一兵卒と案件3
一兵卒と案件 第三話
「……ジーヤ?」
「……ああ、おはようアミーリア」
――朝。
アミーリアは、普段寝ているものより随分と小振りのベッドで目を覚ました。
しかし、寝心地は悪かったわけではない。
シーツは清潔で、お日様のいい匂いと母が懐かしくなるような優しい肌触りであった。
ただし、少しだけ窮屈だ。
背後に、何か温かい衝立てがある。
そう思って、寝ぼけ眼で振り返ったアミーリアが見つけたのは、切れ長の金色の瞳。
アミーリアと同じベッドで、彼女を背後から抱きかかえるようにして横になっていたのは、間近で見るのは十日ぶりのジーヤことジーニャリアだった。
幼いながら、恋人だと思っていた相手。
大きくなったら嫁に来いと、繰り返し言っていた人。
けれど、アミーリアを放ったらかしにして、アミーリアよりもずっと賢くずっと綺麗な女性と過ごしていた男。
今までの愛情も優しさも全部夢だったのか。
――早く諦めて、忘れなきゃ。
そうしようと頑張ったけれど、やっぱりまだ大好きな大好きなジーヤが、目の前にいる。
自分はまだ夢の中にいるのかしらと首を傾げ、アミーリアはベッドに横になったまま、ジーニャリアに向かって手を伸ばした。
「……本物の、ジーヤ?」
人差し指と親指で、ぶにっと男の頬を引っ張ってみる。
「本物だとも」
精悍な男の頬は堅くてさほど伸びず、アミーリアの手はすぐに大きな手に捕まって解かれてしまった。
そうかと思えば寝転がったまま、筋肉質な長い両腕にぐるりと囲まれて抱き締められる。
ぎゅうぎゅうと締め付けられ、ジーニャリアの厚い胸板に強く押し付けられて苦しいが、耳元で聞こえた彼の声はもっとずっと苦しげだった。
「寂しい想いをさせて悪かった。もう二度と、お前を泣かせたりしないと約束する」
「でも……ジーヤはもう……」
「俺はもう、何だ?」
「ジーヤは……もう、私に会いたくなかったんでしょ?」
それなのに、何故今ここにいるの?
そう続けようとしたというのに、アミーリアの口から零れたのは嗚咽だった。
頭を掠めるのは、美しく聡明な補佐官の姿。
大好きなジーヤの隣が似合う、大人の女性。
うぇぇんと、声を上げて泣いてしまうようなアミーリアよりも、ずっとずっとジーニャリアに相応しい。
そう思って涙が止まらなくなったアミーリアを、ジーニャリアはさらにきつく抱き竦め、「――馬鹿者っ!」と叱りつけた。
「会いたくないはずがないだろう! この十日間、俺がどれだけ悶々と過ごしたと思っている!」
「だって、手紙の返事もくれなかった! お茶も一緒に飲んでくれなかったっ! だから、私はロビーに……」
「お前は――なにかにつけ、ロビーロビーとっ! いっそあいつの首を飛ばしてやろうかと、俺が嫉妬に狂うなど知りもせず!」
どこかで、ひいっと弱々しい悲鳴。
「ロビーにひどいことしないでっ! ロビーは、一番のお友達なのっ!!」
「分かってる、何もせん。だが、あいつばかりではなく、俺にも話せ」
「だって……ジーヤは忙しいもの」
「忙しいが、お前の話を聞く暇くらいある。執務の合間に一緒に茶を飲む時間くらい確保する」
ジーニャリアはそう言うと、アミーリアを囲い込んでいた腕を一度解き、彼女を己の腕を枕に寝かせた。
そして、柔らかな白金色の髪を無骨な手で優しく撫でながら、この度の自分達のすれ違いが弟王子マーシュリアの陰謀であったことを告げた。
「マーシーが? どうして?」
「……俺が、ふがいないのが気に入らなかったんだと」
「ふがいないって?」
「……」
憎々しげにマーシュリアの笑顔を思い返すジーニャリアに対し、アミーリアが黒幕王子に腹を立てている様子はなかった。
