レモンの木
実家のレモンの木でちょうちょが羽化いたしましたので、それを記念して突発小話。
菫がそれを見つけたのは、五日ほど前のことだった。
屋敷の庭の一角に植えられたレモンの木で、そいつはむしゃむしゃと一心に葉を食べていた。
レモンの葉と同じ黄緑色で、むっちりとした立派な身体。
大きな目に見える部分は実は敵を威嚇するための模様で、実際の目はとても小さくて、しかも六つもあるらしい。
足は、胸脚、腹脚、尾脚という三種類あって、全部で八対。
そいつは菫にじっと見つめられているのも気にかけず、ただ黙々とレモンの葉っぱをかじっていた。
菫は、その弾力がありそうな黄緑色の横っ腹を指で突つこうかと思ったが、やめた。
何故なら、触ったり驚かせたりすると、そいつの頭から嫌な臭いのするオレンジ色の角が出てくることを知っていたからだ。
菫は、レモンの木の住人をしばらく見守ることにした。
そして今朝、レモンティーに浮かべるレモンをもぎにやってきた菫は、そいつが昨日とは違う姿に変わっていることに気がついた。
「——スミレ、どうした?」
レイスウェイク家のレモンの木は小振りで、小柄な菫の背丈はちょうどそれと同じ程の高さ。
彼女が首を傾げて枝を凝視していることに気づき、一緒にその場を訪れていたヴィオラントもレモンの木を眺めた。
「ああ、蛹か。チョウのものだな」
「うん、アゲハ蝶」
二人が言うとおり、そこにあったのはアゲハ蝶の蛹だった。
菫がここ五日ほど見守っていた黄緑色のむちむちの幼虫は、美しい蝶に変化するための準備に入ったのである。
「レモンの木とは珍しいな。いつもはオレンジの木にいるのだが」
「葉っぱが似てるから、お母さんが卵産む時に間違えちゃったのかな」
レイスウェイク家の庭にはオレンジの木も一本植わっている。
おそらくそっちでも、同じような蛹が見られるのだろう。
それを思うと、一人ぼっちでぽつんとしているこのレモンの木の蛹が、菫には少し寂しそうに見えた。
「ちゃんと羽化するかな」
心配そうに菫が呟くと、ヴィオラントが「心配ない」と答えて、彼女を抱き寄せた。
菫が無意識に自分の下腹に手をやっていることに、気づいたからだろう。
そこに、新しい命が宿っていることを二人が知ったのは、まだほんの十日ほど前のことだ。
おそらくまだ目の前の蛹ほどの大きさしかないであろう命は、それを腹に宿す菫自身にもその存在を感じとることは難しい。
起きているのか寝ているのか——生きているのかさえ分からず、彼女は不安になっては下腹に手を当てる。
「心配ない」
菫が、蛹と自分の胎の子を重ね合わせていることに気づいたのか、ヴィオラントはもう一度そう言った。
その時、ぽつりと彼の頬に冷たいものが当たった。
どうやら、雨が降り始めたようだ。
空を見上げれば、いつの間にかどんよりとした黒い雲が頭上を覆っていた。
ヴィオラントは黄色く色付いたレモンの実を一つもぎ取ると、雨に気づかず蛹を見つめている菫に「戻ろう」と声をかけた。
「スミレ、雨だ。濡れると身体に障る」
「雨?」
それを聞いて、ヴィオラントと同じように空を見上げた菫の頬にも、ぽつぽつと雨の雫が当たった。
と思ったら、雫はたちまち大粒に変わった。
ヴィオラントは屋敷の中に戻ろうと、すぐさま菫を抱き上げる。
「ヴィー、待って」
菫は彼の長い脚が動いてその場から離れるのを慌てて止めると、懐からハンカチを取り出した。
そしてそれを、蛹がくっ付いている枝の上に、そっとかけてやった。
雨は、その日の内にやんだ。
しかし、しばらく菫はレモンの木の蛹を見に行くことができなかった。
体調が優れず、ベッドで臥せっていたのだ。
ヴィオラントはたいそう心配したが、レイスウェイク家の侍従長と侍医を兼ねるサリバンが、その不調が病ではないことを伝えて彼を宥めた。
ヴィオラントの乳母を務めた女官長マーサは、つわりはお腹に御子が育っている証拠ですよと言って菫を励ました。
菫がやっと午後のお茶を楽しむ気になったのは、幼虫が蛹になった日から十日ほど経ってからだった。
天気がよかったその日は、マーサがベランダにテーブルを用意してくれた。
もともと華奢な菫がここ数日の不調で余計に儚くなったように感じ、心を痛めていたヴィオラントは、向かいの席に座る彼女の顔色が、昨日までよりずっと良くなっていることにほっとしていた。
