魔を従える娘
オルヴァに外出の件を告げ、一度自室に戻って着替えたイヴが再びキッチンに顔を出すと、テーブルの上にはすでにほかほかの朝ご飯が並べられていた。
それだけではなく、先ほど思いついたように頼んだお弁当まで、完成間近であった。
「……ごはん」
「ちゃんと手を洗ってきたか?」
「洗ってきた」
「なら、冷めないうちに食え」
イヴは椅子に腰を下ろし、まずはお気に入りのカップに注がれたスープを飲んだ。
今日は、優しい味わいのミルクスープだ。
煮込まれたジャガイモとタマネギが蕩けて、柔らかくて甘い。
「おいしいよぅ、おかあさーん」
「誰がおかあさんだ」
シドは今朝も見事に餌付けに成功した少女に呆れたように答えながら、彼女に背を向け料理をランチボックスに詰め始めた。
彼が戸棚を探して引っ張り出したそのランチボックスは、イヴにとって思い出深いものであった。
料理が得意だったカポロ婆さんは、暇さえあればそれに料理を詰めて、イヴを外へと連れ出した。
カポロが手頃な場所に敷物を広げて座れば、示し合わせたわけでもないのにそこかしこから村人達がやってきて、それぞれが持ち寄った料理と酒で昼日中から宴会、ということも少なくはなかった。
カポロと村人達の笑顔に囲まれて、イヴは育った。
けれど、一年ほど前――カポロは突然亡くなり、それ以来ランチボックスに料理が詰められることはなくなった。
もう、キッチンに立って鼻歌混じりに料理をするカポロの姿を、イヴは見る事ができなくなった。
大切な家族を失った悲しみは、どれだけ時が経とうと忘れることはない。
「……おいしいなあ」
イヴはそう言って、いつの間にか隣に寄り添っていた銀狼フェンリルの頭を撫でた。
カポロの死は悲しく寂しいが、フェンリルがいつも側にいてくれたからこそ、イヴは泣き暮れることもなかったのだ。
シドは実に気の利く魔物だ。銀狼の分のスープも、広めの皿によそって冷まされてあった。
ミルクスープは優しく、スクランブルエッグはふわふわ。ポテトのサラダは甘かった。
シドはその男らしい容姿に反し、全体的に味付けが甘め。そこがまた、カポロの料理ともよく似ていた。
どちらも機械的に作られた品物としての味ではなく、深く相手を思いやって手作りされた、慈しみ溢れる味がした。
それは、毎日交代でイヴに振る舞われた、村のお母さん達のそれとも同じだった。
小柄な女性だったカポロに合わせて作られたキッチンは、長身のシドには低過ぎるのだろう。
少し背中を曲げて作業する姿が、イヴの目には在りし日の育ての親の姿と深く重なった。
じわりと涙腺を緩めたイヴは、思わずその背に駆け寄ってしがみついていた。
「うわぁん、婆ちゃん……! なんで死んじゃったの~」
「おいっ」
朝食と後片付けを済ませると、イヴ達は家を出た。
もちろんシドが作ったお弁当と敷物も持って、扉に鍵をかけた。
裏の厩舎にいるオルヴァを迎えにいかなければならないが、その前にイヴは表の脇にある小さな池を覗き込んだ。
「アグ姐さん、おはよ」
「……おはよう、イヴ」
昨日は泉の底に引きこもったきりで、一度も水面に顔を出さなかった人魚アグネだったが、今朝は水中の洞穴を通って繋がったこの池から化け物屋の主人に挨拶した。
「昨日は大変だったよ。ハグバルド、なかなか帰ってくれなくてさ」
「いやあねぇ、ほんと、しつこい男。シュザック候の息子じゃなかったら、泉に引き込んでやるのにぃ」
アグネは相変わらず不機嫌だったが、昨日イヴが渡したEカップブラジャーはお気に召したようだ。今朝の彼女の豊満なバストを色っぽく飾っている。実はイヴが選んだデザインだったので、ちゃんと着けてくれているのを見ると、何だか嬉しい。
イヴはにこにことしながら言葉を続けた。
「今日もたぶん来ると思うけど、うちは留守にするから。アグ姐さんも、出て来なくていいよ」
「あなた……そんなことしたら、また後でうるさく言われるんじゃなくて?」
アグネの美しい顔に、かすかに影が差す。