マーシーことマーシュリアは、確かに時々碌でも無くひねくれているが、アミーリアにとってはいつだって優しい兄貴分なのだ。
認めるのは悔しいが、ジーニャリアもそんな弟王子に背中を押されて今ここにいる。
彼は姫の稚い頬を掌で包み込むと、昨夜の決意を彼女にも告げた。
「お父上に、俺がずっとお前との婚約を願い出ているのは知っているな」
「うん」
「だが、色よい返事はまだいただけていない」
アミーリアの父親である隣国の王は元より、末の妹を溺愛する兄姉殿下達は、まだ成人も迎えていない彼女を嫁に出す気などさらさらない。
ジーニャリアもアミーリアの年齢を考慮して、長期戦を覚悟で平和的な申込に徹していたが、それも昨日までで終わりだ。
「聞き分けのよい男のふりをするのは、もうやめだ」
「ジーヤ?」
「式をあげるのは、お前の成人を待ってもいい。ただし、早々の婚約については是が非でもお父上に頷いてもらう」
いっそ既成事実をと、そんな言葉が頭を掠めるくらい、その時ジーニャリアの心は滾っていた。
きょとんと、無邪気な様子で首を傾げるアミーリア。
その身を包む愛らしい夜着を剥ぎ取って、無垢な素肌に自分の印を記して。
手付きとなってはもうジーニャリア以外の男にはやれぬと、彼女の父王を追いつめてしまおうか。
そんなことを考えながら、彼は獲物を前にした獣のように瞳孔を大きく開かせて、まずは己の腕の中に収まった少女の唇にかぶりつこうとした。
ところが
「ちょっと殿下、朝から人ンちで盛らないでいただけます?」
ジーニャリアのこめかみを、鞘に入った剣がゴツッと小突いた。
おかげで彼ははっと我に返って真のケダモノにはならずに済んだが、なおもぐりぐりとこめかみを捻ってくる鞘の先を、さも鬱陶しげに叩き落とした。
「……モーリス」
「溜まってるんですか? 若者はたいへんですねぇ」
恐れ多くも、大国の第二王子にして軍の最高司令官であるジーニャリアを、道端に落ちている家畜の何やらのようにつんつんしていたのは、モーリスだった。
さらに、その後ろに気まずげな様子で佇むのは、彼の一人息子ロビー。
中佐と見習い兵士の父子は、アミーリアが目覚める前からの一部始終を、ベッドの近くの壁際に並んで見物していたのだった。
「あ、おはよう。ロビー、モ……」
「パ・パ! パパだよ、アミー」
「えっと、はいパパ」
ベッドの上で男に腕枕された体勢のまま、のん気に顔だけ向けて朝の挨拶をするアミーリアに対し、モーリスは「うーん、いいねぇ~。娘は可愛いねぇ~」と鼻の下を伸ばす。
彼は、昨夜いろいろとふっきれたらしいジーニャリアが、眠るアミーリアのベッドに添い寝しようとするのを全力で阻止した。
朝日が昇ってやっと、ジーニャリアは彼女の隣に潜り込むことを許されたのだ。ただし、見張り付きで。
父モーリスとともに、国王陛下直々に姫の警護を命じられたロビーは、ベッドでくっ付く少女と司令官閣下の姿に、目のやり場に困ったように視線を泳がせている。
そんな息子を眺めて、「うん、うちの息子も初心で可愛いねぇ」と微笑むと、モーリスは我が子に浮かべた笑顔のままジーニャリアに向き直った。
「では、ふがいないジーニャリア殿下。とっとと僕らのアミーと仲直り完了しちゃってくださいよ」
「……“僕ら”とは?」
「もちろん、“僕とロビーの”ってことっすよ」
「ふざけるなっ!」
再び剣先で「うらうら」と小突いてくるモーリスに向かって吠えると、ジーニャリアはこめかみに青筋を浮かべたままアミーリアを抱き起こし、きょとんと見上げてくる無邪気な相手に視線を向ける。
そして、己を落ち着かせるように深々と一つため息をつくと、「とにかく」と口を開いた。
「今後は、遠慮せずに会いに行くぞ。お前もいつでも俺の執務室を訪ねてこい」
「でも……私は他所の国の人間だから……」
