蔦姫と蜂蜜5
「蔦姫と蜂蜜」第五話
“ヴィオラントが反抗期”
午後になってやってきたシュタイアー公爵ヒルディベルは、それを聞いて腹を抱えて大笑いをした。
ひいひいと息も絶え絶えに、終いには床に踞ってしまうほどに。
「はあ! ひい! ああ、おかしい! スミレはダディの腹筋を崩壊させる気かい!」
「鍛えてあげてるんだよ。ダディがメタボ腹になったら幻滅しちゃう」
シュタイアー公爵夫妻とスミレの間には、正式な養子縁組が成されている。
スミレはシュタイアー公爵家令嬢としてレイスウェイク大公爵に嫁いだのだ。
女の子供がいなかったシュタイアー公爵夫妻は、彼女を実の子以上に可愛がり、裁縫の得意なイメリア夫人は手ずから娘のドレスを縫う毎日。
昨日スミレが怪我をしたことを聞いて、イメリアもたいそう心配したが、翌日のこの日はちょうど貴婦人達を集めた裁縫教室を予定していた。それは、彼女の公爵夫人としての社交の場であり、そう簡単に中止にするわけにはいかない。
泣く泣く見送る妻にスミレへの見舞いの品をどっさり持たされたヒルディベルは、こちらも父親としての責務を果たす。
レイスウェイク家を訪れる前に、途中のフリードの茶葉屋に顔を出し、店主に急に娘が仕事を休むことを謝罪するとともに、彼女のかわりに店に立ってくれていたメイドにお礼を言うのを忘れなかった。
そんなヒルディベルは、フリードにまで託された見舞いの品――彼の息子の異国土産のキャンディをスミレに手渡しつつ、まだ治まらない笑いに喉の奥をクククと震わせながら、正面のソファに座るヴィオラントを眺めた。
「そうだねえ。ヴィオラントは幼い頃から皇太子として己を律することを求められ、成人すればすぐに玉座に座らされて、反抗期なんて迎えている暇はなかったもんねぇ……」
ヒルディベルは宰相として、赤子の頃からヴィオラントをずっと見守ってきた。
たとえ実の父親と名乗ることが許されなくとも、我が子の成長に目を細め、若い彼にのしかかる重圧に胸を痛めたものだ。
そんなヒルディベルも、クロヴィスが二十歳を迎えたのを機に宰相の座を譲り、そのあとはしばらく相談役として城に出入りしていたが、二年前のヴィオラントの退位に続いて完全に国政から退いた。
先々代の皇帝フリードリヒは死に際、ヴィオラントに出生の秘密を打ち明け、その後いくらかヒルディベルとヴィオラントの関係はぎくしゃくしたものの、今では随分と穏やかに寄り添えるようになっていた。
笑い過ぎて涙目なままの実父の言葉に、ヴィオラントは戸惑ったような顔をする。
「別に、ハニマリア様に反抗心を抱いているつもりはないのですが……」
「分かる分かる。そんなつもりないけど、自然とツンツンした態度とっちゃうんだよね」
「あの方を嫌っているわけでもなく……」
「そうそう、私もおにーちゃんのこと本当は大好きだったんだけど、なんでか冷たい言葉しか返せなかったのよね」
「……スミレ」
ヴィオラントの言葉に、並んで座ったスミレがいちいち茶々を入れてうんうんと頷いた。
二人の様子を微笑ましく見守っていたシュタイアー公爵は、紅茶を一口飲むと笑顔のままため息をついた。
「そういえば、若い頃の君の母上――マジェンタも、ハニマリア様には随分反抗していたものだよ」
「……母上が?」
「そう。彼女はハニマリア様とは正反対の性格でね。公爵夫人らしからぬ奔放な母上に、いつも腹を立てていた」
ヴィオラントの生母マジェンタを生んだ後も、ハニマリアは父から受継いだ会社の経営にかかりっきりだった。
父親である当時のリュネブルク公爵アルヴィースも忙しく、マジェンタはずっと乳母に育てられた。
世界中を飛び回るハニマリアが娘と顔を合わせるのは、年に数度。
若きヒルディベルと恋に落ちてヴィオラントを身籠り、そして当時の皇帝フリードリヒに無理矢理後宮に召し上げられた時も、マジェンタが助けを求められる場所に母はいなかった。
たとえハニマリアが側にいたとしても、皇帝陛下の決定を覆すことなどできなかっただろう。
