少し心配だったが、とにかく会いたくてたまらなかった人を見つけ、菫はふわりと顔を綻ばせた。

「ヴィーに会いたくて、帰ってきたよ」
「そうか……」

 菫がおかしなことを言っても、ヴィオラントが訝しむ様子はなかった。
 彼はベッドに横たわっていた妻を抱き起こすと、少し痩せた背中を震える手で何度も撫でた。

「おかえり、スミレ……」
「うん、ただいま」

 第一子シオン・ルト・レイスウェイクを出産して一年が経とうとした頃、菫は流行り病に罹った。
 流行り病と言っても、こちらの世界ではごく一般的な病気で、大体は幼い子供の頃に罹って軽く済む。
 しかも、一度感染して免疫ができると、二度と発症することはない。
 ただし、十六歳の時に異世界からやってきた菫には、その幼い頃に得るはずの免疫がなかった。
 一歳を目前にしたシオンが発症すると、それはたちまち母である菫に感染してしまった。
 まだ乳飲み子であるシオンが三日とかからずに快復したにも関わらず、菫は十日もの間高熱と節々の痛みに苦しめられた。
 腫れた喉は食べ物ばかりか水もろくに通さず、元々華奢な彼女の身体はさらに儚さを増した。
 左手の薬指にはめていた結婚指輪が抜けるようになり、夫であるヴィオラントがそれを彼女の手ごと必死で握り締めていたのは、侍医も務めるレイスウェイク大公爵家の侍従長が、秘かに今夜が峠かと考えていた夜だった。

 幸い、菫は無事山を越えることができた。
 翌朝にはそれまでの高熱が嘘のように熱が下がり、昼にはベッドに起き上がって昼食をとるまでに快復した。

 左手の指輪が、また彼女の薬指にしっくりと収まるようになるまで、それほど時間はかからなそうであった。



 
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