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五臓六腑

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アロワナ

●少年と少女の不思議な出会いと、ゆるやかな心境の変化。

 コポコポと、空気が水の中を泡となって上っていく。
 巨大な水槽の中で優雅にヒレを動かすのは、南米アマゾン原産の淡水魚、銀色の鱗を持つシルバーアロワナ。
 その、何を考えているのか分からない大きな瞳はぎょろぎょろとしていて、どこか不気味だ。
 水槽が置かれている部屋は、水の中に空気を循環させるポンプの音以外はとても静かだった。
 しかし、誰もいないわけではない。
 壁際に設置された水槽の正面には大きなテーブルがあって、その上には試験管やビーカー、何やら薬品の入ったビン、それから何冊もの分厚い書物やファイルなど、様々な物が並んでいる。
 その前に、水槽と向かい合う形で椅子に座り、ここ一時間ほどノートパソコンに向かっている者がいた。
 黒い髪は前が少し長過ぎて、俯いているその者の顔を隠してしまっているが、若い男性であることは分かる。
 その身を包むのは真っ白い白衣であり、彼は研究者かそれに関わる学生であろうか。
 部屋自体も何かの実験室のようで、壁に所狭しと並べられた棚には大小様々なビンや書物が並べられており、何ともいえない独特の薬品の混ざり合った匂いがして、決して居心地が良さそうではない。
 彼自身も何かの実験の途中だったのか、その目の前に置かれた試験管立てには、中身の様相が微妙に違う試験管が三本ほど差し込まれていた。さらには彼の背後――水槽があるのと反対側の壁際にももう一つ大きな長テーブルがあって、そこに置かれたビーカーの液体が、ぷくぷくと気泡を吐き出している。
 しかし、最初は小さくわずかだった気泡が段々と大きくなり、やがてぶくぶくと下から沸き上がるように激しく変化し始めたのを、背中を向けて液晶画面に夢中になっている彼は気付かない。
 水槽のポンプの音が大きすぎて、音が紛れてしまったというのも原因だろう。
 だから、ついにはビーカーの中が噴き出すように暴れ出し、周囲に液体を飛び散らせていることにも気付けなかった。
 水槽の中を優雅に泳いでいたアロワナが何かを感じ取ったように、彼の背後にぎょろりとした目玉を向けたことなど、知る由もなかった。

 ――ドオオッ……!

「――!?」

 それは、突然の出来事だった。
 背後から襲いかかった爆風に、彼は成す術もなくテーブルに押し付けられて、目の前に並んでいた試験管らは全て吹き飛び、中の液体がテーブルの上や床に零れた。
 とっさに覆いかぶさる形になったので、彼の前のノートパソコンだけは吹き飛ばずに済み、その代わりに脇に置いていたファイルは盛大に舞い上がり、水槽にバサバサと当ってアロワナを驚かせた。

「……」

 爆風は、一瞬だった。
 中身を零した試験管が、テーブルの上をコロコロと転がる音にはっとして、それが床に落ちて割れる前に片手で受け止めた男は、呆然としたままようやく背後を振り返った。

「――っ!?」

 白衣姿の男の背後で、こっそりゆっくり化学反応を起していた化合物は、入っていたビーカーをバラバラにして見る影もない。
 背後のテーブルの上のものも全て吹っ飛び、足元の床に散乱していた。
 そして、それらの代わりに新たにテーブルの上に乗っかっていたのは……

「――った、イタタタ……」

 見知らぬ一人の少女だった。
 年の頃は、十歳前後であろうか。身に着けている衣服は何とも非日常的なドレスのようだが、ひどく煤けてその上あちこち破れている。
 しかし、男を驚かせたのは、そんな少女の容姿そのものだった。
 まず、小さな頭を包むのは、この日本では滅多に拝めぬであろう白銀の髪だ。長く緩く波打つそれは、衣服のように煤けることもなく男の目に眩しい。
 そして、「いてて」としかめられてさえ、尋常でなく整っていると分かる、幼き美貌。
 さらに、ようやく顔を上げた少女の瞳の色に、男は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

「目……紫……」
「あなたは、綺麗なブラウンね」

 そのアメジストのように美しい瞳の色に、一瞬見入った男に向かって、少女はいやに落ち着いた口調でそう返した。

 男の名は桜田拓真という。
 現在十三歳の彼は、まだあどけなささえ残す、いわゆる天才少年だった。
 日本人の両親はともに米国の有名大学の教授を務め、彼らの熱心な早期教育により類い稀なる知能を開花させた拓真は、十一歳で米国の大学医学部に入学を果たす。
 エリート志向の両親はそれに喜び、次は早々と博士号を目指せと意気込んだが、その期待はやがて重圧となって彼を蝕み始めた。
 拓真は、自分は生まれながらの天才ではないと知っている。
 幼い頃から勉学に励み、それがよい結果を出すととても両親が喜んでくれるのが嬉しくて、普段は忙しい彼らに褒めてもらいたくて必死で頑張ってきたのだ。
 しかし、努力を重ねて何度も学年を飛び級し、ついに大学入学を果たしてほっとしてみれば、今度は博士号。
 果ての見えない両親の期待と、いつからか優秀であって当然だというような周囲の視線に、拓真は次第に疲れていった。
 疲れは大きなストレスとなり、少年の身体をも容赦なく蝕んだ。
 微熱が続いて頭が重く、せっかく二年生に進級した大学にも通えなくなり、両親の期待に応えられない自分を彼は責めた。
 後ろめたさに碌に彼らと会話することもなくなり、自室に引きこもるようになった息子を見兼ねた両親は、彼を休学させて祖国である日本で一時療養させることにした。
 それは当初、拓真にとって両親に見放されたようで辛く、彼は今はまだ失意の中にいた。