しかし、恋人と引き離され、親友と思っていた男に翻弄されて傷ついたマジェンタの心を、母なら優しく包み込んでやることができたかもしれない。
そうすれば、マジェンタももっと前向きに生き、皇太子として生まれ落ちたヴィオラントに対する接し方も違っていたかもしれない。
「もしもあの時と……思うことはたくさんあるよ。生きていれば、後悔も山ほど生まれてくる。マジェンタはもっと自分の想いをハニマリア様に告げるべきだった。本当は互いを想い合っているのに、すれ違ったまま永遠の別れを迎えるのは、とても不幸なことだ」
紅茶のカップに視線を落としたヒルディベルの声は、とても悲しげだった。
そんな彼を初めて見たスミレは戸惑って、「ダディ?」と、本人が望んだ呼称でそっと声をかける。
それに顔を上げたヒルディベルはやはりどこか寂しそうだったが、それでも笑顔を浮かべて「でもね」と続けた。
「ヴィオラントはまだ小さかったから覚えていないだろうけどね、マジェンタの最期をハニマリア様は看取ったんだよ」
「え?」
「彼女はクロヴィスを生んだ直後に産屋で息を引き取ったから、男である私やフリードリヒは会うことが叶わなかった。けれど、ハニマリア様は半ば無理矢理出産から立ち会って、天国に旅立つマジェンタの手を握っていてくださった」
それは、ヴィオラントも初めて聞かされた事実だった。
母マジェンタが亡くなったのは、彼がまだ四歳になったばかりの頃。
後宮に召し上げられて心を閉ざした母は、幼いヴィオラントにとってずっと遠い存在だった。
彼女亡き後、ヴィオラントやクロヴィスの母代わりを務めたのは、ヒルディベルの実妹であり皇妃であったエリザベスだ。
実の息子ではない兄弟を、大切に慈しんで育ててくれた義母。
ヴィオラントもエリザベスを実の母のように慕い愛しながらも、思春期特有の焦燥や苛立ちを、恩義を抱く相手に打つけることなどできなかった。
そして、全てを曝け出して大人に甘えることも、彼の皇太子としての立場が許さなかった。
一方で、相変わらず事業に忙しく、リュネブルク家に滞在することも王宮に顔を出すことも稀な祖母ハニマリアの存在に、若きヴィオラントは苛立った。
公爵夫人という立場も弁えぬ奔放な言動は、潔癖な少年皇帝の眉を顰めさせ、時には改革を押し進める彼の足を引っ張ることさえあった。
「ハニマリア様は悲しい別れの後、君と生まれたばかりのクロヴィスを抱いて気丈に振る舞われた。けれど、マジェンタの葬儀が済んだとたん、熱を出して十日あまり寝込まれた」
「……あの方が?」
「アルヴィース様がおっしゃるには、ハニマリア様が寝込んだのなんて、後にも先にもその一回きりだそうだよ。よっぽどショックだったんだろうね……」
それはそうだろう。たった一人の娘を亡くしたのだから。
母親らしいことを何もしなかったといっても、彼女が娘を愛していないはずはなかった。
そんなハニマリアの姿は、スミレの中で、仕事に夢中で自分と兄を顧みなかった過去の両親と重なる。
だから彼女には、マジェンタが感じた寂しさが分かるし、ハニマリアに対するヴィオラントの複雑な思いもよく分かった。
スミレは口を引き結んだヴィオラントを見上げ、膝に置かれている彼の握り拳を労るようにそっと撫でた。
すると、すぐさま伸びてきた腕が腰に絡み付いて、ひょいと抱き上げられて膝の上に抱え込まれてしまった。
彼はどうやら、今もまたスミレという名の精神安定剤を必要としているらしい。
ヴィオラントは大人しく懐に収まった少女の黒髪に顔を埋め、そのままため息をついた。
そして、心の中の澱みをぽろりと吐き出し始める。
「ハニマリア様を、憎んだ時期もありました。それでいて、奔放な生き様に憧れたことも」
その臆面もない態度を厚顔無恥と嫌悪し、しかし一方では、そんな自信に満ち溢れたハニマリアを羨ましいとの思いも存在した。それがますますヴィオラントの心を混乱させ、祖母を前にした彼に不機嫌な態度をとらせてしまうのだ。
