1122小話
11月22日いい夫婦の日に合わせまして、またもや小話を一つ。
「スミレちゃん! ちょっとコレ、どういうことっ!」
「あら、シオン君。おかえりー」
シオンが両親の私室へと鼻息荒く駆け込むと、彼の母親は午後のお茶の用意をしているところだった。
テーブルの上には茶器のセットと、彼女が焼いたクッキーがたっぷり載った皿。
その美味さは疑うべくもないので、いたいけな八歳児は思わず誘惑に負けて片手を伸ばしたが、クッキーを掴む前に「こらっ」と甲を打たれた。
「泥だらけでばっちい。手を洗ってきなよ」
「誰のせいで泥だらけになったと思ってんのっ!」
シオンは眉を顰め、両親から受継いだ紫色の瞳で母スミレを睨み上げた。
「落とし穴に落ちたんでしょ? シオン君が勝手に」
「スミレちゃんが穴を掘らなきゃ僕だって落ちたりしないんだよっ!」
シオンが怒るのも無理はない。
昼餉の後、屋敷の庭で遊んでいた彼だったが、ついさっきこの少女のような母の罠にはまって落とし穴に落ちたのだ。
おかげで全身泥だらけ。
しこたま打ち付けた尻が痛いやら恥ずかしいやらで、怒り心頭。
幸い、すぐ側にいた庭師のポムに穴から引っ張り出してもらえたが、シオンは彼への礼もそこそこに、犯人に抗議をしにやってきたのだ。
ところが、父譲りの整った顔を真っ赤にして詰め寄る息子に、スミレはにっこりと愛らしく微笑んで返した。
息子の目から見てもお人形のように可憐な母の、この笑顔は曲者だ。
シオンの父を筆頭に、叔父も叔母も祖父母を含む親族他関係者一同、この笑顔を向けられれば彼女がどんなことをしても許してしまう。
ああ、またスミレの可愛らしい悪戯か――と、苦笑して。
シオンは、自分だけは甘くはないぞと胸を張り、頭一つ分上に見える母の笑顔を睨み付けた。
「ほっぺに泥つけて、シオン君ってばワイルドさ一割り増しね」
「何、得したね、みたいな言い方してくれてんのっ! しかも、一割ってちょっとじゃん!」
「ママは草食系男子より肉食系男子の方が好きだぞ」
「スミレちゃんの好みなんか聞いてないよっ!」
きゃんきゃんと吠える幼い息子に謝るつもりはないらしいスミレは、にこにこしたままハンカチを取り出すと、泥に汚れた彼の頬を拭ってやった。
そして、夫と同じ白銀の髪に絡んでいた落ち葉を払い、ヘの字になっていた口にクッキーを一つ突っ込んでやる。
「……ウマいじゃん」
「うむ、苦しゅうない」
「でも、クッキーなんかで誤魔化されないからねっ! なんで、庭に落とし穴なんか掘ったんだよ!?」
「それは、シオン君を落とすためです」
「我が子を狙って落とし穴を掘る母がどこにいるの!」
「はい、ここにおりますよ」
「そのドヤ顔やめてっ!」
スミレの焼いたクッキーは予想通り美味かったが、それを噛み砕いて飲み込むと、シオンは再び吠えた。
口を開いた拍子に再び突っ込まれそうになるクッキーは、理性を総動員して拒否する。
「父上に言い付けてやるからねっ!」
「まあ、やだ。さすがお子様ね。大人の権威を借りないと、ろくに反撃もできないなんて」
「お子様ですから! 僕ってば、可愛い可愛い八歳児ですもん!」
「でも、残念。おとー様はいつだっておかー様の味方なのよ。――ねぇ、ヴィー?」
紅茶の用意を終えたスミレが眩いばかりの笑顔を向けた先で、カチャリと扉が開いた。
入ってきたのは、シオンの父であり、このレイスウェイク大公爵家の当主であるヴィオラントだ。
彼はまだ衣服に泥と落ち葉をくっ付けている息子に気づくと、切れ長の目をかすかに笑みに細めた。
「ああ、シオン。さっそく落ちたか」
「お、落ちたかって……まさか……」
「大して痛くもなかっただろう。怪我をせぬよう、底にたっぷり落ち葉を敷いておいたからな」
「――って、父上もグルかよっ!?」
あまりの事実に、シオンは愕然とした。
大国グラディアトリアの偉大なる先帝にして、現在この国で唯一大公爵の地位を預かる大貴族である父が、たった一人の愛息を落とすためにせっせと落とし穴を用意したなどと、いったい誰が想像できよう。
破天荒の権化のような母ならばいざ知らず。
齢八歳にして絶望を味わった息子に対し、薄情な父母は悪びれもせずに作戦の成功を喜び合った。
「シオン君の毎日の行動を分析して、二人で穴を掘る場所を決めたんだよね」
「屋敷の者達も、全員快く協力してくれてな」
「うちにはろくな大人がいないのっ!?」