 そんな彼の前に突然現れた見知らぬ少女。
 いまだ状況を把握することもできず、ただただ唖然と自分を見つめる拓真に対し、当の少女はそれほど慌てた様子もない。
 テーブルの上にちょこんと座ったまま自分の身体を見下ろして、ぼろぼろになってしまった衣服に「あーあ……」とため息をつくと、ぴょんとそこから飛び降りて、わずかの躊躇もなく拓真に近寄ってきた。
 思わず後ずさったものの、今の今まで自分が向かっていた机に阻まれそれ以上の逃げ場を失った彼を、少女はじっと見上げたかと思うと、やれやれと大人びた様子でため息をついた。

「ねえ、ちょっと。レディがこんな哀れな格好だっていうのに、上着の一つも貸さないつもり?」
「――なっ……」
「それ貸してよ、白いやつ」
「……」

 そう言ってぐいっと白衣の裾を引っ張られ、思い掛けない少女の迫力に呆然としたまま、拓真はついつい大人しく従ってしまう。Tシャツとジーンズの上に羽織っただけだった白衣を慌てて脱ぐと、それを彼女に差し出していた。少女は偉そうに「うむ」と頷いてそれを受け取り、袖を通して満足そうな顔をした。
 そこでようやく、いくらか冷静さを取り戻し始めた拓真は、目の前に立った少女をまじまじと見た。
 やはり、びっくりするほど整った容姿。髪と瞳の色からして、外国人かハーフだろう。
 百六十センチに少し満たない拓真より、頭一つ分ほど小さな背丈に、白衣はいささか不釣り合いだ。
 そんな少女はふと拓真の背後に視線をやったかと思うと、「きゃっ!」と悲鳴を上げて彼の身体の影に隠れた。
 拓真も何ごとかと背後を振り返ってみたが、そこには大きな水槽があるだけ。
 中ではアロワナが、少女の髪色にも似た銀色の身体を翻し、優雅に方向転換したところだった。

「なに……なにあれ、オバケ? 怪獣?」
「何って……ただの魚だけど……」

 大きな水槽が必要だから、そうそう普通の家庭で飼われることはないが、アロワナ自体はそれほど珍しい種類の魚ではない。しかし、どうやらこの少女は今初めてそれを見たようで、おそるおそる拓真の脇から顔を覗かせ、「でっかい」「こわい顔」と戸惑った様子で感想を述べた。
 拓真にしてみれば、突然現れたこの少女の方にこそ戸惑うというものだ。

「お……お前、何なんだ? 一体どこから来たんだ?」
「お前じゃなくて、葵」
「アオイ?」
「うん、そう。徳川さんちの御紋の“葵”だよ。あなたの名前は?」

 米国で生まれ育った拓真は、彼女の言う「トクガワさんちのゴモン」をすぐに漢字変換しにくかったが、両親には日本語も日本文化もきちんと習得させられていたので、何とか理解することができた。
 名を問われ、答えるべきかどうか一瞬彼が躊躇していると、突然部屋の扉がドンドンと叩かれた。
 
「拓真君っ!? すごい音したけど、大丈夫なのっ!?」
 
 扉の向こうからは、若い女性の心配そうな声が聞こえた。
 この部屋は、拓真の叔母が用意してくれた彼専用の実験室だ。
 父の一番下の妹である桜田暢子は、最近めっきり足腰の弱くなった祖母の面倒を見ながら、自宅で料理教室を開いている。
 拓真の父を含め、兄が二人と姉が一人いるが、彼らは皆海外でそれぞれ活躍するエリートばかり。
 暢子だけはそれほど成績が奮わなかったらしく「私だけ落ちこぼれで、やんなっちゃうわ」と、いつも冗談めかして話すが、子供の頃は出来のいい兄や姉達と比べられて嫌な思いもしたようだ。
 彼女は長兄である拓真の父とは大きく年が離れていて、現在二十五歳。叔母というより、年の離れた姉のような印象だ。
 料理教室を営むだけあって彼女の手料理は非常に美味く、米国育ちであまり馴染みのなかった拓真を、和食の虜にしたほどだ。
 暢子はいつも優しく穏やかに拓真に接し、彼の望むように毎日を過ごさせてくれる。
 その気遣いがありがたい反面、複雑な思春期の挫折に傷ついた彼は、いまだそんな叔母に完全に心を開けないままでいた。ついつい、つっけんどんな態度をとってしまい、後で必ず後悔するのだ。
 そんな暢子も拓真が薬品を取り扱う時はひどく心配し、怪我をしないようにと耳にタコができるほど言ってくる。今日もそれに生返事を返して、碌に彼女の顔も見ないままこの実験室にこもっていたのだが、先ほど起こった爆発の音は外まで聞こえていたようだ。
 普段は一切暢子を実験室に入れない拓真もこの状況に困惑し切っていて、無意識に今一番身近な身内の彼女に助けを求めた。
 がちゃりと内側から鍵を開けると、真っ青な顔をした暢子が飛び込んできて、無傷な拓真の様子を確かめてようやくほっと安堵のため息をついた。
 しかし、拓真から視線を外して部屋の中に移したとたん、彼女の両目がこれでもかと大きく見開かれる。
 爆風にさらされて、床中に割れたビーカーや薬品が散乱し、その発端と思われる壁際は火でも舐めたように黒く煤けている。
 しかも、拓真の前には身の丈に合わぬ彼の白衣を羽織り、頬を煤で汚した見知らぬ異国風の少女。
 驚くなというのが無理な話だ。
 ところが、途方に暮れる拓真をよそに、暢子の瞳はとたんにきらきらと輝き出した。