相変わらず領主の放蕩息子の相手をするのは嫌だが、それによって仲良しの少女に迷惑をかけていることを、アグネもまったく気にしていないわけではないのだ。
そんな人魚の人間っぽい情を垣間見たイヴは、今だとばかりに訴えた。
「うん、だから明日は一回だけでもいいから、顔を見せてやってよ。せっかく隣町からやってきたのに、一度も姐さんに会えないまま帰すのは、さすがに気の毒だし」
「……」
アグネは黙って眉を顰めたが、それは情を揺さぶられて困った顔だった。
「姐さん、お願い」
「……」
それに、無邪気にお願いを繰り返すこの化け物屋の主人ときたら、まだどこかあどけなくてアグネの母性本能をくすぐるのだ。
それを認識してしまうと、もう無碍に断ることも無視することもできない。
「姐さんに会えて機嫌が良くなったら、もっと村で散財してくれるかもしれないし」
「……今のが本音ね、イヴ」
最後に悪びれもせず本音を口にしたイヴに呆れたようにため息を吐いたが、アグネはようやく「わかったわ」と言って、明日は少しだけハグバルドとの対面を了承した。
「ドラゴンはお高くとまっているし残虐。半魚人は狡猾で浮気者。人間は……すぐに死んでしまうわ」
それが、アグネの口癖だ。
人魚族に男はいない。
ほかの水棲の魔物、例えば水竜や、人に似通った腕と脚を持ちながらもえらと鱗のある半魚人などと交わり、子を成す。
人間との間に子を成した例も少なくはないが、人魚が生む子供は皆人魚であり、人間の父親と人魚の母子が共に過ごせる時間はそう長くはない。
アグネは、ラムール村を流れる川の上流、高くそびえ立つ山の頂きにある大きな湖に住んでいた。
しかし、数年前に突如始まった新月の闇の渡りは、その湖の水面をちょうど掠める形で通り、人魚達は毎年その夜は水底で身を寄せ合って震えていた。
やがて、それを嫌った人魚達の多くは川を下り、海へと移住を始める。
――大海の中であればそう闇の存在を恐れる必要もなく、交配の相手の最有力候補である水棲のドラゴン達との出会いも増える。
そう判断を下したのは、人魚の族長であり、アグネの母親だった。
それでも、住み慣れた湖を離れたがらない者も当然いて、人魚達全員が移住を果たすには数年の月日を有した。
そして遂に、最後まで移住を渋っていた一派を説き伏せ、母親とともにも山を下ることになったアグネだったが、実は彼女自身郷に――そこで昔出会った人間の男に未練があった。
かつてアグネはその男と恋に落ち、男は湖の淵の小屋を建てて住むようになったが、アグネの美しさに惚れた水竜の奸計により、彼女の知らぬ所で湖に引きずり込まれて命を落とした。
以来、アグネはドラゴンを憎んでいるし、簡単に死んでしまう人間の男を哀れみつつ、恋人を忘れられないでいたのだ。
結局、アグネは海に向かう一行からこっそり抜けて引き返そうとしたが、湖に戻ろうにも水の流れが逆であるし、山頂まで泳いで上り切るのは至難の業。
満月に人型になった時に歩いて帰ろうと思い、ラムール村の川の流れが緩やかな所に仮住まいしようとした。
そんな時、イヴに出会った。
育ての親であるカポロ婆さんを亡くしたばかりだったイヴの悲しみと寂しさは、恋人を失ったアグネの思い出に重なり、幼く危うげな魅惑の少女に母性本能をくすぐられもした。
さらに、イヴを通して知り合ったラムールの人々の温かさを気に入り、そのまま村に居着くことになった。
帰ろうと思えば元の湖にも帰れるが、一族の誰もいなくなったそこには恋人との悲しい思い出があるだけで、かといって今さら海に向かう気にもなれなかったのだろう。
アグネにようやく約束を取り付けた時、焦れたオルヴァがイヴを迎えにやってきた。
彼は普段家の裏の厩舎で過ごしているが、もちろん繋がれているわけではないので、自由に出入りできる。
ただ、オルヴァは滅多なことでは家の表に回ってくることはない。何故なら――
「イヴから離れろ。淫猥な人魚めっ」
「出たわね、ロリコン駄馬」
人魚アグネとの相性が、非常によろしくないからだった。
一角獣とは、清純な乙女をこよなく愛する魔物だ。
対して、人魚は性的に奔放で、恋多き魔物である。