甘いものが極端に苦手な彼が、菫が頬張るクリームたっぷりのケーキを一口食べてみようかと思うほどに。
それは、十日ぶりに菫にお菓子を強請られた料理長が、喜び勇んでこしらえたものだ。
上は一面に真っ白い生クリームが覆い、その下にはふわふわのスポンジ、フルーツのシロップ漬けときて、一番下の段はムースになっている。
ほのかな酸味がさわやかな、レモンのムースだ。
ヴィオラントはそれを一口菫のフォークからもらい、やっぱり甘いなという感想を抱いた。
しかし、菫が実に美味しそうにそれを食べるので、自然と彼の頬も綻んだ。
「あっ……」
ところが、ケーキに夢中になっていたはずの菫の瞳が、突然宙に向けられた。
何ごとかと、ヴィオラントもその視線を追う。
そうして、二人のお揃いの紫色の瞳が映したのは、ひらひらと頼りなく飛ぶ一匹の蝶であった。
「アゲハ蝶だよね」
「そうだな」
「あの……レモンの木にいた子かな?」
「さあ、どうだろう」
アゲハ蝶は、菫の周りをしばしひらひらと舞っていた。
もしかしたら、甘いケーキの香りを花の蜜と間違えたのかもしれない。
しかし、やがて風に吹かれるようにその場を離れると、花が咲くレイスウェイク家の庭園の方へと飛んでいってしまった。
「……」
それを、菫は黙って見送った。
彼女の片手は、また下腹に置かれている。
それに気がついたヴィオラントは、紅茶を一口含んでカップをソーサーに戻すと、動きが止まっていた菫のフォークを持つ手に掌を添えた。
ピクリと震えた彼女の視線が、庭園に消えた蝶からヴィオラントへと移る。
菫の唇が動く前に、ヴィオラントが口を開いた。
「そのケーキを食べ終わったら、レモンの木を見に行こうか」
その言葉に、菫は一瞬答えを躊躇した。
レモンの木にあった蛹が、果たして空になっているのか、はたまたまだ眠っているのか——あるいは黒ずんで沈黙してしまっているのか、確かめるのが少し怖いと思ったからだ。
しかし、また目の端にひらひらと舞うアゲハ蝶の影を感じると、彼女は小さくうんと頷いた。
菫がそれを見つけたのは、五日ほど前のことだった。
屋敷の庭の一角に植えられたレモンの木で、そいつはむしゃむしゃと一心に葉を食べていた。
レモンの葉と同じ黄緑色で、むっちりとした立派な身体。
大きな目に見える部分は実は敵を威嚇するための模様で、実際の目はとても小さくて、しかも六つもあるらしい。
足は、胸脚、腹脚、尾脚という三種類あって、全部で八対。
そいつは菫にじっと見つめられているのも気にかけず、ただ黙々とレモンの葉っぱをかじっていた。
菫は、その弾力がありそうな黄緑色の横っ腹を指で突つこうかと思ったが、やめた。
何故なら、触ったり驚かせたりすると、そいつの頭から嫌な臭いのするオレンジ色の角が出てくることを知っていたからだ。
菫は、レモンの木の住人をしばらく見守ることにした。
そして今朝、レモンティーに浮かべるレモンをもぎにやってきた菫は、そいつが昨日とは違う姿に変わっていることに気がついた。
「——スミレ、どうした?」
レイスウェイク家のレモンの木は小振りで、小柄な菫の背丈はちょうどそれと同じ程の高さ。
彼女が首を傾げて枝を凝視していることに気づき、一緒にその場を訪れていたヴィオラントもレモンの木を眺めた。
「ああ、蛹か。チョウのものだな」
「うん、アゲハ蝶」
二人が言うとおり、そこにあったのはアゲハ蝶の蛹だった。
菫がここ五日ほど見守っていた黄緑色のむちむちの幼虫は、美しい蝶に変化するための準備に入ったのである。
「レモンの木とは珍しいな。いつもはオレンジの木にいるのだが」
「葉っぱが似てるから、お母さんが卵産む時に間違えちゃったのかな」
レイスウェイク家の庭にはオレンジの木も一本植わっている。
おそらくそっちでも、同じような蛹が見られるのだろう。
それを思うと、一人ぼっちでぽつんとしているこのレモンの木の蛹が、菫には少し寂しそうに見えた。
「ちゃんと羽化するかな」
心配そうに菫が呟くと、ヴィオラントが「心配ない」と答えて、彼女を抱き寄せた。
菫が無意識に自分の下腹に手をやっていることに、気づいたからだろう。
そこに、新しい命が宿っていることを二人が知ったのは、まだほんの十日ほど前のことだ。