「きゃあ! なんって可愛い子なの! お人形さんみたいっ!!」
「……え?」
「いやだわ、拓真君ったらみずくさい。こんな可愛い彼女、どうしてもっと早く叔母さんに紹介してくれなかったの?」
「か……彼女!?」

 拓真は今度は銀髪の少女ではなく、自分の叔母にぽかんとさせられる。
 この実験室の惨状と少女の出立ちを見て、どうしてそんなにのん気な解釈になるのだ。
 そもそも、拓真が日本に来て三ヶ月ほど経つが、彼が一人で外出することも、両親以外の人間が訪ねてくることもなかったのに、どうやって恋人なんかを連れ込むことができるというのだ。
 しかし、わけが分からないと口を引きつらせる甥っ子に構わず、葵と名乗った少女に近づいた暢子は、そこで再びはっと顔を強張らせた。

「まあ! 何があったの、その格好! ――まさか、拓真君の実験の失敗に巻き込まれたのっ……!?」
「ちょっ……よーこさん……」
「あああ、なんてことっ! 怪我は? まあまあ、素敵なドレスが台無しだわっ!」
「……」

 少女の頬の煤を己の袖でそっと拭い、彼女に怪我がないことを確認してほっとした暢子は、白衣の下でぼろぼろになったドレスに眉を八の字にした。
 そして、ぽかんとしたままの拓真に、「拓真君も……怪我はないわね。じゃあ、お部屋自分で片付けてね」と言い置くと、葵をどこかへ連れていってしまった。
 あまりの展開に追いつけず数秒フリーズしていた拓真だったが、その後何とか立ち直って、腑に落ちないものを感じつつもとりあえずゴム手袋をはめて床を掃除し始めた。
 そうして、何とか一通り片付けを終えると、あの少女と暢子がどうしているのか気になって、リビングの方に足を向けた。
 拓真がリビングに顔を出すと、ちょうど暢子がソファに座った少女にお茶の入ったグラスを手渡しているところだった。

「ああ、拓真君ご苦労様。部屋は綺麗になった?」
「……うん」
「そう。じゃあ、一緒におやつにしましょ。葵ちゃん、大福って知ってる?」
「うん、好き」

 暢子と葵はこの短い時間ですっかり打ち解けたようで、気安い様子で会話をしている。
 拓真は女子達の順応性の高さにおののきながら、葵が座っているソファの方に寄っていった。
 彼女はすでに、拓真が貸した白衣もボロボロになったドレスも脱いで、可愛らしいワンピースに着替えていた。

「ちょうどいい服があってよかったわ。よく似合ってるでしょ?」
「タク、可愛い?」
「……」

 拓真の父の妹には、ちょうど葵と同じ年頃の娘がいる。つまり拓真にとっての従妹は、長期の休みにはこの家に泊まりにくるらしく、暢子は彼女の着替えを何着か用意していたのだ。ただし、従妹は最近女ながらに少年野球チームに入り、髪を男の子のように随分短くしてしまって、服装もボーイッシュなものを好むようになっていた。だから、暢子が用意してやったような可愛らしいワンピースはここ最近敬遠されて、ずっとタンスの奥に仕舞われたままであったが、思いがけず活躍の機会を得たものだ。
 暢子が整えてやったのか、葵は長い銀髪をツインテールにリボンで結び、サーモンピンクのパフスリーブワンピースもよく似合う。靴は元々履いていたものが無傷だったらしい。玄関に置いてきたそれの代わりに、今彼女の小さな足を包むのは、お客様用のスリッパだった。
 いや、そんなことよりも。
 拓真はむすりと顔をしかめて、少女を睨んだ。

「タクって、何だよ。馴れ馴れしい」
「だってあなた、拓真って名前なんでしょ。だから、タク」

 けろりと答えた葵は、納得いかない拓真が呼び名の訂正を要求しても、聞き入れる様子もなければ、自分のことは「葵様と呼べ」と言い出す始末。
 いい加減馬鹿らしくなった拓真がそれ以上言うのを諦めてソファに座ると、お盆を持った暢子がうふふと笑いながら彼の前にもお茶を置いてくれた。
 さらに、テーブルの上に大福が載った皿を置くと、とたんに葵の目がきらきらと輝き出した。
 本当に好きなようだ、大福が。
 暢子が「どうぞ」と微笑むと、頬を薔薇色に染めて嬉しそうに「ありがとう!」と答え、それから小さな両手を顔の前で合わせて「いただきます」と告げた。外国人風な容姿に関わらず、日本人の習慣が身に染み付いている。
 葵は日本で生まれ育ったのだろうかと思いつつ、拓真も差し出された大福を頬張った。うまい。
 よもぎ入りのと白餅のと、それぞれ一つずつ食べればすぐに満腹になった。それは彼の向かいに座った葵も同じようで、二つ食べ終わると今度は「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせた。
 そうして、お茶を飲んで一つため息をつくと、急に改まった様子で暢子と拓真に向き直った。

「あのね、電話をかけさせてもらってもいいですか?」
「まあ、もちろんよ。おうちの方に電話するの?」
「ええっと、こっちには伯父様のおうちがあるから、そこに。黙って来ちゃったから、父様に知れる前に連絡しないと後で叱られるから」
「それは心配なさるわね。どうぞどうぞ、早くかけて差し上げて」