けれど心のどこかでは、そんな好ましくない態度をとったとしても、彼女は決して自分を嫌わないという妙な確信があった。
それはつまり、ヴィオラントが抱く、祖母への絶対的な甘えに他ならない。
そう思い至った時、ヴィオラントはスミレに指摘されたとおり、自分は今さら訪れた反抗期の衝動をハニマリアに打つけているだけなのだと、認めないわけにはいかなくなった。
そんな彼を穏やかの見守りつつ、ヒルディベルは落ち着いた声で問うた。
「では、今は?」
「今は……あの方がとても近くなったことに、戸惑っています」
「ふむ、今まで滅多に顔を合わせる機会がなかったお方だからね。気持ちは分かる。それで、ハニマリア様がそんなに近くなったのは、一体何故だろう?」
「それは……」
言葉を切ったヴィオラントは、視線を己の腕の中に落とした。
彼の膝の上にちょこんと座らされたスミレが、あどけない顔をして見上げてくる。
疎遠だった祖母がヴィオラントにぐっと近くなったのは、おそらくスミレという存在が理由だろう。
ハニマリアは二人の結婚式には出席さえしなかったというのに、その一月後に突然屋敷に現れたかと思ったら、山盛りの祝いの品をヴィオラントに押し付けて、「おやまあ、なんて可愛いお姫様だろう! 初めまして、おばあちゃまだよ」と、感極まった様子で初対面のスミレを抱き締めた。
そして、それに戸惑うこともなくハグを返してしまうのが、スミレという少女だ。
戸惑ったのは、すぐに意気投合したハニマリアとスミレに追いつけないでいたヴィオラントだけだろう。
それ以来顔を合わせる機会が増えた祖母に、彼はいまだに戸惑ったままでいる。
ままならない感情を持て余し、ハニマリアと同じ空間はヴィオラントには居心地が悪かった。
口を噤んだ彼の白銀の髪を、腕の中でくるりと身体を反転させたスミレが、幼い子供をあやすように「よしよし」と撫でた。
「そういう時期って、誰にでもあるんだよ。ヴィーにもあって、当然なの」
「……」
「ハニーおばあちゃまみたいな、負の感情を受け止めてくれる人がいるっていうのは、すごく幸せなことなんだよ? 私も……お兄ちゃんがいてくれから、今の自分があるんだと思う」
「スミレ……」
苦労も知らぬ愛玩人形のようなスミレだが、彼女は両親が健在であるにも関わらず、その愛情を知らずに育った。
随分と寂しい幼少時代を過ごしたことを、ヴィオラントも知っている。
そんなスミレを懸命に守ってきたのが彼女の兄であり、彼は反抗期を迎えて扱いが難しくなった妹に苦悩しながらも、決して逃げずに向かい合った。自分がとても兄に愛されていたと自覚したスミレは、今ではヴィオラントが嫉妬を抱きそうになるほど、兄を慕い甘えるようになっている。
いつか、スミレが兄に対するようにとまではいかなくても、自分も祖母ハニマリアに親愛を示せる時がくるのだろうか。
そんなことを思うヴィオラントの心を見透かしたかのように、スミレは彼の頬を小さな掌で包み込んで微笑んだ。
「大丈夫だよ、ヴィー」
その甘い声は、ヴィオラントの心の強張りを解くように優しく響いた。
彼の口からは安堵のため息がこぼれ、それを与えてくれた愛しい少女を思いの丈いっぱいに抱き締める。
すると、スミレの身体はすっぽり腕の中に隠れてしまったが、ヴィオラントの膝の上に置かれたか彼女の足がちらりと見えた。
足首から踵にかけてぐるぐると白い包帯で固定された右足は、見ていて痛々しい。
その元凶とも言える祖母のことを思うと、相変わらずヴィオラントの心はざわついた。
それでも、彼は腕に抱いたスミレの柔らかな温もりに己を落ち着けると、正面で見守っている実父に向かい、静かな声で問うた。
「……母は最期、ハニマリア様と分かり合えたのでしょうか」
それに対し、ヒルディベルは少しだけ困ったように眉を下げて「さあね」と答えた。
「それは、その場に立ち会えなかった私には分からない」
しかし、彼はすぐに優しく目元を緩めて、こう続けた。
「ただ、棺に納められたマジェンタの顔は、とても穏やかだったよ」
“ヴィオラントが反抗期”
