蔦姫と蜂蜜3
「蔦姫と蜂蜜」第三話
スミレがヴィオラントから発掘許可をもぎ取った翌日。
彼女が必ず孫を落としてくれると信じて疑わなかったハニマリアは、いそいそとやってきた。
「ご趣味の範囲内でしたら、許可します」
「ふむ、つまり大掛かりな発掘は駄目ってことだね? 分かった、慎ましく地道に掘るよ。作業員五人でどうだい?」
「二人です」
「三人!」
「……いいでしょう」
客間で向かい合って、一応合意に達した二人だったが、ヴィオラントの膝に猫のように乗せられたスミレは、彼がやけにピリピリしているような気がしてならなかった。
こういう時、ヴィオラントにとってスミレは精神安定剤の役目を果たす。
それを自負している少女は、大人しく彼の膝に収まってぴたりとくっ付いていた。
そのさらに翌日には、ハニマリアは約束通り三人の部下を引き連れ、発掘計画書を持ってやってきた。
地層を外側からざっと見て、長年の経験により掘るべき場所の目星をすでにつけていたらしい。
その場所が思ったより屋敷の敷地に近いことにヴィオラントは少し難色を示したが、後片付けはちゃんとするとハニマリアが約束したため、何とか許可を出した。
その日の内に、発掘作業は始まった。
好奇心にかられたスミレは見学に行くつもりだったが、そんな彼女の考えなどお見通しなヴィオラントは、掘った穴に近づいてはならないと先に釘を刺した。
「なんで、見に行っちゃだめなの?」
「そなたは、落ちる」
「え~……断言しちゃうの?」
「断言するとも。落ちるから近づいてはいけない」
ヴィオラントの妙な自信に異議を唱えたい思いはあれど、それでせっかく勝ち取った発掘許可が撤回されてはハニマリアに申し訳ないので、スミレはしぶしぶ口を噤んだ。
その時は、まさか自分が彼のその自信を裏付けることになるとは、想像もしていなかった。
スミレはヴィオラントの言い付けを守り、穴掘りの様子を見に行きたいのを必死に我慢していたというのに、まさか穴の方から彼女に近づいてきていたとは。
発掘作業が始まって十日目の昼下がりに、スミレがその穴に落ちて足を挫くまで、誰にも分からなかった。
「お引き取りください」
ハニマリアに向かい合ったヴィオラントは、開口一番そう告げた。
彼の後ろのソファの上では、土で汚れた衣服を着替えたばかりのスミレが、レイスウェイク家の侍従長サリバンの手当を受けている。
靴を脱いだ足首が、赤く腫れているのが痛々しい。
「申し訳なかった。まさか、掘る方向がずれていたなんて……」
「言い訳は結構です」
作業着姿の祖母を前に、完全に表情を消し去ったヴィオラントの声は冷えきっている。
いっさいの弁解を許さぬという構えに、ハニマリアはやれやれとため息をついた。
発掘計画は完璧なはずだった。
ただし、作業員を三人まで絞られてしまったことで、肉体労働人員ばかりを連れてきてしまったのがそもそもまずかった。
陣頭指揮をとったハニマリアが、実は少々方向音痴だったのだ。
計画書を片手に指示を出す彼女に、何も知らない部下達は疑わずに従う。
進行方向は少しずつ少しずつずれ、穴はいつの間にか外壁を越えて敷地内――レイスウェイク家の庭園に到達していた。
そうとは知らないハニマリアは、その日はずっと後方で、これまで掘り出した鉱物やら化石やらを検分していた。
一方、穴を地表に貫通させた作業員達は驚いた。
明らかにミスをしたと悟った彼らは、慌ててハニマリアの元まで報告に戻ったが、その時穴に誰かが落ちぬように見張りをたてることまで頭が回らなかったのだ。
フリードの店にも立たず、ヴィオラントと出かける予定のない日のスミレは、厨房で厳つい料理長と一緒にお菓子を作るか、庭園で庭師のポムの手伝いをして過ごすことが多い。
この日は、後者だった。
ヴィオラントと一緒に昼餉をいただいてから、ポムと並んで庭の草をむしり、青虫達を木の棒の先で撃退し、それからトマトをたくさん収穫した。
完熟して真っ赤な姿は一見うまそうだが、実はこちらの世界のトマトは生食には向いていない。