隣国の人間である自分が、軍の最高司令官の執務室に立ち入るなどもってのほか。
頑なにそう思い込んでいるアミーリアの戸惑いに、ジーニャリアは呆れたように答えた。
「あのな、そもそも軍事機密なんてもんは、執務室に入られたくらいであばかれるような適当な扱いはされていないんだぞ」
「……そうなの?」
「お前に机の引き出しを引っ掻き回されたって、見られて困るようなものはない。それどころか、万が一どこかのスパイが俺の執務室に潜り込んでも、無駄足を踏むだけだろう」
よくよく考えてみれば、そのとおりなのだ。
いかにのほほんとしているように見えようと、大国を長年平和な状態で維持するのは簡単なことではない。
不穏の種というものは、いついかなる時に現れるやもしれず、国を左右するかもしれぬような軍事機密が厳重に管理されるのは当然のことだった。
しかしながら、確かにジーニャリア自身も、これまで積極的にアミーリアを執務室に呼ぼうとはしなかった。
その理由は、軍事機密とは別にあった。
「ああ、アミーリア様! 会いたかった……っ!!」
顔を合わせたとたんそう叫んで、アミーリアに襲いかかろうとしたのは、彼女が憧れと嫉妬を抱いていた相手。
軍最高司令官の補佐官、クラリス女史だった。
朝の身支度を整え、ロビーの叔父の店で朝食をご馳走になった一同は、ジーニャリアに請われて結局そのまま城に戻ることになった。
アミーリアを夕刻まで町で遊ばせる計画は、ジーニャリアが日を改めて請け負うと宣言し、姫をもてなすことを楽しみにしていたロビーは少しだけがっかりした。
一方、補佐官との仲を二度と誤解などさせぬためには本人に会わせるのが一番だろうと、アミーリアを執務室に連れてきたジーニャリアだったが、もうすでにそんな己の判断を後悔し始めていた。
「ああ、なんて愛らしい。いつも遠目に拝見することしかできず、わたくしの想いは募るばかりでしたが、やっとお会いできた……!」
王家に次ぐ地位となる、由緒正しき公爵家の一人娘クラリスは、可愛いものが大好きだ。
そんな彼女の中で、アミーリアはこの世で一番可愛いものとカテゴリーされている。
クラリスはうっとりと頬を染めながら、じりじりと姫との距離を詰めていったが、その前に立ち塞がったジーニャリアに視線を移すと、表情を一変させた。
「よりにもよって、殿下との仲を疑うなんてあんまりです。――こんな、可愛いの対極にあるような物体に、上官という以外に何の興味もございません」
幼馴染みでもあるジーニャリアに対し、そして成人男性らしく立派に成長し、クラリスの好みからかけ離れた姿の男に、彼女の毒舌は容赦を知らない。
さらには、“可愛くはない”無骨な兵士達を剣で滅多打ちにするのにも、補佐官殿には躊躇の欠片もない。
太刀筋に迷いがないと有名なクラリスは、剣の腕においても最高司令官に次ぐ強さを誇った。
「アミーリア姫」
そう誘う声は、女性らしく柔らかだ。
年の離れた姉王女達にも溺愛されて育ったアミーリアは、優しげな年上の女性にはついつい甘えてしまいがち。
クラリスの女神のように優しげな微笑みの裏に、下心が山と盛られているのも分からず、アミーリアの可愛らしい口が「おねえさま……」と小さく紡いだのに気づいて、ジーニャリアはこれはまずいと焦った。
けれど、クラリスとは付き合いの長い彼は、ちゃんと策を用意していたのだ。
「ロビー!」
「あ、はっ、はい! 閣下!」
ジーニャリアは、自分の側で補佐官の本性に驚いていた少年の名を呼んだ。
そして、姿勢を正して返事をした彼の襟首を掴むと、ぐいっと引き寄せてはクラリスの前へと突き出した。
「ロビー、特別任務だ。クラリスからアミーリアを守れ」
「むっ……無理ですっ!」