午後になってやってきたシュタイアー公爵ヒルディベルは、それを聞いて腹を抱えて大笑いをした。
ひいひいと息も絶え絶えに、終いには床に踞ってしまうほどに。
「はあ! ひい! ああ、おかしい! スミレはダディの腹筋を崩壊させる気かい!」
「鍛えてあげてるんだよ。ダディがメタボ腹になったら幻滅しちゃう」
シュタイアー公爵夫妻とスミレの間には、正式な養子縁組が成されている。
スミレはシュタイアー公爵家令嬢としてレイスウェイク大公爵に嫁いだのだ。
女の子供がいなかったシュタイアー公爵夫妻は、彼女を実の子以上に可愛がり、裁縫の得意なイメリア夫人は手ずから娘のドレスを縫う毎日。
昨日スミレが怪我をしたことを聞いて、イメリアもたいそう心配したが、翌日のこの日はちょうど貴婦人達を集めた裁縫教室を予定していた。それは、彼女の公爵夫人としての社交の場であり、そう簡単に中止にするわけにはいかない。
泣く泣く見送る妻にスミレへの見舞いの品をどっさり持たされたヒルディベルは、こちらも父親としての責務を果たす。
レイスウェイク家を訪れる前に、途中のフリードの茶葉屋に顔を出し、店主に急に娘が仕事を休むことを謝罪するとともに、彼女のかわりに店に立ってくれていたメイドにお礼を言うのを忘れなかった。
そんなヒルディベルは、フリードにまで託された見舞いの品――彼の息子の異国土産のキャンディをスミレに手渡しつつ、まだ治まらない笑いに喉の奥をクククと震わせながら、正面のソファに座るヴィオラントを眺めた。
「そうだねえ。ヴィオラントは幼い頃から皇太子として己を律することを求められ、成人すればすぐに玉座に座らされて、反抗期なんて迎えている暇はなかったもんねぇ……」
ヒルディベルは宰相として、赤子の頃からヴィオラントをずっと見守ってきた。
たとえ実の父親と名乗ることが許されなくとも、我が子の成長に目を細め、若い彼にのしかかる重圧に胸を痛めたものだ。
そんなヒルディベルも、クロヴィスが二十歳を迎えたのを機に宰相の座を譲り、そのあとはしばらく相談役として城に出入りしていたが、二年前のヴィオラントの退位に続いて完全に国政から退いた。
先々代の皇帝フリードリヒは死に際、ヴィオラントに出生の秘密を打ち明け、その後いくらかヒルディベルとヴィオラントの関係はぎくしゃくしたものの、今では随分と穏やかに寄り添えるようになっていた。
笑い過ぎて涙目なままの実父の言葉に、ヴィオラントは戸惑ったような顔をする。
「別に、ハニマリア様に反抗心を抱いているつもりはないのですが……」
「分かる分かる。そんなつもりないけど、自然とツンツンした態度とっちゃうんだよね」
「あの方を嫌っているわけでもなく……」
「そうそう、私もおにーちゃんのこと本当は大好きだったんだけど、なんでか冷たい言葉しか返せなかったのよね」
「……スミレ」
ヴィオラントの言葉に、並んで座ったスミレがいちいち茶々を入れてうんうんと頷いた。
二人の様子を微笑ましく見守っていたシュタイアー公爵は、紅茶を一口飲むと笑顔のままため息をついた。
「そういえば、若い頃の君の母上――マジェンタも、ハニマリア様には随分反抗していたものだよ」
「……母上が?」
「そう。彼女はハニマリア様とは正反対の性格でね。公爵夫人らしからぬ奔放な母上に、いつも腹を立てていた」
ヴィオラントの生母マジェンタを生んだ後も、ハニマリアは父から受継いだ会社の経営にかかりっきりだった。
父親である当時のリュネブルク公爵アルヴィースも忙しく、マジェンタはずっと乳母に育てられた。
世界中を飛び回るハニマリアが娘と顔を合わせるのは、年に数度。
若きヒルディベルと恋に落ちてヴィオラントを身籠り、そして当時の皇帝フリードリヒに無理矢理後宮に召し上げられた時も、マジェンタが助けを求められる場所に母はいなかった。
たとえハニマリアが側にいたとしても、皇帝陛下の決定を覆すことなどできなかっただろう。
しかし、恋人と引き離され、親友と思っていた男に翻弄されて傷ついたマジェンタの心を、母なら優しく包み込んでやることができたかもしれない。
