蔦姫と義兄2
今回は二番目のお兄ちゃんです。彼はパパ似。※スミレ not 妊婦
『蔦姫と義兄2』
――パンッ……
乾いた音が、辺りに響いた。
次いで、わっと泣き出した女が身をひるがえし、ドレスの裾をはためかせて垣根の向こうへ駆けて行った。
「……やれやれ」
グラディアトリア騎士団第二隊長、ディクレス・ルト・シュタイアーは、じんじんと痛む頬も抑えぬまま大きくため息をついた。
彼女はそれなりに気の合う相手だったし、身体の相性も悪くなかったと思う。
家柄もディクレスは公爵家あちらは伯爵家と、周囲に身分差がどうのと騒がれる面倒もなかった。
けれど、恋人という関係から先に進むにはどうにも決定打に欠け、一時も早く婚約をと迫る彼女に対して、ディクレスはついに嫌気が差した。
仕事の忙しさにかこつけて距離を置き、以前から彼女に好意を寄せていた部下をそれとなくたき付けてみた。
彼は伯爵家の嫡男なので、公爵家出身とはいえ次男であるディクレスよりは優良物件だろう。
思惑通り、令嬢はつれないディクレスより伯爵家の跡取りに傾き始め、この日別れ話をするために王城の庭園の片隅で会ったのだ。
ディクレスがふられ、それで終わり――のはずだった。
それなのに、プライドの高い伯爵令嬢は、ディクレスがあっさり別れに応じたのが不満だったらしい。
これまでの不満を並べ立てて喚き始めたと思ったら、「分かった、すまなかったね。彼とお幸せに」と笑ったディクレスに平手を見舞ったのだ。
男の方から別れ話を持ち出すのは、女性のプライドを傷付けてしまっていけないと気遣い、彼女の方からふってくれるのを待っていたというのに。
「フッてもフラレても、結局怒られて泣かれるのか~……」
ディクレスがくすんとそうもらしたとたん、背後の茂みがガサガサと揺れた。
優秀な騎士であるディクレスは、もちろん先ほどからそこに誰かがいると知っていたのだが、今初めて気づいたような顔を装って背後を振り向いた。
「……ディク兄……」
「おや、スミレちゃん」
姿を現したのは、ディクレスの両親であるシュタイアー公爵夫妻が養女に迎えた少女。
彼女は世にも珍しい黒い色のふわふわの髪を揺らし、アメジストのような紫色の瞳でじっとディクレスを見つめた。
スミレ・ルト・シュタイアー。
いや、シュタイアーの姓を名乗ったのはほんの短い期間だけで、彼女はすぐに別の家へと嫁いで行ってしまい、今はスミレ・ルト・レイスウェイクと名乗っている。
レイスウェイクはグラディアトリア唯一の大公爵家。
その当主ヴィオラント・オル・レイスウェイクは、偉大なる先の皇帝であり、スミレの夫である。
ディクレスが苦笑しながら「見た?」と尋ねると、スミレはこっくりと頷いて「見た」と返した。
そして、なおもまじまじとディクレスの顔を眺めながら、感心したように言った。
「ほっぺって……平手で叩かれると、ホントに掌の形に赤くなるんだね……すごいねぇ……」
「え~……哀れなお兄様に、他にかけてくれる言葉はないの?」
ディクレスはそこで初めて自分の頬に手をやったが、痛みなどもうほとんど残っていなかった。
それよりも、自分で自分を指して口にした「お兄様」との呼び名が、少々くすぐったい。
兄しかいなかったディクレスは、齢二十四にしてできた義妹が実はかなり可愛くて仕方がないのだ。
かの先帝陛下をも虜にした美少女っぷりはもちろんだが、スミレの魅力は外見だけではない。
その突拍子もない行動や、予想もつかない言動に、周りは振り回されつつも最後には必ず笑顔になっているという不思議。
今もまたスミレは大きな瞳を瞬かせると、ディクレスに向かって口を開いた。
「ここで質問です」
「あ、はいはい。何かな~?」
「“女の子泣かせるなんて、最っ低ー!”って軽蔑してほしい?」
「え……」
「“やだ何、今の修羅場! 超興味深い!”って根掘り葉掘り聞かれたい?」