 話を聞いた暢子は、急いでリビングの脇から電話の子機を持ってきた。
 葵はしばし子機を不思議そうに眺め、少し戸惑った様子ながらもゆっくりと番号を押した。
 相手は、すぐに電話に出たようだ。

「――あ、もしもし、伯母様? こんにちは、葵です」
 
 向こうはどうやら彼女の伯母らしいが、子機から漏れ聞こえる声は小さく、何を話しているのか拓真には分からない。

「うんちょっと、飛ばされちゃったみたいで、今日本にいるの。――うん、うん、大丈夫、道聞いて今からそっちに向かうね。住所聞いたら同じ県だったから、きっとそれほどかからないよ」

 葵は“飛ばさちゃった”と言うが、結局のところどうやってあの部屋に現れたのだろう。
 拓真が掃除をしつつ検分した煤けた壁には穴などなく、部屋自体は一階だったが窓も施錠されたままだったので、一体どうやって彼女がやってきたのかいまだに分からない。

「父様知らないの。伯母様、うまく誤魔化してくれない? ――え? 無理? じゃあ、すぐ帰るから怒らないでって母様に言ってもらって」

 どうやら、葵は父親が怖いようだ。そして、その父親は彼女の母親には弱いらしい。
 しきりに、母親を味方につけて自分の弁明をするように頼みこむと、「じゃあ、後で」と告げて彼女は電話を切った。

「葵ちゃんの伯父様と伯母様は、日本の方なの?」
「うん、母様が日本人なの。伯父様はそのお兄様。N市に住んでるんだ」
「まあ、じゃあうちから電車で三駅ほどね」
「そんなに近かったんだ。……あの、実はお財布も持たずに来ちゃったんで、電車代がないの。必ずお返しするので、少し貸してもらえませんか」
「もちろんよ。でも、今からすぐに帰るつもり? 夜になってもよければ、車で送ってあげられるのだけれど……」

 暢子はこの日は料理教室のレッスンなのだ。夕方には終わるのだが、葵はそれまで待てないらしい。

「電車は従兄弟達と何回か乗ったことあるの。大丈夫」
「でも、心配だわ。――あ、そうだ!」

 葵は自信ありげに平たい胸を張るが、暢子はやはり幼げな彼女を一人で帰すことが不安なようだ。
 しかし、傍らでお茶を飲む拓真を見ると、とたんにぱああっと顔を輝かせた。
 
「拓真君、もちろん送ってあげるわよね!」
「は?」
「だって、彼氏だもの。そのくらい、当然よね!」
「――って、彼氏なんかじゃ……」
「葵ちゃんはまだ小さいし、こんなに可愛いのよ? 誰かに誘拐でもされたらって心配じゃない!」

 暢子の中ではもう、拓真と葵の関係に対する誤解――二人は恋人同士であるという認識が、不動の地位を築いてしまったらしい。
 いくら拓真が「ちがう、さっき会ったばかりの初対面だ」と訴えても、「もう、拓真君ったら照れ屋さんっ!」と笑って取り合わない。
 そうして拓真の意思など入り込む隙も与えぬ素早さで、暢子は彼の外出の用意を整え、財布から抜いた千円札を五枚数えて差し出してきた。

「電車代と、せっかくだから、二人でお茶くらいしていきなさい。デートよ、デート!」
「……そんなにいらないよ」

 その頃には、もう拓真もいろいろと諦めた。
 確かに、近くの町とはいえ、まだ小学生ほどの葵を一人きりで帰すのは気がひける。
 最近は物騒な事件が多いから、彼女のように目立つ容姿はリスクも大きいだろう。
 ただ拓真にとって、桜田家から外出することは大きな勇気がいることでもあった。

「暢子さん、ありがとう。大福ごちそうさま。すごくおいしかった」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。またいつでも遊びに来てね、葵ちゃん」

 季節はちょうど、夏から秋に移ろう頃。
 昼間は残暑で肌が汗ばむが、朝夕はいくらか冷えるようになってきた。
 時刻は、午後三時半を回ったところ。
 門まで見送った暢子と、葵はにこやかに別れに挨拶を交わすと、すでに歩き始めていた拓真に小走りに追いついて、その隣に並んだ。そして、その手元を覗き込んで、不思議そうな顔をした。

「それ、スマホってやつでしょ? そんなのばっかり見てないで、前見て歩かないと転ぶよ? タク」
「……転ばない。それに、タクじゃなくて、拓真」
「うん、タクちゃん」
「……タクでいい」

 葵にしろ暢子にしろ、女っていうのはなんだって人の話を聞かないんだろうか。
 呼び名についてまったく譲歩する気がないらしい少女に、拓真は大きく諦めのため息をついた。
 そんな彼の、スマートフォンを持っていない方の手に、突然柔らかな物が絡んだ。
 ビクリとして彼が見下ろすと、それは葵の手だった。彼女は拓真と手を繋いだのだ。
 それは、弟妹の手を引いたこともない一人っ子の拓真には初めての感触で、あまりの柔らかさと温かさにドキリとした。しかし同時に、平気な風を装っていても、葵もいろいろと不安だったのではないかと感じ、彼はその手を振り払うことができなかった。

 駅までの道を、ナビで検索する。そう遠くはない。
 しかし、拓真は日本にやってきて三ヶ月、実はほとんど外出したことがない。
 しかも、たまに暢子に買い物に連れ出された時も、いつも彼女の運転する車の助手席に座っているだけで、自分の足でどこかに向かうのは初めてだったりする。
 そんな彼は、ナビに案内されて何とか辿り着いた最寄り駅で、大きな問題に直面することになった。