そうすれば、マジェンタももっと前向きに生き、皇太子として生まれ落ちたヴィオラントに対する接し方も違っていたかもしれない。
「もしもあの時と……思うことはたくさんあるよ。生きていれば、後悔も山ほど生まれてくる。マジェンタはもっと自分の想いをハニマリア様に告げるべきだった。本当は互いを想い合っているのに、すれ違ったまま永遠の別れを迎えるのは、とても不幸なことだ」
紅茶のカップに視線を落としたヒルディベルの声は、とても悲しげだった。
そんな彼を初めて見たスミレは戸惑って、「ダディ?」と、本人が望んだ呼称でそっと声をかける。
それに顔を上げたヒルディベルはやはりどこか寂しそうだったが、それでも笑顔を浮かべて「でもね」と続けた。
「ヴィオラントはまだ小さかったから覚えていないだろうけどね、マジェンタの最期をハニマリア様は看取ったんだよ」
「え?」
「彼女はクロヴィスを生んだ直後に産屋で息を引き取ったから、男である私やフリードリヒは会うことが叶わなかった。けれど、ハニマリア様は半ば無理矢理出産から立ち会って、天国に旅立つマジェンタの手を握っていてくださった」
それは、ヴィオラントも初めて聞かされた事実だった。
母マジェンタが亡くなったのは、彼がまだ四歳になったばかりの頃。
後宮に召し上げられて心を閉ざした母は、幼いヴィオラントにとってずっと遠い存在だった。
彼女亡き後、ヴィオラントやクロヴィスの母代わりを務めたのは、ヒルディベルの実妹であり皇妃であったエリザベスだ。
実の息子ではない兄弟を、大切に慈しんで育ててくれた義母。
ヴィオラントもエリザベスを実の母のように慕い愛しながらも、思春期特有の焦燥や苛立ちを、恩義を抱く相手に打つけることなどできなかった。
そして、全てを曝け出して大人に甘えることも、彼の皇太子としての立場が許さなかった。
一方で、相変わらず事業に忙しく、リュネブルク家に滞在することも王宮に顔を出すことも稀な祖母ハニマリアの存在に、若きヴィオラントは苛立った。
公爵夫人という立場も弁えぬ奔放な言動は、潔癖な少年皇帝の眉を顰めさせ、時には改革を押し進める彼の足を引っ張ることさえあった。
「ハニマリア様は悲しい別れの後、君と生まれたばかりのクロヴィスを抱いて気丈に振る舞われた。けれど、マジェンタの葬儀が済んだとたん、熱を出して十日あまり寝込まれた」
「……あの方が?」
「アルヴィース様がおっしゃるには、ハニマリア様が寝込んだのなんて、後にも先にもその一回きりだそうだよ。よっぽどショックだったんだろうね……」
それはそうだろう。たった一人の娘を亡くしたのだから。
母親らしいことを何もしなかったといっても、彼女が娘を愛していないはずはなかった。
そんなハニマリアの姿は、スミレの中で、仕事に夢中で自分と兄を顧みなかった過去の両親と重なる。
だから彼女には、マジェンタが感じた寂しさが分かるし、ハニマリアに対するヴィオラントの複雑な思いもよく分かった。
スミレは口を引き結んだヴィオラントを見上げ、膝に置かれている彼の握り拳を労るようにそっと撫でた。
すると、すぐさま伸びてきた腕が腰に絡み付いて、ひょいと抱き上げられて膝の上に抱え込まれてしまった。
彼はどうやら、今もまたスミレという名の精神安定剤を必要としているらしい。
ヴィオラントは大人しく懐に収まった少女の黒髪に顔を埋め、そのままため息をついた。
そして、心の中の澱みをぽろりと吐き出し始める。
「ハニマリア様を、憎んだ時期もありました。それでいて、奔放な生き様に憧れたことも」
その臆面もない態度を厚顔無恥と嫌悪し、しかし一方では、そんな自信に満ち溢れたハニマリアを羨ましいとの思いも存在した。それがますますヴィオラントの心を混乱させ、祖母を前にした彼に不機嫌な態度をとらせてしまうのだ。
けれど心のどこかでは、そんな好ましくない態度をとったとしても、彼女は決して自分を嫌わないという妙な確信があった。