「あー……それはちょっと」
「それとも……」
スミレはちょこんと首を傾げて続けた。
「黙って、よしよししてほしい?」
「あーうん……よしよし一択でお願いします」
ディクレスが苦笑しながら答えると、義妹は「ぎょい」と可愛らしい顔に似合わぬ重苦しい返事をした。
そして、とことことこっと寄ってきたと思ったら、本当に彼の頭をよしよしと撫でたのだ。
成人して久しい男子としては、頭を撫でられるなどなかなか経験できることではない。
ディクレスはわざわざその場に膝をついて頭を差し出し、愛らしい義妹からのよしよしを堪能した。
ところが、ひとしきり大の男の頭を撫で回した少女は、強かだった。
「慰め料として、プリンセス・パフェを要求します」
「ええ~、お兄様への無償のご奉仕じゃないの~?」
「世の中、甘くはないのです。それに、タダより怖いものはないんですのよ、おにーさま」
「あー、はい、分かりました。ご馳走させていただきます」
ディクレスが観念しましたとばかりに答えると、スミレはまた「うむ」と顔に似合わない返事をした。
かと思ったら、すぐに眩しいほどの笑顔を浮かべて、ディクレスの腕を掴んで引っ張った。
「ディク兄、こんな時間からこんな場所で油売ってるんだから、非番でしょ?」
「非番は非番だけど、夜勤明けだからそろそろ宿舎に戻ろうと思ってただけだよぅ。おにーさまはついさっきまで働いてたんだよぅ。しかも寝てないんだよぅ」
「疲れた身体は糖分を必要としています。なぜなら手っ取り早くエネルギーになるからであります。だから、プリンセス・パフェを一緒に突つくといいでしょう」
「もー、スミレちゃん。一人で食べ切れないようなもの、どうして食べたがるかなぁ?」
そんなやりとりをしている内に、ディクレスの左頬の手形は消え去った。
それとともに、最後まで愛せなかった元恋人への罪悪感も消え失せ、むくむくとこみ上げてきたのはフリーに戻ったという解放感。
ディクレスはスミレに手を引かれて歩きながら、自分の顔にも笑みが広がるのを感じた。
二人がやってきたのは、グラディアトリア城内で最も大きな食堂だ。
庭に面したオープンカフェ風のバールもあちこちにあるのだが、ここがいつも一番賑わっている。
スミレの希望通り、プリンセス・パフェという名の超特大パフェを注文したディクレスは、自分は紅茶を飲みつつふと浮かんだ疑問を口にした。
「ところで、スミレちゃん。旦那様はどうなさったの? 一人でうろうろしてて、いいの?」
スミレの旦那様とは、つまり先帝ヴィオラント・オル・レイスウェイクのことだ。
ディクレスが騎士になったのは、まだ彼が玉座にいる頃。
当時、父シュタイアー公爵が宰相として支えていたという縁もあり、ディクレスの成人の祝いには皇帝陛下直々に剣を授けられ、それは今も彼の腰に下がっている。
謁見の間で片膝をついて見上げた、銀髪と紫の瞳の神々しさは今でも忘れない。
この方に命を懸けてお仕えするのだと、その時若きディクレスは心の中で誓ったのだ。
しかし、そんなかつて忠誠を誓った偉大なる先帝陛下が、今や義理の弟となってしまっている。
まったく、世の中何が起こるか分からない。
美しく恐ろしき先帝陛下の愛情を一身に集めているスミレは、ディクレスの向かいの席に座ってパフェを突っつきながら答えた。
「旦那様は、私が庭を歩いてディク兄に会うところまでご覧になってたよ。宰相執務室の窓から、ディク兄の修羅場丸見えだったから」
「――ええっ、ほんとに!?」
「ホントに。ディク兄が一緒なら、王宮うろうろしててもいいって言われた」
「あー……それはそれは、光栄なことで……」
敬愛する先帝陛下に大事な奥方を任されたのかと思うと誇らしい。
しかし、別れ話をしていた場所が丸見えだったということは、ヴィオラントや宰相執務室の主であるクロヴィスにまで、女性に平手打ちを食らった姿を目撃されてしまったということか。