それを知っているスミレは、籠一杯に山積みにしたそれを抱えて厨房に向かいながら、さて何を作ろうかと考え込んでいた。
ペンネに似た小麦加工品があるので、トマトソースにして絡めるのもいい。
それとも、大鍋でどっさり煮込んでミネストローネを作ろうか。
良質のチーズをコンラート土産にもらったので、ピザにしてもいいんじゃないか。
頭の中では赤い宝石を料理に変身させることに夢中だったスミレは、足元などまったく見ていなかった。
「――スミレ様っ! あっ、危ないっ……!!」
後ろからやってきたポムが穴に気づき、慌てて叫んだ時にはもう、彼女の片足は地面を踏んではいなかった。
次の瞬間、スミレは碌に悲鳴を上げる暇もなく穴に吸い込まれていった。
ポムが荷物を放り投げて真っ青な顔で駆け寄ると、ちょうど自分の背丈ほどの深さの穴の底で、彼女は赤いトマトの実と一緒にひっくり返っていた。
「だっ、誰か、来てくれぇー!!」
それを見たポムの悲鳴に、近くにいた使用人達が何ごとかとわらわら寄ってきた。
そして、見知らぬ穴の縁でパニックに陥っている庭師に首を傾げ、穴を覗き込んだとたんに全員悲鳴を上げて飛び上がった。
穴の底で、土と赤いものに塗れてベソをかいている女主人を発見したからだ。
もちろん、その赤は完熟したトマトが潰れたものだったが、スミレがそれと一緒に落ちたことを知らない者達には、彼女が血塗れに見えたことだろう。
すぐさま穴から助け出されたスミレは、落ちた拍子に右足を捻ったらしく、うまく歩けない。
近くの厨房から飛び出してきていた料理長は、これは一大事とばかりに彼女を抱え上げ、レイスウェイク家の侍医も務める侍従長サリバンを求めて、ドタドタと屋敷の中に駆け込んだ。
ちょうどその時、ヴィオラントはシュタイアー公爵ヒルディベルを私室でもてなしているところで、サリバンも彼らの側に控えていた。
「――スミレ!?」
「ぎゃあ、うちの娘がぁっ……!!」
料理長に担がれてきたスミレを見たヴィオラントは表情を凍り付かせ、彼女の養父であるヒルディベルは悲鳴を上げた。
なんといっても、彼らにとってかけがえのない宝物が小さな身体を土まみれにし、か細い足首を真っ赤に腫らしていたのだ。
さすがに、凄惨な時代を生き抜いたヴィオラントとヒルディベルには、スミレにくっついた赤いものが血でないことは一目で分かったが、こちらの世界のトマトには厄介な成分アリルプロピオンが多量に含まれていた。
それはスミレの世界の玉ねぎに含まれるのと同じ成分で、生玉ねぎを刻むと目にしみるように、汁が目に入ると涙が出る。
つまり、潰れたトマトの汁をどっさり浴びるはめになったスミレは、二人の目には盛大に泣きじゃくっているように見えた。
すぐさま騒ぎを聞きつけて飛んで来た女官長マーサが彼女に湯を浴びさせ、目を洗ってようやく涙は止まったが、スミレが着替えてほっと一息ついた頃には、ヴィオラントの機嫌はここ最近見ないほどの最悪の状態に達していた。
そんな時、事情を聞いたハニマリアが駆け付けてきた。
ソファに座らされたスミレからは、ハニマリアに向かい合ったヴィオラントの背中しか見えないが、それでも彼が強烈に怒りを迸らせているのがよく分かる。
彼の実の父親であるシュタイアー公爵が、「ヴィオラント君、マジで怖い!」と、最も安全圏たるスミレの側に避難してくるほどだ。
「これ以上の発掘を許すつもりはありません。開けた穴を塞ぎ、即刻引き上げてください」
そう告げたヴィオラントに、自分のミスでスミレに怪我を負わせてしまったハニマリアは、さすがに異議を唱えなかった。
彼女は「仕方がないね」と呟くと、ピリピリしている孫の横を通り抜け、足首に包帯を巻き終わったスミレの側までやってきた。
そして、その前にしゃがみ込むと、小さな足を労るように優しく撫でて謝った。
「すまなかったね、スミレ。全て私のミスだ」
「ううん、ハニーおばあちゃま。私もぼうっとして、足元見てなかったから……」