「大丈夫、お前ならできる。――おとなしく、身代わりになれ」
「……へ?」
ジーニャリアの言葉を理解できず、ぽかんとしたロビーの顎を、すっと前方から伸びてきた優美な手が掴んだ。
そして気がつけば、麗しき補佐官の美しい顔が、鼻先が触れ合うほどの距離まで迫っていたのだ。
「かわいい……」
「――!?」
ロビーは、成人を翌年に控えた十五歳。
さすがに声変わりはしているものの、父モーリスも母アンネも一般と比べて小柄な体型で、二人の子であるロビーもやはり兵士にしては華奢な部類に入る。
男子としては悔しいことだが、実はまだクラリスの方が小指一関節ほど彼より背が高い。
童顔なのは父方の遺伝。
父モーリスなど今年三十五になるが、二十歳のジーニャリアとさほど変わらない年齢にも見える。
そんな、どちらかというとロビーがコンプレックスに感じていた部分が、可愛いもの好きの補佐官殿にとってはチャームポイント。
実をいうとクラリスは、毎日アミーリアレポートをジーニャリアに提出にやってくるロビーに、すでに目をつけていた。
そして、それに気づいていたジーニャリアによって、彼は生け贄として捧げられることになる。
「今後、アミーリアが俺の執務室に来る時は必ず同行するように。――分かったな、ロビー」
「あ、あの……」
最高司令官閣下の命令に、しがない見習い兵士が戸惑う声は、ふわりと柔らかな腕の中。
初心な少年を抱き竦め、美貌の補佐官は「うふふ」と満足げな笑みを零した。
初めての温もりに包まれて硬直したロビーは、彼女の肩越しに目があった父モーリスに、思わず助けを求める。
――しかし
平民兵士の希望の星、モーリス中佐は一人息子に向かって親指をおっ立て、
「やったね――逆玉の輿!」
ばっちり片目を瞑ってそう叫んだ。
『一兵卒と案件』終わり
「……ジーヤ?」
「……ああ、おはようアミーリア」
――朝。
アミーリアは、普段寝ているものより随分と小振りのベッドで目を覚ました。
しかし、寝心地は悪かったわけではない。
シーツは清潔で、お日様のいい匂いと母が懐かしくなるような優しい肌触りであった。
ただし、少しだけ窮屈だ。
背後に、何か温かい衝立てがある。
そう思って、寝ぼけ眼で振り返ったアミーリアが見つけたのは、切れ長の金色の瞳。
アミーリアと同じベッドで、彼女を背後から抱きかかえるようにして横になっていたのは、間近で見るのは十日ぶりのジーヤことジーニャリアだった。
幼いながら、恋人だと思っていた相手。
大きくなったら嫁に来いと、繰り返し言っていた人。
けれど、アミーリアを放ったらかしにして、アミーリアよりもずっと賢くずっと綺麗な女性と過ごしていた男。
今までの愛情も優しさも全部夢だったのか。
――早く諦めて、忘れなきゃ。
そうしようと頑張ったけれど、やっぱりまだ大好きな大好きなジーヤが、目の前にいる。
自分はまだ夢の中にいるのかしらと首を傾げ、アミーリアはベッドに横になったまま、ジーニャリアに向かって手を伸ばした。
「……本物の、ジーヤ?」
人差し指と親指で、ぶにっと男の頬を引っ張ってみる。
「本物だとも」
精悍な男の頬は堅くてさほど伸びず、アミーリアの手はすぐに大きな手に捕まって解かれてしまった。
そうかと思えば寝転がったまま、筋肉質な長い両腕にぐるりと囲まれて抱き締められる。
ぎゅうぎゅうと締め付けられ、ジーニャリアの厚い胸板に強く押し付けられて苦しいが、耳元で聞こえた彼の声はもっとずっと苦しげだった。
「寂しい想いをさせて悪かった。もう二度と、お前を泣かせたりしないと約束する」
「でも……ジーヤはもう……」
「俺はもう、何だ?」
「ジーヤは……もう、私に会いたくなかったんでしょ?」
それなのに、何故今ここにいるの?