「タク、電車の切符って、どうやって買うの?」
「……」

 拓真は、日本で電車に乗ったことが、まだ一度もなかったのだ。
 当然、自分で切符を買ったこともない。何とか券売機の前には辿り着いたが、目的地までいくらかかるのか、どのボタンを押せばいいのか、まったく分からなかった。
 いや、おそらく冷静に券売機に向かい合えば、それほど難しいことではないのだが、切符もスマートに買えない自分はなんて格好悪いんだと愕然とし、彼は軽くパニックに陥っていた。
 券売機の前で固まってしまった拓真に、葵は一つ「ふむ」と頷くと、彼の財布から千円冊を一枚拝借し、改札の窓口へと向かった。そして、中にいた駅員に「すみません、N駅までの切符の買い方を教えてください」と丁寧に頼んだ。
 壮年の駅員はすぐさま窓口から出てきて、とても丁寧な様子で切符の買い方を葵に教えてくれた。
 
「お嬢ちゃんは、お年はいくつかな。小学生だよね」
「はい、十歳です。大人と子供では、料金が違うんですか?」
「そうだよ。中学生までは、大人の半額の子供料金で結構です。――それで、ひとりで乗るの?」

 駅員にそう尋ねられた葵が、ふと拓真に視線を向けた。駅員もそれに倣って彼を見る。
 とたんに、明らかに少女より年上の連れが切符も買えないのかと、駅員の眼差しに軽蔑が混ざるのを恐れた拓真は、それを見たくなくて俯いた。しかし、新たに響いた葵の声に、彼ははっとした。

「従兄弟のお兄ちゃんと一緒。私、日本に来たばっかりで電車に一人で乗ったこともないの。それでお兄ちゃんが、困った時には自分から大人に助けてって言えるように、切符の買い方も自分で駅員さんに教えてもらいなさいって」
「そうか、それは偉かったね。従兄君も、しっかりしている」

 葵の言葉を疑うこともない駅員はにこにこして、きちんと自分で切符を買えた彼女を褒め、拓真に向かって笑顔で会釈すると、改札口の方に戻っていった。

「タク、おいで。一緒にタクの分の切符買おう」
 
 駅員が遠ざかると、葵はそう言って拓真を券売機に誘った。幸い、他に切符を買う客は周りにいない。
 拓真は戸惑いながらも彼女の隣に並び、もう一度券売機に向かい合った。
 十歳の葵は子供料金だが、十二歳以上中学生以上は大人の料金になる。
 拓真は十三歳で、一応米国では大学生なので、間違いなく大人料金が必要だろう。
 そんなことも、よくよく見ればちゃんと説明がされてある。
 拓真は年下の女の子に見守られるなんて恥ずかしいと思いながらも、初めて切符を買うことができてほっとした。
 連れだって改札口に向かうと、先ほどの駅員が窓口から顔を出して、「N駅を通る電車は三番ホームだよ。発車まで後十分ほどあるから、急がなくても大丈夫だよ」と教えてくれた。
 葵はそれに笑顔で「ありがとうございます」と返し、拓真も慌てて駅員に軽く頭を下げると、彼は二人を優しい笑顔で見送ってくれた。
 そうして無事改札口に切符を通し、ホームへと歩き出した葵の手が、再び拓真の手に絡んでくる。
 今度は、彼もそれをしっかりと握り直した。
 三番ホームに着くと、電車はすでに待機していた。ここは比較的大きな駅で、N駅を通る電車はこの駅発のものも何本かあった。拓真と葵はもう一度その電車が目的の駅を通るか確認し、ようやく座席に座った。
 時間は午後四時前。帰宅する高校生の姿が多かったが、席はまだ充分に空いていた。
 二人がけのクロスシートに並んで座る。「外を見たい」と葵が窓側を陣取った。
 発車まではあと五分ほど。たった三駅の電車の旅だ。拓真は知れず大きくため息をついた。

「タク、疲れた? ごめんね、付き合わせちゃって」
「……今さらだよ」
「うん。帰り道、タクは一人で大丈夫?」
「……っ」

 葵の言葉に、拓真は不甲斐ない自分を思い出し、馬鹿にされたのかと思って悔しくなった。
 しかし、思わず睨みつけた相手は、幼い顔にいやに真剣な表情を浮かべていた。

「あのね、タク。誰だって、初めてのことは分からないよ。分からなかったら、聞けばいいんだ。何にも恥ずかしいことじゃないよ」
「……」
「それで、教えてもらったら、ありがとうって言えばいいんだ。そしたら、教えた方もいい気分になるよ。中には意地悪な人もいるかもしれないけど、そんなの怖がってちゃいつまでたっても何も分からないよ」