「いいや、私が悪い。打ち所が悪かったらたいへんなことになっていたんだ。本当に申し訳なかった」
ハニマリアはそう言ってプラチナブロンドの頭を下げると、突然胸元に片手を突っ込んだかと思ったら、そこから取り出したものをスミレの掌にぽんと乗せた。
「約束のもの。ちょうど質のいいのがコンラートとの国境付近で出たんだよ」
「でも……結局掘れなくなったのに……」
ハニマリアが手渡したのは、スミレの大きな瞳ほどのアメジストだった。色ももちろん、美しい紫色だ。
スミレは自分の不注意で、結局ハニマリアの願いが叶わなくなってしまったことから、それを受け取ることを躊躇した。
しかしハニマリアは優しく目を細めると、彼女の手にアメジストをしっかりと握らせて言った。
「いいんだよ、スミレ。そなたはちゃんと私のお願いをきいて、ヴィオラントを頷かせてくれたじゃないか」
そして、「あの子がおかんむりだから今日はさっさと帰るけど、またお見舞いにくるね」と耳元に囁くと、スミレの頬に親愛のキスを贈る。
背中に鋭い視線が突き刺さるのを感じながら、何食わぬ顔で立ち上がって振り向いたハニマリアは、隣ではらはら見守っていたシュタイアー公爵の首に腕を回すと、ぐいっと引っ張って歩き出した。
「悪かったね、ヴィオラント。それじゃ、今日のところはお暇するよ」
「あのお~、ハニマリア様。どうして私も?」
「これから反省会だよ、ヒルディベル君。そなたも一緒に来たまえ」
「ええ~!? 私はまったくの無関係なんですけども~……」
「いいから、来いっていうの」
有無を謂わさず引っ張るハニマリアに、シュタイアー公爵ヒルディベルは戸惑いながらもついていく。
彼は、ヴィオラントの生母マジェンタと恋人同士だった頃から、彼女の母親であるハニマリアには頭が上がらなかったのだ。
ヒルディベルは「ダディもまたお土産持ってお見舞いに来るから、大人しく養生するんだよ~」とスミレに言い置くと、そのままずるずると引き摺られて部屋を出ていった。
侍従長サリバンも手当の道具を片付けて立ち上がり、女官長マーサは飲みかけの紅茶が入ったカップを片付けて、実弟である料理長を追い立てた。
レイスウェイク家の使用人達は揃って部屋を辞し、残されたのはヴィオラントとスミレだけとなった。
「……ヴィー」
「……」
扉が閉まって二人っきりになると、ヴィオラントは肩が上下するほどの大きなため息をついた。
そして、かつかつと靴音を響かせてやってきたと思ったら、スミレの隣にそっと腰を下ろし、彼女を己の膝に横抱きにした。
小さな踵を掌で包み込み、白い包帯が巻かれた足首をそっと検分する彼の眉間には、くっきりと縦じわが。
それを見たスミレは、「またハニーおばあちゃまに掘らせてあげてよ」と言おうとしていた口を噤んだ。
今はまだ、それを言うべきではないと気づいたのだ。
「痛むか?」
そう、傷めた足首をそっとソファの上に下ろしたヴィオラントに問われ、スミレは「平気」と首を横に振った。
そして、今度はほっと安堵のため息をついた彼を見上げて言った。
「ヴィー、ごめんね」
スミレの眦は、先ほどトマトの辛味成分で盛大に涙を流したため、まだ赤味が残っている。
そんな泣き腫らしたような目の上目遣いに見つめられると、いまだ祖母に対する怒りを払拭できないでいたヴィオラントも、思わず目尻を緩めずにはいられなかった。
ヴィオラントは優しくスミレの黒髪を撫で、薔薇色の頬にそっと唇を押し当てると、声を柔らかくした。
「そなたは被害者だ。謝ることはなにもない」
「うん、でも、ヴィーに心配させたから……」
「だから、ごめんなさい」と、スミレはつぶやく。
それを聞いたヴィオラントは目を細め、しばらくしてからかすかに声を震わせて、「まったくだな」と答えた。
そして、彼女をいっそう強く懐にかき抱いたかと思ったら、柔らかな黒髪に鼻と口を押し付ける。
さらにはそのまま、くぐもった声でとんでもないことを告げた。
「私に心配ばかりかける悪い子は、怪我が治るまで部屋から出さん」
「げ」
スミレがヴィオラントから発掘許可をもぎ取った翌日。