それには、さすがのディクレスでも少々凹んだ。
彼が「はあ」と重苦しいため息をつくと、スミレは「糖分摂取! 糖分摂取!」と言って、向かいからせっせと彼の口にアイスを運んだ。
けれど、ディクレスの「甘いなぁ」というそのままな感想を聞いたスミレは、突然きゅっと眉を寄せた。
「……甘いのは、ディク兄だよ」
「うん?」
「なんで、わざわざ食らってあげたの?」
つんと可愛い唇を尖らせて言ったスミレの言葉に、ディクレスは「おや」と片眉を上げた。
「避けれたでしょ? お嬢様のあんなへなちょこビンタ」
確かに、蝶よ花よと育てられた伯爵令嬢の平手打ちなど、騎士として剣を打ち合うディクレスにとって、避けるのは容易いことだった。
しかし……
「だって、一発食らってあげた方が、彼女だってスッキリ別れられるでしょ。思いっきりフッてやったー、みたいな」
「ほんとは、ディク兄からフッたくせに」
「おや……スミレちゃん、鋭過ぎてコワぁ」
伯爵令嬢よりもずっと鋭く手強い義妹の言葉に、ディクレスは苦笑する。
「ごめんねえ、かっこ悪いお兄様で」
「かっこ悪くなんかない。女の子の自尊心傷付けないようにって、ディク兄はわざとフラれてあげたんでしょ!?」
「いやあ、悪者になるのが嫌だっただけだよ」
「それでもいいと思う。でも、やっぱりイヤ」
「ええーと……スミレちゃんてば、難しい年頃だねえ……――閣下。申し訳ありませんが、通訳をお願いできますでしょうか?」
そう言って、ディクレスが笑みを向けたのはすぐ側の窓辺。
その窓枠に片手を置いて顔をのぞかせたのは、ヴィオラントだった。
ヴィオラントは膨れっ面の妻を愛おしげに眺めると、ディクレスに向かって面白そうに答えた。
「残念ながら、私にもいまだにこの娘のすべては解読できていない」
「閣下にも分からないようでしたら、僕なんか一生無理ですね」
「だが、そんな不可解なところがまた愛おしい」
「――あ、ちょっと、ヒドイですよ。フラれたばっかりの人間の前で、堂々と惚気ないで下さいよぅ」
ディクレスの情けない抗議に、無表情と名高い先帝陛下はかすかに口の端を持ち上げた。
一方スミレは右手に持っていたスプーンを、溶け始めた木いちごのアイスにぶっすしと突き立てながら、眉間に皺を作ったままぼそりと呟いた。
「兄様をぶたれて、すっごくむかついた」
「……」
「……」
その言葉に、ディクレスは思わずヴィオラントと顔を見合わせる。
そんな二人を睨み上げ、スミレは大真面目な顔で続けた。
「今度見つけたら、あのご令嬢の背中にこっそりカエル入れてもいい?」
「だっ、だめだめだめ~」
「だったら、つむじにゲジゲジをそっと置く」
「もっと、だめ~」
義妹のとんでもない言葉に慌てながらも、ディクレスは自分の顔が緩むのを止められそうになかった。
元恋人に対する想いは随分前に冷めてしまっていて、未練などない。
ぶたれたと言っても、あんなの正直蚊が刺す程度の痛みでしかなかったので、スミレが腹を立てるようなこともないのだ。
それでも、義妹が自分のために怒ってくれているのだと思うと、かすかに残っていた胸のもやもやもすっきりと晴れていくようだった。
「ディク兄にはさぁ、もっとこう包容力のある年上の女の人が合うと思うのよ。ねえ、ヴィー?」
「そうだな」
「閣下、条件反射みたいに返事しないでくださいよ」
適当なことを言い始めたスミレと、彼女の意見には大体同意するヴィオラントに対して苦笑しながら、ディクレスは今度恋をする時には、この義妹夫婦に胸を張って紹介できるような相手を見つけられたらいいなと思った。
人懐っこいようでいて、実は慎重に相手を選んでいるスミレが懐くような女性なら、自分も心から愛せるかもしれない。
ディクレスは苦笑を柔らかい笑みに改めた。