そう続けようとしたというのに、アミーリアの口から零れたのは嗚咽だった。
頭を掠めるのは、美しく聡明な補佐官の姿。
大好きなジーヤの隣が似合う、大人の女性。
うぇぇんと、声を上げて泣いてしまうようなアミーリアよりも、ずっとずっとジーニャリアに相応しい。
そう思って涙が止まらなくなったアミーリアを、ジーニャリアはさらにきつく抱き竦め、「――馬鹿者っ!」と叱りつけた。
「会いたくないはずがないだろう! この十日間、俺がどれだけ悶々と過ごしたと思っている!」
「だって、手紙の返事もくれなかった! お茶も一緒に飲んでくれなかったっ! だから、私はロビーに……」
「お前は――なにかにつけ、ロビーロビーとっ! いっそあいつの首を飛ばしてやろうかと、俺が嫉妬に狂うなど知りもせず!」
どこかで、ひいっと弱々しい悲鳴。
「ロビーにひどいことしないでっ! ロビーは、一番のお友達なのっ!!」
「分かってる、何もせん。だが、あいつばかりではなく、俺にも話せ」
「だって……ジーヤは忙しいもの」
「忙しいが、お前の話を聞く暇くらいある。執務の合間に一緒に茶を飲む時間くらい確保する」
ジーニャリアはそう言うと、アミーリアを囲い込んでいた腕を一度解き、彼女を己の腕を枕に寝かせた。
そして、柔らかな白金色の髪を無骨な手で優しく撫でながら、この度の自分達のすれ違いが弟王子マーシュリアの陰謀であったことを告げた。
「マーシーが? どうして?」
「……俺が、ふがいないのが気に入らなかったんだと」
「ふがいないって?」
「……」
憎々しげにマーシュリアの笑顔を思い返すジーニャリアに対し、アミーリアが黒幕王子に腹を立てている様子はなかった。
マーシーことマーシュリアは、確かに時々碌でも無くひねくれているが、アミーリアにとってはいつだって優しい兄貴分なのだ。
認めるのは悔しいが、ジーニャリアもそんな弟王子に背中を押されて今ここにいる。
彼は姫の稚い頬を掌で包み込むと、昨夜の決意を彼女にも告げた。
「お父上に、俺がずっとお前との婚約を願い出ているのは知っているな」
「うん」
「だが、色よい返事はまだいただけていない」
アミーリアの父親である隣国の王は元より、末の妹を溺愛する兄姉殿下達は、まだ成人も迎えていない彼女を嫁に出す気などさらさらない。
ジーニャリアもアミーリアの年齢を考慮して、長期戦を覚悟で平和的な申込に徹していたが、それも昨日までで終わりだ。
「聞き分けのよい男のふりをするのは、もうやめだ」
「ジーヤ?」
「式をあげるのは、お前の成人を待ってもいい。ただし、早々の婚約については是が非でもお父上に頷いてもらう」
いっそ既成事実をと、そんな言葉が頭を掠めるくらい、その時ジーニャリアの心は滾っていた。
きょとんと、無邪気な様子で首を傾げるアミーリア。
その身を包む愛らしい夜着を剥ぎ取って、無垢な素肌に自分の印を記して。
手付きとなってはもうジーニャリア以外の男にはやれぬと、彼女の父王を追いつめてしまおうか。
そんなことを考えながら、彼は獲物を前にした獣のように瞳孔を大きく開かせて、まずは己の腕の中に収まった少女の唇にかぶりつこうとした。
ところが
「ちょっと殿下、朝から人ンちで盛らないでいただけます?」
ジーニャリアのこめかみを、鞘に入った剣がゴツッと小突いた。
おかげで彼ははっと我に返って真のケダモノにはならずに済んだが、なおもぐりぐりとこめかみを捻ってくる鞘の先を、さも鬱陶しげに叩き落とした。
「……モーリス」
「溜まってるんですか? 若者はたいへんですねぇ」
恐れ多くも、大国の第二王子にして軍の最高司令官であるジーニャリアを、道端に落ちている家畜の何やらのようにつんつんしていたのは、モーリスだった。