 拓真は自分の心の中を、こんな小さな女の子に見透かされてしまって恥ずかしかった。
 けれど少しだけ、今度何か分からないことがあったら、黙っていないで誰かに助けを求めてみようかなと思った。
 しばらくすると、電車は満員になった。それを待っていたかのように、車掌が発車のアナウンスをし、ベルが鳴って扉が閉まる。ガタタンと、ゆっくりと動き始めた電車の振動が、なぜか拓真には心地よく感じられた。
 電車は徐々にスピードを上げ、窓の景色の流れる速度も速くなった。
 葵はずっとそれに夢中だ。
 拓真が横を向いても、銀髪を二つに分けた彼女の後ろ頭しか見えない。
 その、日本で滅多にお目にかかれない色合いの髪や完璧に整った容姿に、駅までの道中もホームでも、そして電車に乗っている今現在も、そこかしこから好奇の視線が集まってくる。
 何となく、それに彼女を晒すのが気に入らなくて、拓真は自分がTシャツの上に羽織っていた薄手の半袖パーカーを脱ぐと、それを無言で隣の少女に着せた。
 びっくりした彼女が振り返るが、「やけに冷房が効いてるから、着とけ」と言って、有無を言わさずフードも被せてしまう。大きな紫の瞳が不思議そうにぱちくりと瞬き、フードと切り揃えられた前髪の下から見上げてきた。それがどうにもとんでもなく可愛らしく見えて、拓真は赤らんだ頬を隠すようにそっぽを向いた。
 やがて、電車は目的のN駅に到着した。
 もう当たり前のように手を繋いだ二人は、先ほどの駅よりも少しこじんまりとした改札を抜け、駅の建物から出た。
 葵から聞いた伯父の家は、この駅から少し距離があるらしい。
 駅から伯父宅までの道順は憶えていないと言う彼女に、一人で一体どうやって帰るつもりだったんだと、拓真は呆れた。
 再びスマートフォンで検索すると、徒歩ではおおよそ三十分ほどかかるようだ。
 手元に視線を落としながら、とにかく向かおうかと足を踏み出そうとした拓真に、その時横から思わぬ意見が打つけられた。

「あのさ。タクって、そのちっちゃな機械がないと、道が歩けないの?」
「……なっ……」
「それ、何? 地図? 地図ってもっとこうバーンと、大きいものじゃないの? そんな小さいと、足元しか見えないじゃない」
「……」
「道は大きく先に広がってるんだよ。ちまちました画面見てないで、もっと大きく世界を見てみれば?」

 拓真は、カチンときた。
 葵にそんなつもりはないかもしれないが、スマートフォンがないと何もできないのかと笑われたような気がしたのだ。
 とたんに、ものすごく悔しい思いがわき上がってきて、拓真はナビの接続を切るとそれをジーンズのポケットに突っ込んだ。
 けれど、まったく土地勘のない場所で、根性だけで葵の伯父宅に辿り着けるわけはない。
 それは冷静に判断できた彼は、葵の手を引いたまま近くに見えたコンビニに飛び込むと、地図を一つ買った。
 あまり詳しいものではないが、何とか小さく目的地周辺の住所は載っている。
 拓真は店を出ると、ついでに買ったミニ缶の微糖コーヒーをぐびっと一気飲みし、缶をゴミ箱に捨てて大きく息をつく。そして、ちびちびミルクティーを飲み始めた葵の手を握って足を踏み出した。
 慣れない紙面の地図は分かりにくい。
 それに、ネットのそれに比べると実に不親切だ。
 けれど、それが意外に楽しかった。
 どうにも曲がる場所が分かりにくくて困っていると、通りがかったおじさんが道を教えてくれた。
 地図を持ってきょろきょろしていれば、道が分からなくて困っているのだという無言のアピールにもなる。
 スマートフォンでは、そうはいかなかったかもしれない。
 丁寧に道を教えてくれた相手に、拓真は先ほどの葵の言葉を思い出し、少し照れながらも「ありがとうございます」と言ってみた。すると、おじさんは嬉しそうに笑って、「気をつけていきな」と見送ってくれた。

 やがて二人は、目的地の地名が書かれた住宅街にまで辿り着いた。
 葵の伯父宅まで、もうそうかからないだろう。

 ――もうすぐ、お別れ

 そう思った拓真を言い表せぬ寂しさが襲い、それを誤魔化そうとするように、彼はずっと気になっていたことを葵に尋ねた。

「葵は、本当はどこから来た? どうやって、僕の実験室に入ってきたんだ?」

 すると、葵は彼を見上げて少し考えるような素振りをした。ちなみに、ミルクティーはまだ半分ほど残っている。

「扉からでも窓からでもない。急に現れたよな? 僕は、本当のことが知りたい」
「……あのね、私は違う世界から来たの」
「いや、葵が日本人か外国人かってことじゃなくて」
「この世界とは、まったく違う世界からきたの」
「――は?」
「異世界っていうの? 私の世界とタクの世界は隣り合ってるんだけど、いつもはお互いのことを知らないの。でも、時々偶然が重なって、それが一瞬だけ繋がる時があるんだ」
「……」

 さらに詳しく聞いた彼女の話を要約すると……
 まず、葵は地球上のどの国とも違う、異世界で生まれた人間なのだという。
 そして、二つの世界は常に並行して存在しているが、互いに不可視な壁によって隔てられていて、干渉し合うことはない。
 ただし、その壁は熱の影響を受け、双方から同じ場所に同時に炎を押しあてると、その部分だけ穴が開き、世界は一時的に繋がるのだという。

「なんだそれ。そんな……異世界とか、ただの妄想だろ? 実際にあるわけないじゃないか……」
「この世に、何があって何がないかなんて、どうしてタクに言い切れるの?」
「だって……そんな……」
「何もおかしいことじゃないよ。タクは今まで私の世界を見たことがなかった。初めてだから驚くし、嘘だと思う。でも、あるものは、あるんだよ」

 拓真が理解できないというように眉をひそめると、葵はさらに続けた。

「タクはさ、何か研究しているんでしょ? 実験室の中の道具とかすごかったし、暢子さんはタクは天才少年だって言ってた」
「……天才なんかじゃない。必死で上に上ろうと頑張ってきただけだ」
「うん。で、タクが何の研究してるのかは分かんないけど、研究するってことは新しいことを探し出すってことでしょ?」
「……」
「探し出して見つけた新しいことを、本当のことだって証明するために、研究ってするんじゃないの?」
 