そして、窓辺から手を伸ばしてスミレの口の端についたアイスを拭ってやっているヴィオラントをお茶に誘った。
※おまけ
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「スミレ、またそれか」
ディクレスの誘いに乗ったヴィオラントは、スミレの隣の席に腰を下ろして紅茶のカップを傾けながら、呆れたようにそう言った。
グラディアトリア王城名物の超特大パフェ、“プリンセス・パフェ”
ヴィオラントの腹違いの妹である元第一皇女アマリアスと、隣国コンラート国王との成婚を記念して作られたメニューだ。
大きな花瓶のようなグラスに、フルーツやらアイスやらケーキやらがてんこ盛りのスペシャルスイーツは、見た目だけでも甘い物が苦手な者には拷問だ。
気まぐれにでもそれに手を出すことのないヴィオラントの隣で、スミレはいまだ自力で完食したことのないパフェに、何度目かのチャレンジを試みていた。
——が、間もなく飽きた。
「今日は北壁を制覇したから、あとはディク兄に全部あげる」
「待って待って! スミレちゃん、側面のアイスちょこちょこっと食べただけじゃないの」
「スミレ、もうおなかいっぱい」
「ちょっと~」
ディクレスは酒も甘味もいける口だが、さすがにこの常軌を逸したスイーツの塊の前にしては顔を引きつらせるしかない。
「閣下〜」
「頑張ってくれ。最後まで見守ろう」
「いや、見守っていただかなくても結構ですから、手伝ってくださいよぅ」
完全に傍観者に回った義妹夫婦に温かく見守られ、結局ディクレスは紅茶をほっぽり出してパフェに挑むこととなった。
容赦なく溶け始めるアイスはなかなか手強い。
「いったい、何の罰ゲームですか、これは」
騎士団のどんな訓練よりも厳しいと嘆くディクレスに、向かいで愛らしい義妹が無慈悲な微笑みを浮かべた。
その後。
たまたま窓の外を通りかかった休憩中の兄カーティスを巻き込んで、パフェは何とか完食された。
『蔦姫と義兄2』
――パンッ……
乾いた音が、辺りに響いた。
次いで、わっと泣き出した女が身をひるがえし、ドレスの裾をはためかせて垣根の向こうへ駆けて行った。
「……やれやれ」
グラディアトリア騎士団第二隊長、ディクレス・ルト・シュタイアーは、じんじんと痛む頬も抑えぬまま大きくため息をついた。
彼女はそれなりに気の合う相手だったし、身体の相性も悪くなかったと思う。
家柄もディクレスは公爵家あちらは伯爵家と、周囲に身分差がどうのと騒がれる面倒もなかった。
けれど、恋人という関係から先に進むにはどうにも決定打に欠け、一時も早く婚約をと迫る彼女に対して、ディクレスはついに嫌気が差した。
仕事の忙しさにかこつけて距離を置き、以前から彼女に好意を寄せていた部下をそれとなくたき付けてみた。
彼は伯爵家の嫡男なので、公爵家出身とはいえ次男であるディクレスよりは優良物件だろう。
思惑通り、令嬢はつれないディクレスより伯爵家の跡取りに傾き始め、この日別れ話をするために王城の庭園の片隅で会ったのだ。
ディクレスがふられ、それで終わり――のはずだった。
それなのに、プライドの高い伯爵令嬢は、ディクレスがあっさり別れに応じたのが不満だったらしい。
これまでの不満を並べ立てて喚き始めたと思ったら、「分かった、すまなかったね。彼とお幸せに」と笑ったディクレスに平手を見舞ったのだ。
男の方から別れ話を持ち出すのは、女性のプライドを傷付けてしまっていけないと気遣い、彼女の方からふってくれるのを待っていたというのに。
「フッてもフラレても、結局怒られて泣かれるのか~……」
ディクレスがくすんとそうもらしたとたん、背後の茂みがガサガサと揺れた。
優秀な騎士であるディクレスは、もちろん先ほどからそこに誰かがいると知っていたのだが、今初めて気づいたような顔を装って背後を振り向いた。
「……ディク兄……」
「おや、スミレちゃん」