おそらくまだ目の前の蛹ほどの大きさしかないであろう命は、それを腹に宿す菫自身にもその存在を感じとることは難しい。
起きているのか寝ているのか——生きているのかさえ分からず、彼女は不安になっては下腹に手を当てる。
「心配ない」
菫が、蛹と自分の胎の子を重ね合わせていることに気づいたのか、ヴィオラントはもう一度そう言った。
その時、ぽつりと彼の頬に冷たいものが当たった。
どうやら、雨が降り始めたようだ。
空を見上げれば、いつの間にかどんよりとした黒い雲が頭上を覆っていた。
ヴィオラントは黄色く色付いたレモンの実を一つもぎ取ると、雨に気づかず蛹を見つめている菫に「戻ろう」と声をかけた。
「スミレ、雨だ。濡れると身体に障る」
「雨?」
それを聞いて、ヴィオラントと同じように空を見上げた菫の頬にも、ぽつぽつと雨の雫が当たった。
と思ったら、雫はたちまち大粒に変わった。
ヴィオラントは屋敷の中に戻ろうと、すぐさま菫を抱き上げる。
「ヴィー、待って」
菫は彼の長い脚が動いてその場から離れるのを慌てて止めると、懐からハンカチを取り出した。
そしてそれを、蛹がくっ付いている枝の上に、そっとかけてやった。
雨は、その日の内にやんだ。
しかし、しばらく菫はレモンの木の蛹を見に行くことができなかった。
体調が優れず、ベッドで臥せっていたのだ。
ヴィオラントはたいそう心配したが、レイスウェイク家の侍従長と侍医を兼ねるサリバンが、その不調が病ではないことを伝えて彼を宥めた。
ヴィオラントの乳母を務めた女官長マーサは、つわりはお腹に御子が育っている証拠ですよと言って菫を励ました。
菫がやっと午後のお茶を楽しむ気になったのは、幼虫が蛹になった日から十日ほど経ってからだった。
天気がよかったその日は、マーサがベランダにテーブルを用意してくれた。
もともと華奢な菫がここ数日の不調で余計に儚くなったように感じ、心を痛めていたヴィオラントは、向かいの席に座る彼女の顔色が、昨日までよりずっと良くなっていることにほっとしていた。
甘いものが極端に苦手な彼が、菫が頬張るクリームたっぷりのケーキを一口食べてみようかと思うほどに。
それは、十日ぶりに菫にお菓子を強請られた料理長が、喜び勇んでこしらえたものだ。
上は一面に真っ白い生クリームが覆い、その下にはふわふわのスポンジ、フルーツのシロップ漬けときて、一番下の段はムースになっている。
ほのかな酸味がさわやかな、レモンのムースだ。
ヴィオラントはそれを一口菫のフォークからもらい、やっぱり甘いなという感想を抱いた。
しかし、菫が実に美味しそうにそれを食べるので、自然と彼の頬も綻んだ。
「あっ……」
ところが、ケーキに夢中になっていたはずの菫の瞳が、突然宙に向けられた。
何ごとかと、ヴィオラントもその視線を追う。
そうして、二人のお揃いの紫色の瞳が映したのは、ひらひらと頼りなく飛ぶ一匹の蝶であった。
「アゲハ蝶だよね」
「そうだな」
「あの……レモンの木にいた子かな?」
「さあ、どうだろう」
アゲハ蝶は、菫の周りをしばしひらひらと舞っていた。
もしかしたら、甘いケーキの香りを花の蜜と間違えたのかもしれない。
しかし、やがて風に吹かれるようにその場を離れると、花が咲くレイスウェイク家の庭園の方へと飛んでいってしまった。
「……」
それを、菫は黙って見送った。
彼女の片手は、また下腹に置かれている。
それに気がついたヴィオラントは、紅茶を一口含んでカップをソーサーに戻すと、動きが止まっていた菫のフォークを持つ手に掌を添えた。
ピクリと震えた彼女の視線が、庭園に消えた蝶からヴィオラントへと移る。
菫の唇が動く前に、ヴィオラントが口を開いた。
「そのケーキを食べ終わったら、レモンの木を見に行こうか」
その言葉に、菫は一瞬答えを躊躇した。
レモンの木にあった蛹が、果たして空になっているのか、はたまたまだ眠っているのか——あるいは黒ずんで沈黙してしまっているのか、確かめるのが少し怖いと思ったからだ。
しかし、また目の端にひらひらと舞うアゲハ蝶の影を感じると、彼女は小さくうんと頷いた。
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