 例えば、地球が丸いなんて昔の人間は知らなかった。それを真っ先に唱えた人は、嘘つきだの頭がおかしいだの言われて笑われて、あげくの果てには投獄までされた。
 けれど、それは事実だった。
 宇宙にロケットを飛ばすなんてことも、最初は皆夢物語だと笑ったが、そのうち可能になった。
 人間には、きっとまだまだ知らないこと、気付いていないことがたくさんあって、いつか事実に気付くかもしれないし、一生知らないままかもしれない。
 何かを研究するということは、その未知で無知な部分に自ら積極的に切り込んでいくということだ。
 だから、拓真のように研究をしようという者が、既存の事実だけにとらわれて、未知なるものを否定してはいけない。
 葵は、たぶんそう、彼に言いたいのだろう。

「……」

 拓真は、返す言葉がなかった。
 愕然とし、しかし同時にそれまでの自分を振り返った。
 自分は今まで何のために勉学に励み、飛び級までして大学を目指したのか。
 両親を喜ばせたかったというのも理由の一つだが、本当はそれだけではない。
 拓真は、やはり自分は生まれながらの天才ではないと思う。けれど、勉強することが好きだった。
 医学部に進学することを決めたのも、両親ではなく拓真自身だ。
 誰かを助けるために医者になりたいとか、有名になりたいとか、そんなことを望んだわけではない。
 ただ、興味が向いたのが医学の分野であって、それが彼を突き動かして大きな成果を生んだから、結果的に医学部に入学するに達しただけだ。
 晴れて大学生となった彼の意欲は、医学だけでなく薬学やその他の分野にも向き始め、その時拓真はきっととてもわくわくしていただろう。
 けれど、そんな時に両親がぽんと投げて寄越した“博士号”という名の付いた楔が、拓真の足元に突き刺さった。
 彼は、まだ幼い。うまく自分をコントロールすることも、自分の道を決めることもまだ拙い。
 両親はただ浮かれて、それに気付けなかっただけなのかもしれない。
 ただ、それが無意識の内に拓真を傷付け、結果的に何をしたいのか分からなくしてしまった。
 とたん、彼の原動力となっていた意欲は減少し、一方で周囲の期待に応えなければという焦りは強くなり、心身のバランスが大きく崩れることとなったのだ。
 けれど、療養するために日本にやってきて、拓真は段々と落ち着きを取り戻し始めた。
 大らかな叔母の暢子は、いつも穏やかに拓真を見守り、ゆっくりと考える時間を与えてくれた。
 なかなか素直になれないが、彼女にはとても感謝しているし、彼女を通して両親に対する認識も改まった。
 半月に一度やってきて、ほぼ毎晩国際電話をかけてくる両親は、自分達の期待が息子を押し潰してしまったのだと気づき、ひどく悔やんでいた。だから、いつになったら大学に戻るのかと問うことはなかった。
 それどころか、拓真が違う道に進みたいなら退学してもいいとまで言う。
 拓真はその問いに、まだ何も答えることができないでいたが、本当はもう答えは決まっていた。
 けれど、一度挫折を味わった彼は臆病になっていて、その答え――自分の望みに向き合うことを恐れていたのだ。
 葵の揺るぎなき自信を携えた言動は、そんな拓真を叱咤するものだった。

「私だってね、今日初めてのもの見たよ? あの、オバケみたいな魚!」
「……アロワナのことか?」
「そんな名前なの? あんな怖い顔の大きい魚、見たことなかった。絵本にだって載ってなかったもん!」
「……そんなに珍しい魚じゃないよ。日本のじゃないけど、結構いろんな所で飼われてる」
「そう、つまりそういうこと。私は知らなかったけど、タクにとっては当たり前のことっていうのがあって、その逆も当然あるんだ」
「……なんとなく、分かってきた」

 空はまだ明るいが、太陽はもう随分と西の空に傾いてしまっている。
 拓真は立ち止まって、頭一つ分小さい葵を見下ろした。
 彼女も、拓真をじっと見上げてくる。
 フードの下から見え隠れする銀髪と、大きな宝石のような美しい紫色の瞳は、葵をひどく神秘的な存在に見せ、異世界からきたと言われれば、なるほどと思わず頷いてしまいそうになる。
 けれど、もうずっと繋いでいる手は温かく、その奥には拓真と同じように血が通っている。
 それは、触れてみなければ分からないものだった。
 切符の買い方も、大人に助けてもらう方法も、自分で地図を見て目的地を探す楽しさも、拓真は今まで知らなかった。
 親切にしてもらった人にお礼を言うと、相手が嬉しそうな顔をしてくれることも、知らなかった。
 勉強ばかりだった拓真の今までの世界はとても狭くて、彼は何も知らなかった。
 自分の無知を受け入れることは怖かった。
 けれど今、拓真は葵の生まれ育った世界に対して無知だった自分を受け入れた。
 すると、どこか頑なだった心がするりとほどけて、無知に対する恐れが好奇心へと変化していった。
 葵の世界はどんな所なのだろう。
 異世界なんて話を、帰って暢子にしたら信じてくれるだろうか。ああ、きっと彼女なら、笑って「素敵!」と言いそうだ。
 両親はどうだろう。驚くだろうか。
 大学で少しだけできた年上の友達は、目を丸くするかな。信じられないって、オーバーな仕草をして叫ぶに違いない。
 葵をきっかけに、拓真の気持ちはどんどんどんどん、大きく外に向かって膨らみ始めた。
 ずっと俯き加減だった顔を上げ、その瞳に少年らしい輝きが蘇った。
 拓真はわき上がった好奇心をとどめることなく、まっすぐに葵に打つけてみた。