彼女が必ず孫を落としてくれると信じて疑わなかったハニマリアは、いそいそとやってきた。
「ご趣味の範囲内でしたら、許可します」
「ふむ、つまり大掛かりな発掘は駄目ってことだね? 分かった、慎ましく地道に掘るよ。作業員五人でどうだい?」
「二人です」
「三人!」
「……いいでしょう」
客間で向かい合って、一応合意に達した二人だったが、ヴィオラントの膝に猫のように乗せられたスミレは、彼がやけにピリピリしているような気がしてならなかった。
こういう時、ヴィオラントにとってスミレは精神安定剤の役目を果たす。
それを自負している少女は、大人しく彼の膝に収まってぴたりとくっ付いていた。
そのさらに翌日には、ハニマリアは約束通り三人の部下を引き連れ、発掘計画書を持ってやってきた。
地層を外側からざっと見て、長年の経験により掘るべき場所の目星をすでにつけていたらしい。
その場所が思ったより屋敷の敷地に近いことにヴィオラントは少し難色を示したが、後片付けはちゃんとするとハニマリアが約束したため、何とか許可を出した。
その日の内に、発掘作業は始まった。
好奇心にかられたスミレは見学に行くつもりだったが、そんな彼女の考えなどお見通しなヴィオラントは、掘った穴に近づいてはならないと先に釘を刺した。
「なんで、見に行っちゃだめなの?」
「そなたは、落ちる」
「え~……断言しちゃうの?」
「断言するとも。落ちるから近づいてはいけない」
ヴィオラントの妙な自信に異議を唱えたい思いはあれど、それでせっかく勝ち取った発掘許可が撤回されてはハニマリアに申し訳ないので、スミレはしぶしぶ口を噤んだ。
その時は、まさか自分が彼のその自信を裏付けることになるとは、想像もしていなかった。
スミレはヴィオラントの言い付けを守り、穴掘りの様子を見に行きたいのを必死に我慢していたというのに、まさか穴の方から彼女に近づいてきていたとは。
発掘作業が始まって十日目の昼下がりに、スミレがその穴に落ちて足を挫くまで、誰にも分からなかった。
「お引き取りください」
ハニマリアに向かい合ったヴィオラントは、開口一番そう告げた。
彼の後ろのソファの上では、土で汚れた衣服を着替えたばかりのスミレが、レイスウェイク家の侍従長サリバンの手当を受けている。
靴を脱いだ足首が、赤く腫れているのが痛々しい。
「申し訳なかった。まさか、掘る方向がずれていたなんて……」
「言い訳は結構です」
作業着姿の祖母を前に、完全に表情を消し去ったヴィオラントの声は冷えきっている。
いっさいの弁解を許さぬという構えに、ハニマリアはやれやれとため息をついた。
発掘計画は完璧なはずだった。
ただし、作業員を三人まで絞られてしまったことで、肉体労働人員ばかりを連れてきてしまったのがそもそもまずかった。
陣頭指揮をとったハニマリアが、実は少々方向音痴だったのだ。
計画書を片手に指示を出す彼女に、何も知らない部下達は疑わずに従う。
進行方向は少しずつ少しずつずれ、穴はいつの間にか外壁を越えて敷地内――レイスウェイク家の庭園に到達していた。
そうとは知らないハニマリアは、その日はずっと後方で、これまで掘り出した鉱物やら化石やらを検分していた。
一方、穴を地表に貫通させた作業員達は驚いた。
明らかにミスをしたと悟った彼らは、慌ててハニマリアの元まで報告に戻ったが、その時穴に誰かが落ちぬように見張りをたてることまで頭が回らなかったのだ。
フリードの店にも立たず、ヴィオラントと出かける予定のない日のスミレは、厨房で厳つい料理長と一緒にお菓子を作るか、庭園で庭師のポムの手伝いをして過ごすことが多い。
この日は、後者だった。
ヴィオラントと一緒に昼餉をいただいてから、ポムと並んで庭の草をむしり、青虫達を木の棒の先で撃退し、それからトマトをたくさん収穫した。
完熟して真っ赤な姿は一見うまそうだが、実はこちらの世界のトマトは生食には向いていない。
それを知っているスミレは、籠一杯に山積みにしたそれを抱えて厨房に向かいながら、さて何を作ろうかと考え込んでいた。