苛々と掻きむしってしまいたくなるシオンの髪を、父ヴィオラントの大きな手が梳かし、衣服についた泥を優しく払ってくれた。
ほっとして思わず甘えたくなったが、そもそもシオンの格好が悲惨なことになっているのは、この父のせいでもある。
「ホント、意味分かんないし。よくこんな無駄なことに時間を使うよね」
もう怒りを通り越して呆れてしまったシオンが、大きく疲れたようなため息をついて言うと、ヴィオラントは片眉を上げた。
「無駄なことなどではないぞ。そなたに世間の厳しさを教えるのも、親である我らの役目だ。平和な世とはいえ、それに胡座をかいていては思わぬことで足元をすくわれて痛い目に遭うだろう」
「はい、そーですね。さっそく自分ちの庭で両親の罠にはめられて、思わぬことで痛い目にあったよ!」
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと言うではないか」
「あのね、父上。腹の中で大爆笑しながら偉そうなこと言っても、全然心に響かないからね!」
「ほう、ばれたか。私の無表情を読むとは、さすがはスミレの子だな」
ヴィオラントは、まだ子供らしくふくふくした頬をさらに膨らませる息子に苦笑した。
スミレはそんな夫の前に紅茶を注いだカップを置くと、彼に促されるままにその膝に腰を下ろし、実に楽しそうに口を開いた。
「でもまさか、こんなに早くひっかかるなんて思わなかったね、ヴィー」
「そうだな。今後も楽しみだな」
「――ちょっと待って、今後って何!? まだ他にも落とし穴あるの?」
仲良く寄り添う両親の言葉を聞き逃さなかったシオンは、ぎょっと目を見開く。
「あるよ」
「我が家といえど、緊張感を持って行動するようにな」
当たり前のようにそう答えた両親に、シオンはたまらず「うわああ!」と叫ぶと、今度こそ本当に白銀の頭をかきむしった。
「もーイヤ! なんなの、この夫婦っ!!」
ついに堪忍袋の緒が切れたらしいレイスウェイク家の跡継ぎは、着の身着のまま壁にできたポトスの輪をくぐって、異世界へと家出をした。
まあ、それも、たった一週間ほどの話ではあったが……。
☆いい(迷惑な)夫婦の話、でした。おしまい。
「スミレちゃん! ちょっとコレ、どういうことっ!」
「あら、シオン君。おかえりー」
シオンが両親の私室へと鼻息荒く駆け込むと、彼の母親は午後のお茶の用意をしているところだった。
テーブルの上には茶器のセットと、彼女が焼いたクッキーがたっぷり載った皿。
その美味さは疑うべくもないので、いたいけな八歳児は思わず誘惑に負けて片手を伸ばしたが、クッキーを掴む前に「こらっ」と甲を打たれた。
「泥だらけでばっちい。手を洗ってきなよ」
「誰のせいで泥だらけになったと思ってんのっ!」
シオンは眉を顰め、両親から受継いだ紫色の瞳で母スミレを睨み上げた。
「落とし穴に落ちたんでしょ? シオン君が勝手に」
「スミレちゃんが穴を掘らなきゃ僕だって落ちたりしないんだよっ!」
シオンが怒るのも無理はない。
昼餉の後、屋敷の庭で遊んでいた彼だったが、ついさっきこの少女のような母の罠にはまって落とし穴に落ちたのだ。
おかげで全身泥だらけ。
しこたま打ち付けた尻が痛いやら恥ずかしいやらで、怒り心頭。
幸い、すぐ側にいた庭師のポムに穴から引っ張り出してもらえたが、シオンは彼への礼もそこそこに、犯人に抗議をしにやってきたのだ。
ところが、父譲りの整った顔を真っ赤にして詰め寄る息子に、スミレはにっこりと愛らしく微笑んで返した。
息子の目から見てもお人形のように可憐な母の、この笑顔は曲者だ。
シオンの父を筆頭に、叔父も叔母も祖父母を含む親族他関係者一同、この笑顔を向けられれば彼女がどんなことをしても許してしまう。
ああ、またスミレの可愛らしい悪戯か――と、苦笑して。
シオンは、自分だけは甘くはないぞと胸を張り、頭一つ分上に見える母の笑顔を睨み付けた。
「ほっぺに泥つけて、シオン君ってばワイルドさ一割り増しね」
「何、得したね、みたいな言い方してくれてんのっ! しかも、一割ってちょっとじゃん!」
「ママは草食系男子より肉食系男子の方が好きだぞ」
「スミレちゃんの好みなんか聞いてないよっ!」
きゃんきゃんと吠える幼い息子に謝るつもりはないらしいスミレは、にこにこしたままハンカチを取り出すと、泥に汚れた彼の頬を拭ってやった。
そして、夫と同じ白銀の髪に絡んでいた落ち葉を払い、ヘの字になっていた口にクッキーを一つ突っ込んでやる。