姿を現したのは、ディクレスの両親であるシュタイアー公爵夫妻が養女に迎えた少女。
彼女は世にも珍しい黒い色のふわふわの髪を揺らし、アメジストのような紫色の瞳でじっとディクレスを見つめた。
スミレ・ルト・シュタイアー。
いや、シュタイアーの姓を名乗ったのはほんの短い期間だけで、彼女はすぐに別の家へと嫁いで行ってしまい、今はスミレ・ルト・レイスウェイクと名乗っている。
レイスウェイクはグラディアトリア唯一の大公爵家。
その当主ヴィオラント・オル・レイスウェイクは、偉大なる先の皇帝であり、スミレの夫である。
ディクレスが苦笑しながら「見た?」と尋ねると、スミレはこっくりと頷いて「見た」と返した。
そして、なおもまじまじとディクレスの顔を眺めながら、感心したように言った。
「ほっぺって……平手で叩かれると、ホントに掌の形に赤くなるんだね……すごいねぇ……」
「え~……哀れなお兄様に、他にかけてくれる言葉はないの?」
ディクレスはそこで初めて自分の頬に手をやったが、痛みなどもうほとんど残っていなかった。
それよりも、自分で自分を指して口にした「お兄様」との呼び名が、少々くすぐったい。
兄しかいなかったディクレスは、齢二十四にしてできた義妹が実はかなり可愛くて仕方がないのだ。
かの先帝陛下をも虜にした美少女っぷりはもちろんだが、スミレの魅力は外見だけではない。
その突拍子もない行動や、予想もつかない言動に、周りは振り回されつつも最後には必ず笑顔になっているという不思議。
今もまたスミレは大きな瞳を瞬かせると、ディクレスに向かって口を開いた。
「ここで質問です」
「あ、はいはい。何かな~?」
「“女の子泣かせるなんて、最っ低ー!”って軽蔑してほしい?」
「え……」
「“やだ何、今の修羅場! 超興味深い!”って根掘り葉掘り聞かれたい?」
「あー……それはちょっと」
「それとも……」
スミレはちょこんと首を傾げて続けた。
「黙って、よしよししてほしい?」
「あーうん……よしよし一択でお願いします」
ディクレスが苦笑しながら答えると、義妹は「ぎょい」と可愛らしい顔に似合わぬ重苦しい返事をした。
そして、とことことこっと寄ってきたと思ったら、本当に彼の頭をよしよしと撫でたのだ。
成人して久しい男子としては、頭を撫でられるなどなかなか経験できることではない。
ディクレスはわざわざその場に膝をついて頭を差し出し、愛らしい義妹からのよしよしを堪能した。
ところが、ひとしきり大の男の頭を撫で回した少女は、強かだった。
「慰め料として、プリンセス・パフェを要求します」
「ええ~、お兄様への無償のご奉仕じゃないの~?」
「世の中、甘くはないのです。それに、タダより怖いものはないんですのよ、おにーさま」
「あー、はい、分かりました。ご馳走させていただきます」
ディクレスが観念しましたとばかりに答えると、スミレはまた「うむ」と顔に似合わない返事をした。
かと思ったら、すぐに眩しいほどの笑顔を浮かべて、ディクレスの腕を掴んで引っ張った。
「ディク兄、こんな時間からこんな場所で油売ってるんだから、非番でしょ?」
「非番は非番だけど、夜勤明けだからそろそろ宿舎に戻ろうと思ってただけだよぅ。おにーさまはついさっきまで働いてたんだよぅ。しかも寝てないんだよぅ」
「疲れた身体は糖分を必要としています。なぜなら手っ取り早くエネルギーになるからであります。だから、プリンセス・パフェを一緒に突つくといいでしょう」
「もー、スミレちゃん。一人で食べ切れないようなもの、どうして食べたがるかなぁ?」
そんなやりとりをしている内に、ディクレスの左頬の手形は消え去った。
それとともに、最後まで愛せなかった元恋人への罪悪感も消え失せ、むくむくとこみ上げてきたのはフリーに戻ったという解放感。
ディクレスはスミレに手を引かれて歩きながら、自分の顔にも笑みが広がるのを感じた。