ペンネに似た小麦加工品があるので、トマトソースにして絡めるのもいい。
それとも、大鍋でどっさり煮込んでミネストローネを作ろうか。
良質のチーズをコンラート土産にもらったので、ピザにしてもいいんじゃないか。
頭の中では赤い宝石を料理に変身させることに夢中だったスミレは、足元などまったく見ていなかった。
「――スミレ様っ! あっ、危ないっ……!!」
後ろからやってきたポムが穴に気づき、慌てて叫んだ時にはもう、彼女の片足は地面を踏んではいなかった。
次の瞬間、スミレは碌に悲鳴を上げる暇もなく穴に吸い込まれていった。
ポムが荷物を放り投げて真っ青な顔で駆け寄ると、ちょうど自分の背丈ほどの深さの穴の底で、彼女は赤いトマトの実と一緒にひっくり返っていた。
「だっ、誰か、来てくれぇー!!」
それを見たポムの悲鳴に、近くにいた使用人達が何ごとかとわらわら寄ってきた。
そして、見知らぬ穴の縁でパニックに陥っている庭師に首を傾げ、穴を覗き込んだとたんに全員悲鳴を上げて飛び上がった。
穴の底で、土と赤いものに塗れてベソをかいている女主人を発見したからだ。
もちろん、その赤は完熟したトマトが潰れたものだったが、スミレがそれと一緒に落ちたことを知らない者達には、彼女が血塗れに見えたことだろう。
すぐさま穴から助け出されたスミレは、落ちた拍子に右足を捻ったらしく、うまく歩けない。
近くの厨房から飛び出してきていた料理長は、これは一大事とばかりに彼女を抱え上げ、レイスウェイク家の侍医も務める侍従長サリバンを求めて、ドタドタと屋敷の中に駆け込んだ。
ちょうどその時、ヴィオラントはシュタイアー公爵ヒルディベルを私室でもてなしているところで、サリバンも彼らの側に控えていた。
「――スミレ!?」
「ぎゃあ、うちの娘がぁっ……!!」
料理長に担がれてきたスミレを見たヴィオラントは表情を凍り付かせ、彼女の養父であるヒルディベルは悲鳴を上げた。
なんといっても、彼らにとってかけがえのない宝物が小さな身体を土まみれにし、か細い足首を真っ赤に腫らしていたのだ。
さすがに、凄惨な時代を生き抜いたヴィオラントとヒルディベルには、スミレにくっついた赤いものが血でないことは一目で分かったが、こちらの世界のトマトには厄介な成分アリルプロピオンが多量に含まれていた。
それはスミレの世界の玉ねぎに含まれるのと同じ成分で、生玉ねぎを刻むと目にしみるように、汁が目に入ると涙が出る。
つまり、潰れたトマトの汁をどっさり浴びるはめになったスミレは、二人の目には盛大に泣きじゃくっているように見えた。
すぐさま騒ぎを聞きつけて飛んで来た女官長マーサが彼女に湯を浴びさせ、目を洗ってようやく涙は止まったが、スミレが着替えてほっと一息ついた頃には、ヴィオラントの機嫌はここ最近見ないほどの最悪の状態に達していた。
そんな時、事情を聞いたハニマリアが駆け付けてきた。
ソファに座らされたスミレからは、ハニマリアに向かい合ったヴィオラントの背中しか見えないが、それでも彼が強烈に怒りを迸らせているのがよく分かる。
彼の実の父親であるシュタイアー公爵が、「ヴィオラント君、マジで怖い!」と、最も安全圏たるスミレの側に避難してくるほどだ。
「これ以上の発掘を許すつもりはありません。開けた穴を塞ぎ、即刻引き上げてください」
そう告げたヴィオラントに、自分のミスでスミレに怪我を負わせてしまったハニマリアは、さすがに異議を唱えなかった。
彼女は「仕方がないね」と呟くと、ピリピリしている孫の横を通り抜け、足首に包帯を巻き終わったスミレの側までやってきた。
そして、その前にしゃがみ込むと、小さな足を労るように優しく撫でて謝った。
「すまなかったね、スミレ。全て私のミスだ」
「ううん、ハニーおばあちゃま。私もぼうっとして、足元見てなかったから……」
「いいや、私が悪い。打ち所が悪かったらたいへんなことになっていたんだ。本当に申し訳なかった」