さらに、その後ろに気まずげな様子で佇むのは、彼の一人息子ロビー。
中佐と見習い兵士の父子は、アミーリアが目覚める前からの一部始終を、ベッドの近くの壁際に並んで見物していたのだった。
「あ、おはよう。ロビー、モ……」
「パ・パ! パパだよ、アミー」
「えっと、はいパパ」
ベッドの上で男に腕枕された体勢のまま、のん気に顔だけ向けて朝の挨拶をするアミーリアに対し、モーリスは「うーん、いいねぇ~。娘は可愛いねぇ~」と鼻の下を伸ばす。
彼は、昨夜いろいろとふっきれたらしいジーニャリアが、眠るアミーリアのベッドに添い寝しようとするのを全力で阻止した。
朝日が昇ってやっと、ジーニャリアは彼女の隣に潜り込むことを許されたのだ。ただし、見張り付きで。
父モーリスとともに、国王陛下直々に姫の警護を命じられたロビーは、ベッドでくっ付く少女と司令官閣下の姿に、目のやり場に困ったように視線を泳がせている。
そんな息子を眺めて、「うん、うちの息子も初心で可愛いねぇ」と微笑むと、モーリスは我が子に浮かべた笑顔のままジーニャリアに向き直った。
「では、ふがいないジーニャリア殿下。とっとと僕らのアミーと仲直り完了しちゃってくださいよ」
「……“僕ら”とは?」
「もちろん、“僕とロビーの”ってことっすよ」
「ふざけるなっ!」
再び剣先で「うらうら」と小突いてくるモーリスに向かって吠えると、ジーニャリアはこめかみに青筋を浮かべたままアミーリアを抱き起こし、きょとんと見上げてくる無邪気な相手に視線を向ける。
そして、己を落ち着かせるように深々と一つため息をつくと、「とにかく」と口を開いた。
「今後は、遠慮せずに会いに行くぞ。お前もいつでも俺の執務室を訪ねてこい」
「でも……私は他所の国の人間だから……」
隣国の人間である自分が、軍の最高司令官の執務室に立ち入るなどもってのほか。
頑なにそう思い込んでいるアミーリアの戸惑いに、ジーニャリアは呆れたように答えた。
「あのな、そもそも軍事機密なんてもんは、執務室に入られたくらいであばかれるような適当な扱いはされていないんだぞ」
「……そうなの?」
「お前に机の引き出しを引っ掻き回されたって、見られて困るようなものはない。それどころか、万が一どこかのスパイが俺の執務室に潜り込んでも、無駄足を踏むだけだろう」
よくよく考えてみれば、そのとおりなのだ。
いかにのほほんとしているように見えようと、大国を長年平和な状態で維持するのは簡単なことではない。
不穏の種というものは、いついかなる時に現れるやもしれず、国を左右するかもしれぬような軍事機密が厳重に管理されるのは当然のことだった。
しかしながら、確かにジーニャリア自身も、これまで積極的にアミーリアを執務室に呼ぼうとはしなかった。
その理由は、軍事機密とは別にあった。
「ああ、アミーリア様! 会いたかった……っ!!」
顔を合わせたとたんそう叫んで、アミーリアに襲いかかろうとしたのは、彼女が憧れと嫉妬を抱いていた相手。
軍最高司令官の補佐官、クラリス女史だった。
朝の身支度を整え、ロビーの叔父の店で朝食をご馳走になった一同は、ジーニャリアに請われて結局そのまま城に戻ることになった。
アミーリアを夕刻まで町で遊ばせる計画は、ジーニャリアが日を改めて請け負うと宣言し、姫をもてなすことを楽しみにしていたロビーは少しだけがっかりした。
一方、補佐官との仲を二度と誤解などさせぬためには本人に会わせるのが一番だろうと、アミーリアを執務室に連れてきたジーニャリアだったが、もうすでにそんな己の判断を後悔し始めていた。
「ああ、なんて愛らしい。いつも遠目に拝見することしかできず、わたくしの想いは募るばかりでしたが、やっとお会いできた……!」