二人がやってきたのは、グラディアトリア城内で最も大きな食堂だ。
庭に面したオープンカフェ風のバールもあちこちにあるのだが、ここがいつも一番賑わっている。
スミレの希望通り、プリンセス・パフェという名の超特大パフェを注文したディクレスは、自分は紅茶を飲みつつふと浮かんだ疑問を口にした。
「ところで、スミレちゃん。旦那様はどうなさったの? 一人でうろうろしてて、いいの?」
スミレの旦那様とは、つまり先帝ヴィオラント・オル・レイスウェイクのことだ。
ディクレスが騎士になったのは、まだ彼が玉座にいる頃。
当時、父シュタイアー公爵が宰相として支えていたという縁もあり、ディクレスの成人の祝いには皇帝陛下直々に剣を授けられ、それは今も彼の腰に下がっている。
謁見の間で片膝をついて見上げた、銀髪と紫の瞳の神々しさは今でも忘れない。
この方に命を懸けてお仕えするのだと、その時若きディクレスは心の中で誓ったのだ。
しかし、そんなかつて忠誠を誓った偉大なる先帝陛下が、今や義理の弟となってしまっている。
まったく、世の中何が起こるか分からない。
美しく恐ろしき先帝陛下の愛情を一身に集めているスミレは、ディクレスの向かいの席に座ってパフェを突っつきながら答えた。
「旦那様は、私が庭を歩いてディク兄に会うところまでご覧になってたよ。宰相執務室の窓から、ディク兄の修羅場丸見えだったから」
「――ええっ、ほんとに!?」
「ホントに。ディク兄が一緒なら、王宮うろうろしててもいいって言われた」
「あー……それはそれは、光栄なことで……」
敬愛する先帝陛下に大事な奥方を任されたのかと思うと誇らしい。
しかし、別れ話をしていた場所が丸見えだったということは、ヴィオラントや宰相執務室の主であるクロヴィスにまで、女性に平手打ちを食らった姿を目撃されてしまったということか。
それには、さすがのディクレスでも少々凹んだ。
彼が「はあ」と重苦しいため息をつくと、スミレは「糖分摂取! 糖分摂取!」と言って、向かいからせっせと彼の口にアイスを運んだ。
けれど、ディクレスの「甘いなぁ」というそのままな感想を聞いたスミレは、突然きゅっと眉を寄せた。
「……甘いのは、ディク兄だよ」
「うん?」
「なんで、わざわざ食らってあげたの?」
つんと可愛い唇を尖らせて言ったスミレの言葉に、ディクレスは「おや」と片眉を上げた。
「避けれたでしょ? お嬢様のあんなへなちょこビンタ」
確かに、蝶よ花よと育てられた伯爵令嬢の平手打ちなど、騎士として剣を打ち合うディクレスにとって、避けるのは容易いことだった。
しかし……
「だって、一発食らってあげた方が、彼女だってスッキリ別れられるでしょ。思いっきりフッてやったー、みたいな」
「ほんとは、ディク兄からフッたくせに」
「おや……スミレちゃん、鋭過ぎてコワぁ」
伯爵令嬢よりもずっと鋭く手強い義妹の言葉に、ディクレスは苦笑する。
「ごめんねえ、かっこ悪いお兄様で」
「かっこ悪くなんかない。女の子の自尊心傷付けないようにって、ディク兄はわざとフラれてあげたんでしょ!?」
「いやあ、悪者になるのが嫌だっただけだよ」
「それでもいいと思う。でも、やっぱりイヤ」
「ええーと……スミレちゃんてば、難しい年頃だねえ……――閣下。申し訳ありませんが、通訳をお願いできますでしょうか?」
そう言って、ディクレスが笑みを向けたのはすぐ側の窓辺。
その窓枠に片手を置いて顔をのぞかせたのは、ヴィオラントだった。
ヴィオラントは膨れっ面の妻を愛おしげに眺めると、ディクレスに向かって面白そうに答えた。
「残念ながら、私にもいまだにこの娘のすべては解読できていない」
「閣下にも分からないようでしたら、僕なんか一生無理ですね」
「だが、そんな不可解なところがまた愛おしい」
「――あ、ちょっと、ヒドイですよ。フラれたばっかりの人間の前で、堂々と惚気ないで下さいよぅ」