ハニマリアはそう言ってプラチナブロンドの頭を下げると、突然胸元に片手を突っ込んだかと思ったら、そこから取り出したものをスミレの掌にぽんと乗せた。
「約束のもの。ちょうど質のいいのがコンラートとの国境付近で出たんだよ」
「でも……結局掘れなくなったのに……」
ハニマリアが手渡したのは、スミレの大きな瞳ほどのアメジストだった。色ももちろん、美しい紫色だ。
スミレは自分の不注意で、結局ハニマリアの願いが叶わなくなってしまったことから、それを受け取ることを躊躇した。
しかしハニマリアは優しく目を細めると、彼女の手にアメジストをしっかりと握らせて言った。
「いいんだよ、スミレ。そなたはちゃんと私のお願いをきいて、ヴィオラントを頷かせてくれたじゃないか」
そして、「あの子がおかんむりだから今日はさっさと帰るけど、またお見舞いにくるね」と耳元に囁くと、スミレの頬に親愛のキスを贈る。
背中に鋭い視線が突き刺さるのを感じながら、何食わぬ顔で立ち上がって振り向いたハニマリアは、隣ではらはら見守っていたシュタイアー公爵の首に腕を回すと、ぐいっと引っ張って歩き出した。
「悪かったね、ヴィオラント。それじゃ、今日のところはお暇するよ」
「あのお~、ハニマリア様。どうして私も?」
「これから反省会だよ、ヒルディベル君。そなたも一緒に来たまえ」
「ええ~!? 私はまったくの無関係なんですけども~……」
「いいから、来いっていうの」
有無を謂わさず引っ張るハニマリアに、シュタイアー公爵ヒルディベルは戸惑いながらもついていく。
彼は、ヴィオラントの生母マジェンタと恋人同士だった頃から、彼女の母親であるハニマリアには頭が上がらなかったのだ。
ヒルディベルは「ダディもまたお土産持ってお見舞いに来るから、大人しく養生するんだよ~」とスミレに言い置くと、そのままずるずると引き摺られて部屋を出ていった。
侍従長サリバンも手当の道具を片付けて立ち上がり、女官長マーサは飲みかけの紅茶が入ったカップを片付けて、実弟である料理長を追い立てた。
レイスウェイク家の使用人達は揃って部屋を辞し、残されたのはヴィオラントとスミレだけとなった。
「……ヴィー」
「……」
扉が閉まって二人っきりになると、ヴィオラントは肩が上下するほどの大きなため息をついた。
そして、かつかつと靴音を響かせてやってきたと思ったら、スミレの隣にそっと腰を下ろし、彼女を己の膝に横抱きにした。
小さな踵を掌で包み込み、白い包帯が巻かれた足首をそっと検分する彼の眉間には、くっきりと縦じわが。
それを見たスミレは、「またハニーおばあちゃまに掘らせてあげてよ」と言おうとしていた口を噤んだ。
今はまだ、それを言うべきではないと気づいたのだ。
「痛むか?」
そう、傷めた足首をそっとソファの上に下ろしたヴィオラントに問われ、スミレは「平気」と首を横に振った。
そして、今度はほっと安堵のため息をついた彼を見上げて言った。
「ヴィー、ごめんね」
スミレの眦は、先ほどトマトの辛味成分で盛大に涙を流したため、まだ赤味が残っている。
そんな泣き腫らしたような目の上目遣いに見つめられると、いまだ祖母に対する怒りを払拭できないでいたヴィオラントも、思わず目尻を緩めずにはいられなかった。
ヴィオラントは優しくスミレの黒髪を撫で、薔薇色の頬にそっと唇を押し当てると、声を柔らかくした。
「そなたは被害者だ。謝ることはなにもない」
「うん、でも、ヴィーに心配させたから……」
「だから、ごめんなさい」と、スミレはつぶやく。
それを聞いたヴィオラントは目を細め、しばらくしてからかすかに声を震わせて、「まったくだな」と答えた。
そして、彼女をいっそう強く懐にかき抱いたかと思ったら、柔らかな黒髪に鼻と口を押し付ける。
さらにはそのまま、くぐもった声でとんでもないことを告げた。
「私に心配ばかりかける悪い子は、怪我が治るまで部屋から出さん」
「げ」
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