「葵に何があったんだ? どうして、こっちの世界に飛ばされるようなことになった?」
「あの時、上の叔父様んちの裏山にいたの。そこには古い坑道があるんだけど、入っちゃダメだって言い付けを破って潜っちゃったんだよね」
「あんな、ドレス姿で?」
「だって……かくれんぼ、従兄弟たちに絶対負けたくなかったんだもん。そしたら、急に中で何かが爆発したんだ」
「……坑道なら、発破のための火薬かな。不発のままだったのが残ってたのか……よく無傷だったな」
「うん、同時に拓真の実験室でも何か爆発があったでしょ? 私の方のが激しかったから、爆風でこっちに飛ばされたんだよ」
「……」
「おかげで命拾いした」
「お前さ……お父さんに一度しっかり怒られたほうがいい」

 どうやらかなり危うい状況にあったらしいのに、葵は相変わらずのん気な口調。
 拓真はそれに呆れる反面、彼女が無事で本当によかったと思った。

 やがて、閑静な住宅街に建つ一軒の家の前で、二人は立ち止まった。

「タク、ここ」
「……野咲?」
「うん、伯父様んち。母様の実家」
「……本当に、葵は半分日本人なのな」

 玄関のチャイムを鳴らすと、「はーい」と間延びした、葵に負けず劣らずのん気な声が聞こえてきた。
 そして、扉を開けて顔を出した葵の伯母は、並んで立っていた少年少女を見たとたん、暢子同様笑顔を浮かべて「あらあ、葵ちゃんったら、ボーイフレンド!?」と、はしゃいだ。

 そのまま有無を言わさず家の中に引っ張り込まれた拓真は、その後未知なる世界に遭遇し、受け入れる。

 葵は、無事両親の元に戻った。
 そして拓真の目の前で、同じ色の髪と瞳の父親にこっぴどく叱られた。
 彼女の母親は、確かに日本人らしい黒髪だったが、瞳の色は葵と同じだった。母親も当然彼女を心配していたので、娘を叱る夫をとめようとはしなかった。
 暢子には、野咲家の電話を借りて無事到着したことを伝えた。
 ジーンズのポケットにスマートフォンを入れていたのに、それを使うことを思いつかなかった自分が、拓真は少し可笑しかった。
 電話の向こうの暢子の声は、二人を送り出した時の陽気なそれとは少しトーンが異なった。
 
「電車……初めてだったわよね。大丈夫だった? 荒療治かなとも思ったけど、拓真君にはいろいろ経験してほしかったの」

 兄夫婦から拓真を預かった暢子は、幼少時代を勉強ばかりに費やしてきた彼に、同じ年頃の普通の少年と同じ経験をさせてやりたいと思っていた。
 狭く限られていた彼の世界を広げ、もっと世の中のいろいろなものに目を向けさせたかった。
 そして、世界はまだまだ興味深く面白いものだと気付かせ、拓真に自分がやりたいことをもう一度見つけてほしかった。
 自信を取り戻し、また自分の足で立ち上がる力を身につけさせてやりたかった。
 思いがけず現れた葵の存在は、そんな暢子の背中を押したようだ。
 半ば強引に拓真に葵を送らせたのは、彼女にとっては一種の賭けだったのだろう。
 そして、無事少女を送り届けたと報告してきた甥の声に、暢子はほっとしたに違いない。

「結構、楽しかった。知らない人にも親切にしてもらえたし」

 拓真がそう告げると、よかったと答えた電話の向こうの暢子の声には、少し涙が混じっていた。
 それに気付いた拓真は、面と向かっては照れくさくて言いにくい言葉を、受話器を通してなら彼女に伝えられると思った。
 
「暢子さん」
「なに?」
「あの……いつも、ありがとう」
「まあ、どういたしまして」

 暢子は今度はきっと、電話の向こうで満面の笑みを浮かべているだろう。
 拓真はその笑顔を見るために、帰途につく。
 葵とは、また会う約束をした。
 彼女のやたらときらびやかな父親に感謝されて恐縮し、彼女によく似た母親と終始笑顔の伯母からは、またいつでも遊びにきてと誘われた。

 表に出ると、空は夕日で真っ赤に染まっていた。
 家路を急ぐ拓真の足は、桜田の家を出てきた時よりもずっと軽やかであった。

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Comments

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2012.01.21(Sat) 02:27        さん   #         

ありがとうございますv

> ひろ様
『アロワナ』読んでいただきありがとうございますv パパヴィーと紫苑兄は、破天荒な母娘に振り回されて毎日楽しくやってそうです。またいろいろなお話を書いていきたいと思いますので、今後もお付き合いいただければ幸いですv どうぞよろしくお願い致します!

2012.01.27(Fri) 13:09       ひなた さん   #-  URL       

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2012.10.05(Fri) 15:06        さん   #         

ありがとうございますv

> セイ様
読んでいただきありがとうございますv
菫の血を色濃く受継いだ葵のおてんばに、パパヴィーも年の離れたお兄ちゃんなシオンも毎日ハラハラしっぱなしかも。
彼女と、自分の進路を決めた拓真の今後も少し書きたい話がありますので、またお付き合いいただければ幸いですv
どうぞよろしくお願いいたします。

2012.10.07(Sun) 12:31       ひなた さん   #-  URL       

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