ディクレスの情けない抗議に、無表情と名高い先帝陛下はかすかに口の端を持ち上げた。
一方スミレは右手に持っていたスプーンを、溶け始めた木いちごのアイスにぶっすしと突き立てながら、眉間に皺を作ったままぼそりと呟いた。
「兄様をぶたれて、すっごくむかついた」
「……」
「……」
その言葉に、ディクレスは思わずヴィオラントと顔を見合わせる。
そんな二人を睨み上げ、スミレは大真面目な顔で続けた。
「今度見つけたら、あのご令嬢の背中にこっそりカエル入れてもいい?」
「だっ、だめだめだめ~」
「だったら、つむじにゲジゲジをそっと置く」
「もっと、だめ~」
義妹のとんでもない言葉に慌てながらも、ディクレスは自分の顔が緩むのを止められそうになかった。
元恋人に対する想いは随分前に冷めてしまっていて、未練などない。
ぶたれたと言っても、あんなの正直蚊が刺す程度の痛みでしかなかったので、スミレが腹を立てるようなこともないのだ。
それでも、義妹が自分のために怒ってくれているのだと思うと、かすかに残っていた胸のもやもやもすっきりと晴れていくようだった。
「ディク兄にはさぁ、もっとこう包容力のある年上の女の人が合うと思うのよ。ねえ、ヴィー?」
「そうだな」
「閣下、条件反射みたいに返事しないでくださいよ」
適当なことを言い始めたスミレと、彼女の意見には大体同意するヴィオラントに対して苦笑しながら、ディクレスは今度恋をする時には、この義妹夫婦に胸を張って紹介できるような相手を見つけられたらいいなと思った。
人懐っこいようでいて、実は慎重に相手を選んでいるスミレが懐くような女性なら、自分も心から愛せるかもしれない。
ディクレスは苦笑を柔らかい笑みに改めた。
そして、窓辺から手を伸ばしてスミレの口の端についたアイスを拭ってやっているヴィオラントをお茶に誘った。
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「スミレ、またそれか」
ディクレスの誘いに乗ったヴィオラントは、スミレの隣の席に腰を下ろして紅茶のカップを傾けながら、呆れたようにそう言った。
グラディアトリア王城名物の超特大パフェ、“プリンセス・パフェ”
ヴィオラントの腹違いの妹である元第一皇女アマリアスと、隣国コンラート国王との成婚を記念して作られたメニューだ。
大きな花瓶のようなグラスに、フルーツやらアイスやらケーキやらがてんこ盛りのスペシャルスイーツは、見た目だけでも甘い物が苦手な者には拷問だ。
気まぐれにでもそれに手を出すことのないヴィオラントの隣で、スミレはいまだ自力で完食したことのないパフェに、何度目かのチャレンジを試みていた。
——が、間もなく飽きた。
「今日は北壁を制覇したから、あとはディク兄に全部あげる」
「待って待って! スミレちゃん、側面のアイスちょこちょこっと食べただけじゃないの」
「スミレ、もうおなかいっぱい」
「ちょっと~」
ディクレスは酒も甘味もいける口だが、さすがにこの常軌を逸したスイーツの塊の前にしては顔を引きつらせるしかない。
「閣下〜」
「頑張ってくれ。最後まで見守ろう」
「いや、見守っていただかなくても結構ですから、手伝ってくださいよぅ」
完全に傍観者に回った義妹夫婦に温かく見守られ、結局ディクレスは紅茶をほっぽり出してパフェに挑むこととなった。
容赦なく溶け始めるアイスはなかなか手強い。
「いったい、何の罰ゲームですか、これは」
騎士団のどんな訓練よりも厳しいと嘆くディクレスに、向かいで愛らしい義妹が無慈悲な微笑みを浮かべた。
その後。
たまたま窓の外を通りかかった休憩中の兄カーティスを巻き込んで、パフェは何とか完食された。
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