五臓六腑

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短編からの小話

短編『天井裏からどうぞよろしく』小話

※小説家になろうの活動報告に掲載したものです。






「いいか、チビッ! よく聞け!」
「はい、とと様!」

 黒ずくめの男と少女は暗闇で身を寄せ合い、そう声を潜めて言葉をかわした。
 ここは、百の属国を抱えるとある大帝国の要、若き皇帝陛下の執務室……の天井裏である。
 血の繋がらない父娘の関係にある男と少女は、ともに敗戦を機に帝国に組した祖国に派遣された諜報員。
 まだまだ未熟な娘に対し、父親は暇さえあればスパイの心得を説く。

「我ら諜報員に非番はない! 常に目を見開き耳をそばだて、どんな小さな情報も逃さず察知せよ!」

 覆面で隠された顔から唯一見える男の目は真剣そのものだ。
 養い子可愛さに、彼の講義に熱が入るのはいつものこと。

「はい、とと様! 実は、本日アジトの近所のスーパーで、四時のタイムセールで卵一パック六十円との情報を察知しました! お隣の奥さん情報なので間違いありません!」

 同じくそれを見上げる少女の方も大真面目。
 アジトの台所を任されている彼女としては、食糧の特価情報には興奮せずにいられない。

「常に周囲への注意を怠るな! 自分に向いてきた運を一つも逃すなよ!」
「これまでどんなに安くなっても七十九円止まりだったのに、これは見逃せませんよっ!」
「運をうまく利用し、それを最大限に仕事に活かすのだっ!」
「お一人様一パック限りですから、とと様も一緒にレジに並んでくださいね!」

 そんな父娘のかみ合わないやりとりを、彼らと同じく覆面で顔を隠した連中が微笑ましく見守っている。

「おちびちゃんは、相変わらずマイペースだなぁ」
「平和だねぇ」

 暗闇の中なのではっきりとした数は分からないが、三十人ほどはいるだろうか。
 彼らもまた、それぞれ特命を受けて大帝国に忍び込んだ諜報員だ。
 毎日この天井裏に貼り付き、真下の部屋で一日の大半を過ごす皇帝陛下の言動をつぶさに観察するのが仕事である。
 しかし今、天井裏の連中は誰一人として下の部屋を見ていない。
 とは言っても、彼らがそろって職務放棄をしているというわけではない。
 ただ単に、観察すべき対象が席を外しているのだ。

「いつものことながら、我々のターゲットはトイレが長いですなぁ」
「まったくですなぁ」

 いまだ懇々と娘に“諜報部員の何たるか”を説いている男を眺めつつ、諜報員達はそう言葉をかわした。
 彼らが目を光らせるべきターゲットは、つい先ほど涼しい顔の腹心に毒づいて書類の束を机に叩き付けた思ったら、しばらくの間苛々とした様子で執務机の周りを歩き回っていた。
 しかし、彼はやがて執務室の奥の小部屋へと姿を消した。
 そこはいわゆるお手洗い。
 トイレは暗黙の了解で不可侵条約が結ばれているので、諜報員達も絶対に覗かない場所だ。
 そういうわけで、皇帝陛下のトイレ休憩に合わせ、天井裏組も束の間の息抜き中。
 しかし、この皇帝陛下はトイレが長いことでも有名で、諜報員達は待ちぼうけを食らっていい加減退屈し始めていた。

「もしかして……重度の痔ですかな?」

 誰かがピシリと碁石を置きながらそう呟いた。
 すると、碁盤を挟んで向かいに座る誰かが「ありうる」と同意する。
 
「座り仕事の辛いところですなぁ」
「ドーナツクッションをプレゼントしますかな?」

 それぞれが持ち寄った娯楽に興じつつ、諜報員達の間で皇帝陛下に対する勝手な同情が集まり始めた。

「……妙な情報を流さないでくれ」

 そんな時、天井裏に新たな人物が加わった。
 他の者と同じように覆面で顔を隠してはいるが、声の感じからしてまだ若い男だ。
 彼が皇帝陛下痔疑惑を呆れた様子で否定しながら輪に加わると、誰かが「いやいや」と声を上げた。

「痔をなめちゃあなんねぇ。あれだけ血気盛んだった先代があっさり玉座を降りたのは、重度のイボ痔が原因だってもっぱらの噂だぞ」
「そうそう。馬に跨がるのなんて悶絶ものだったっていうよなぁ」

 かつて、その勇ましさから“百獣の王”とも呼ばれて恐れられた皇帝の哀れな末路。

「……」

 それがただの噂ではなく事実だと知っていた若い諜報員の男は、黙って遠い目をした。 
 三年前に隠居して静養中の先代が、ドーナツクッションを手放せない身体になってしまっていることも、彼は知っているのだ。

「こんにちは」
「おう」

 そんな男の側に、ようやく父親の講義から解放された少女が寄ってきた。
 覆面から出た男の目が、とたんに柔らかくなる。
 少女は、日の当たらない天井裏の暗闇にひっそりと咲く慎ましい野花。
 ただの諜報員よりもずっと重い責務を負う男にとって、まさに癒しとなる存在だった。

「卵がどうのと、話していたか?」
「はいっ! 卵が十個入りで六十円なんです。一個六円ですよ!? これを見逃したら、一生後悔しますっ!」
「急な価格下落の原因は何だ? 質の劣る安価な卵でも大量輸入されたのだろうか……」

 そう首を捻る男の言葉に、少女はとんでもないとばかりに首を横に振った。

「いーえっ! 安かろう悪かろうじゃ、今時お客は納得しませんよ! あそこの店の卵は朝採りで新鮮なのが売りなんです! 全てはお店の涙ぐましい企業努力の賜物ですよ!」
「そうか……」

 両手を拳にして力説する少女にたじたじとしつつ、男はふと気になったことを尋ねた。

「おちびは卵が好きなのか? 料理も自分でするのか?」
「はいっ! レパートリーは多くないですが、卵料理は結構得意ですよ。オムレツをふわふわのトロトロに仕上げるのだけは、自信があります!」
「そうか。それは、是非いつかご馳走になってみたいものだな」
「そうですね、いつか——」

 男と少女はそう言って互いに覆面越しに微笑み合った。
 しかし、それが実現するはずがないことを二人とも知っていた。

 いかに男が少女の手料理を望んでも、いかに少女が男のためにふわふわのオムレツを作ってやりたいと願っても、二人が異なる国に属する諜報員である限り、そんな機会は一生訪れない。
 

 ——その、はずだった。


 しかし、やがて男は覆面を脱いで少女の前に立ち、不敵な笑みを浮かべることになる。

 そして少女もまた、日の下に顔を晒し、天井裏から見守る諜報員達を皇帝執務室から見上げることになる。



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