それはつまり、ヴィオラントが抱く、祖母への絶対的な甘えに他ならない。
そう思い至った時、ヴィオラントはスミレに指摘されたとおり、自分は今さら訪れた反抗期の衝動をハニマリアに打つけているだけなのだと、認めないわけにはいかなくなった。
そんな彼を穏やかの見守りつつ、ヒルディベルは落ち着いた声で問うた。
「では、今は?」
「今は……あの方がとても近くなったことに、戸惑っています」
「ふむ、今まで滅多に顔を合わせる機会がなかったお方だからね。気持ちは分かる。それで、ハニマリア様がそんなに近くなったのは、一体何故だろう?」
「それは……」
言葉を切ったヴィオラントは、視線を己の腕の中に落とした。
彼の膝の上にちょこんと座らされたスミレが、あどけない顔をして見上げてくる。
疎遠だった祖母がヴィオラントにぐっと近くなったのは、おそらくスミレという存在が理由だろう。
ハニマリアは二人の結婚式には出席さえしなかったというのに、その一月後に突然屋敷に現れたかと思ったら、山盛りの祝いの品をヴィオラントに押し付けて、「おやまあ、なんて可愛いお姫様だろう! 初めまして、おばあちゃまだよ」と、感極まった様子で初対面のスミレを抱き締めた。
そして、それに戸惑うこともなくハグを返してしまうのが、スミレという少女だ。
戸惑ったのは、すぐに意気投合したハニマリアとスミレに追いつけないでいたヴィオラントだけだろう。
それ以来顔を合わせる機会が増えた祖母に、彼はいまだに戸惑ったままでいる。
ままならない感情を持て余し、ハニマリアと同じ空間はヴィオラントには居心地が悪かった。
口を噤んだ彼の白銀の髪を、腕の中でくるりと身体を反転させたスミレが、幼い子供をあやすように「よしよし」と撫でた。
「そういう時期って、誰にでもあるんだよ。ヴィーにもあって、当然なの」
「……」
「ハニーおばあちゃまみたいな、負の感情を受け止めてくれる人がいるっていうのは、すごく幸せなことなんだよ? 私も……お兄ちゃんがいてくれから、今の自分があるんだと思う」
「スミレ……」
苦労も知らぬ愛玩人形のようなスミレだが、彼女は両親が健在であるにも関わらず、その愛情を知らずに育った。
随分と寂しい幼少時代を過ごしたことを、ヴィオラントも知っている。
そんなスミレを懸命に守ってきたのが彼女の兄であり、彼は反抗期を迎えて扱いが難しくなった妹に苦悩しながらも、決して逃げずに向かい合った。自分がとても兄に愛されていたと自覚したスミレは、今ではヴィオラントが嫉妬を抱きそうになるほど、兄を慕い甘えるようになっている。
いつか、スミレが兄に対するようにとまではいかなくても、自分も祖母ハニマリアに親愛を示せる時がくるのだろうか。
そんなことを思うヴィオラントの心を見透かしたかのように、スミレは彼の頬を小さな掌で包み込んで微笑んだ。
「大丈夫だよ、ヴィー」
その甘い声は、ヴィオラントの心の強張りを解くように優しく響いた。
彼の口からは安堵のため息がこぼれ、それを与えてくれた愛しい少女を思いの丈いっぱいに抱き締める。
すると、スミレの身体はすっぽり腕の中に隠れてしまったが、ヴィオラントの膝の上に置かれたか彼女の足がちらりと見えた。
足首から踵にかけてぐるぐると白い包帯で固定された右足は、見ていて痛々しい。
その元凶とも言える祖母のことを思うと、相変わらずヴィオラントの心はざわついた。
それでも、彼は腕に抱いたスミレの柔らかな温もりに己を落ち着けると、正面で見守っている実父に向かい、静かな声で問うた。
「……母は最期、ハニマリア様と分かり合えたのでしょうか」
それに対し、ヒルディベルは少しだけ困ったように眉を下げて「さあね」と答えた。
「それは、その場に立ち会えなかった私には分からない」
しかし、彼はすぐに優しく目元を緩めて、こう続けた。
「ただ、棺に納められたマジェンタの顔は、とても穏やかだったよ」
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