お互い根本的に考え方が違うのだから、合わないのも仕方がないことだろう。
オルヴァからつんと顔を背けたアグネは、さっさと水しぶきを上げて池に飛び込み潜ってしまった。
その態度が気に入らないと、オルヴァは鼻息を荒げてプンプンする。
イヴはそんな彼の首筋を撫でて宥めつつ、荷物をその背中に積んだ。
「何なのだ、これは。荷物などそこの新入りの魔物に持たせて、そなたが乗らんか、イヴ」
気位の高い一角獣は背中に乗った荷物を忌々しげに睨み、顎をしゃくるようにして鼻先で新入りの魔物――シドを指した。
シドはそれに気を悪くしたふうもなく、別に荷物持ちくらい構わないとそれを受け取ろうとしたが、イヴが「いいんだよ」と囁くので手を引っ込めた。
「昨日の夕方、またロキがニンジンをたくさん持ってきてくれたから、荷物にいっぱいに詰めてあるよ」
オルヴァのニンジン好きはラムールの村人の間では有名で、皆気前よく収穫したものを分けてくれるのだ。
昨日ハグバルドを連れ帰ってくれた保安官ロキも、父親のエヌーの店からさらにたくさんニンジンをもらってきてくれた。
それを聞いたオルヴァは赤い目を輝かせ、興奮した様子でたしたしっとその場で足踏みをした。
「なにっ? ならば、得体の知れぬ新入りになど任せてはおけぬ。いいだろう、私が持ってやろう」
「うん、ありがとう。オルヴァさん」
もちろん、荷物の半分はシドの作ったお弁当や敷物などなのだが、ニンジンのことで頭がいっぱいになったオルヴァは、そんな細かいことを気にするような小物ではなかった。
まんまと高慢な一角獣を従わせた化け物屋の主人は、にっこりと満足そうだ。
その強かな笑顔を眺めながら、シドはこの少女がいかに高位の魔物を上手く扱っているのかを垣間見た気分だった。
人魚も一角獣も、本来情に流されたり物でつられたりするような、容易い相手ではない。
気位の高い彼らにとって、人間に使役されるなど屈辱以外の何ものでもなく、如何に魅惑の体液を持ってしても、それを従わせるのは簡単なことではないはずだ。逆に、怒りをかって命を脅かされても不思議ではない。
しかし、人魚アグネはしぶしぶながらも、気に入らない人間の男との対面を了承した。
一角獣オルヴァは、純潔の乙女しか乗せぬという優美な背中に荷物を許し、一介の馬のような扱いに甘んじる。
そしてまた、シド自身も。
出会ったばかりの娘にいそいそと飯をこしらえ、笑顔で平らげる姿に満足している自分もまた、彼女にいいように使われて、それなのにまったく不快に感じていないなどと。
シドの考えていることが分かるのか、銀狼フェンリルが隣に並んだ。
同じ魔物の赤い目が、シドの心の奥底を覗くように深く見つめてくる。
シドは、この魔物との昨夜の会話を思い出した。
今日を入れて七日の内に、シドはイヴを口説き落とさねばならない。
そうでなくば、次の新月の夜にはイヴを騙し、あるいは無理矢理抱かねばならなくなる。
闇の存在自体は、シドにとってはいまだ知り得ないものだが、イヴを奪われると言って戦慄いた銀狼の言葉を疑う気にはならなかった。
フェンリルの忠告通り、イヴという少女は簡単に手の中の落ちてきてはくれなさそうだ。
しかし、そうであるからこそ、面白い。
フェンリルは、シドにイヴを抱けと命じておきながら、彼女が期限内になびくわけがないと思っているだろう。
一方、シドは必ず彼女を口説き落としてみせるつもりだ。
つまり、これは賭け勝負のようなものなのだ。
(勝負には、必ず勝ってみせる――)
そう念を込めて見つめ返したシドの瞳が気に入らなかったのか、フェンリルはぷいっと顔を背けて彼の隣をすり抜けて行った。
「シドー、行くよー」
「ああ」
すでに先に歩き始めていた少女が、振り返ってシドを呼んだ。
それに答えた彼の美しい顔には、獲物を前にした獣のような獰猛な笑みが載っていたが、狙われた少女には逆光でよく見えなかった。
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