「……ウマいじゃん」
「うむ、苦しゅうない」
「でも、クッキーなんかで誤魔化されないからねっ! なんで、庭に落とし穴なんか掘ったんだよ!?」
「それは、シオン君を落とすためです」
「我が子を狙って落とし穴を掘る母がどこにいるの!」
「はい、ここにおりますよ」
「そのドヤ顔やめてっ!」
スミレの焼いたクッキーは予想通り美味かったが、それを噛み砕いて飲み込むと、シオンは再び吠えた。
口を開いた拍子に再び突っ込まれそうになるクッキーは、理性を総動員して拒否する。
「父上に言い付けてやるからねっ!」
「まあ、やだ。さすがお子様ね。大人の権威を借りないと、ろくに反撃もできないなんて」
「お子様ですから! 僕ってば、可愛い可愛い八歳児ですもん!」
「でも、残念。おとー様はいつだっておかー様の味方なのよ。――ねぇ、ヴィー?」
紅茶の用意を終えたスミレが眩いばかりの笑顔を向けた先で、カチャリと扉が開いた。
入ってきたのは、シオンの父であり、このレイスウェイク大公爵家の当主であるヴィオラントだ。
彼はまだ衣服に泥と落ち葉をくっ付けている息子に気づくと、切れ長の目をかすかに笑みに細めた。
「ああ、シオン。さっそく落ちたか」
「お、落ちたかって……まさか……」
「大して痛くもなかっただろう。怪我をせぬよう、底にたっぷり落ち葉を敷いておいたからな」
「――って、父上もグルかよっ!?」
あまりの事実に、シオンは愕然とした。
大国グラディアトリアの偉大なる先帝にして、現在この国で唯一大公爵の地位を預かる大貴族である父が、たった一人の愛息を落とすためにせっせと落とし穴を用意したなどと、いったい誰が想像できよう。
破天荒の権化のような母ならばいざ知らず。
齢八歳にして絶望を味わった息子に対し、薄情な父母は悪びれもせずに作戦の成功を喜び合った。
「シオン君の毎日の行動を分析して、二人で穴を掘る場所を決めたんだよね」
「屋敷の者達も、全員快く協力してくれてな」
「うちにはろくな大人がいないのっ!?」
苛々と掻きむしってしまいたくなるシオンの髪を、父ヴィオラントの大きな手が梳かし、衣服についた泥を優しく払ってくれた。
ほっとして思わず甘えたくなったが、そもそもシオンの格好が悲惨なことになっているのは、この父のせいでもある。
「ホント、意味分かんないし。よくこんな無駄なことに時間を使うよね」
もう怒りを通り越して呆れてしまったシオンが、大きく疲れたようなため息をついて言うと、ヴィオラントは片眉を上げた。
「無駄なことなどではないぞ。そなたに世間の厳しさを教えるのも、親である我らの役目だ。平和な世とはいえ、それに胡座をかいていては思わぬことで足元をすくわれて痛い目に遭うだろう」
「はい、そーですね。さっそく自分ちの庭で両親の罠にはめられて、思わぬことで痛い目にあったよ!」
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと言うではないか」
「あのね、父上。腹の中で大爆笑しながら偉そうなこと言っても、全然心に響かないからね!」
「ほう、ばれたか。私の無表情を読むとは、さすがはスミレの子だな」
ヴィオラントは、まだ子供らしくふくふくした頬をさらに膨らませる息子に苦笑した。
スミレはそんな夫の前に紅茶を注いだカップを置くと、彼に促されるままにその膝に腰を下ろし、実に楽しそうに口を開いた。
「でもまさか、こんなに早くひっかかるなんて思わなかったね、ヴィー」
「そうだな。今後も楽しみだな」
「――ちょっと待って、今後って何!? まだ他にも落とし穴あるの?」
仲良く寄り添う両親の言葉を聞き逃さなかったシオンは、ぎょっと目を見開く。
「あるよ」
「我が家といえど、緊張感を持って行動するようにな」
当たり前のようにそう答えた両親に、シオンはたまらず「うわああ!」と叫ぶと、今度こそ本当に白銀の頭をかきむしった。
「もーイヤ! なんなの、この夫婦っ!!」
ついに堪忍袋の緒が切れたらしいレイスウェイク家の跡継ぎは、着の身着のまま壁にできたポトスの輪をくぐって、異世界へと家出をした。
まあ、それも、たった一週間ほどの話ではあったが……。
☆いい(迷惑な)夫婦の話、でした。おしまい。
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