王家に次ぐ地位となる、由緒正しき公爵家の一人娘クラリスは、可愛いものが大好きだ。
そんな彼女の中で、アミーリアはこの世で一番可愛いものとカテゴリーされている。
クラリスはうっとりと頬を染めながら、じりじりと姫との距離を詰めていったが、その前に立ち塞がったジーニャリアに視線を移すと、表情を一変させた。
「よりにもよって、殿下との仲を疑うなんてあんまりです。――こんな、可愛いの対極にあるような物体に、上官という以外に何の興味もございません」
幼馴染みでもあるジーニャリアに対し、そして成人男性らしく立派に成長し、クラリスの好みからかけ離れた姿の男に、彼女の毒舌は容赦を知らない。
さらには、“可愛くはない”無骨な兵士達を剣で滅多打ちにするのにも、補佐官殿には躊躇の欠片もない。
太刀筋に迷いがないと有名なクラリスは、剣の腕においても最高司令官に次ぐ強さを誇った。
「アミーリア姫」
そう誘う声は、女性らしく柔らかだ。
年の離れた姉王女達にも溺愛されて育ったアミーリアは、優しげな年上の女性にはついつい甘えてしまいがち。
クラリスの女神のように優しげな微笑みの裏に、下心が山と盛られているのも分からず、アミーリアの可愛らしい口が「おねえさま……」と小さく紡いだのに気づいて、ジーニャリアはこれはまずいと焦った。
けれど、クラリスとは付き合いの長い彼は、ちゃんと策を用意していたのだ。
「ロビー!」
「あ、はっ、はい! 閣下!」
ジーニャリアは、自分の側で補佐官の本性に驚いていた少年の名を呼んだ。
そして、姿勢を正して返事をした彼の襟首を掴むと、ぐいっと引き寄せてはクラリスの前へと突き出した。
「ロビー、特別任務だ。クラリスからアミーリアを守れ」
「むっ……無理ですっ!」
「大丈夫、お前ならできる。――おとなしく、身代わりになれ」
「……へ?」
ジーニャリアの言葉を理解できず、ぽかんとしたロビーの顎を、すっと前方から伸びてきた優美な手が掴んだ。
そして気がつけば、麗しき補佐官の美しい顔が、鼻先が触れ合うほどの距離まで迫っていたのだ。
「かわいい……」
「――!?」
ロビーは、成人を翌年に控えた十五歳。
さすがに声変わりはしているものの、父モーリスも母アンネも一般と比べて小柄な体型で、二人の子であるロビーもやはり兵士にしては華奢な部類に入る。
男子としては悔しいことだが、実はまだクラリスの方が小指一関節ほど彼より背が高い。
童顔なのは父方の遺伝。
父モーリスなど今年三十五になるが、二十歳のジーニャリアとさほど変わらない年齢にも見える。
そんな、どちらかというとロビーがコンプレックスに感じていた部分が、可愛いもの好きの補佐官殿にとってはチャームポイント。
実をいうとクラリスは、毎日アミーリアレポートをジーニャリアに提出にやってくるロビーに、すでに目をつけていた。
そして、それに気づいていたジーニャリアによって、彼は生け贄として捧げられることになる。
「今後、アミーリアが俺の執務室に来る時は必ず同行するように。――分かったな、ロビー」
「あ、あの……」
最高司令官閣下の命令に、しがない見習い兵士が戸惑う声は、ふわりと柔らかな腕の中。
初心な少年を抱き竦め、美貌の補佐官は「うふふ」と満足げな笑みを零した。
初めての温もりに包まれて硬直したロビーは、彼女の肩越しに目があった父モーリスに、思わず助けを求める。
――しかし
平民兵士の希望の星、モーリス中佐は一人息子に向かって親指をおっ立て、
「やったね――逆玉の輿!」
ばっちり片目を瞑ってそう叫んだ。
『一兵卒と案件』終わり
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