五臓六腑

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わんわんわん

※11月1日犬の日記念



わんわんわん



「おいでー、クロ」
「……」
「お手っ、クロ」
「……あの」
「おかわりっ、クロ」
「……スミレ、あのね」
「クロ、おすわりっ!」
「――失礼、義姉上っ」

 この日、いつも多くの仕事を抱えて忙しいグラディアトリアの宰相クロヴィス・オル・リュネブルクは、久しぶりに暇を見つけて兄ヴィオラント・オル・レイスウェイク大公爵の邸宅を訪れた。
 玄関前に馬車を停め、レイスウェイク家の侍従長の出迎えを受けた彼の視線の端に、庭の向こうをふわふわとしたものが横切るのが見えた。
 クロヴィスの足は吸い寄せられるように自然とそちらに向い、侍従長サリバンは微笑みを浮かべてそれを見送った。
 兄の屋敷の庭は見事なものだ。
 主人が植物に深く精通しているし、優秀な庭師もついている。
 咲き誇る花々を横目に、クロヴィスが立派なバラのアーチをくぐると、一面鮮やかな黄緑色の芝生が敷き詰められた広がった場所に出た。
 その広場の真ん中に、先ほど彼の目の端を掠めたふわふわ――小さなレイスウェイク大公爵夫人がしゃがみ込んでいた。
「兄上、スミレ」
 菫という名の彼女の側には、蕩けるような眼差しでそれを見下ろすレイスウェイク大公爵の姿もあった。
 クロヴィスに気づいたヴィオラントは、近づいてくる彼に対し、わずかに苦笑するように目を細める。
 無表情が常の兄だが、可愛らしい奥方に出会って以来、少しずつ感情を面に滲ませるようになっていた。
「クロヴィス、来ていたのか」
「今、着いたところですよ。兄上たちは、こんな所で何を?」
 そう言いながら、二人の元まで辿り着いたクロヴィスは、足元にしゃがんだままの少女を見下ろした。
 黒いふわふわの髪に頬をくすぐらせ、淡い色合いのふわふわのワンピースドレスに身を包んだ彼女の方も、兄と同じ紫という稀色の瞳でクロヴィスを見上げてきた。
 薔薇色の頬は柔らかそうで、あどけなさの残る愛らしいかんばせに、泣く子も黙ると恐れられる宰相閣下の視線も緩む。
 しかし、その手元にもぞもぞと動く毛の塊を見つけて、クロヴィスは「おや?」と片眉を上げた。
「スミレ、何を持っているのですか?」
 そう問いかけて、長身を折り曲げ隣にしゃがみ込んだ年上の義弟に向い、菫はその毛の塊を持ち上げて見せる。
「子犬、飼うことになったの。可愛いでしょ?」
「犬ですか」
 それはまるまるとした、黒毛の雄の子犬だった。
 短めの毛と立った耳。くるんと巻いた尾っぽ。つぶらな瞳の上の辺りに、眉のようにちょんちょんと丸く白毛の部分がある。
 その他にも、手足の先や腹や尻尾の裏の毛と、所々に白が混ざっている。
 いわゆる“黒柴”と呼ばれる、日本古来の犬種である柴犬の子供であった。日本は、菫の故郷である。
「おにーちゃんが拾ってきたんだけど、奥さんが犬アレルギーで飼えないの。だからうちで飼うことにしたんだよね、ヴィー」
「ああ」
「はあ、なるほど」
 グラディアトリアにも、犬はいる。
 しかし、菫の世界の犬に例えると、ドーベルマンやグレートデーンのようなシャープな体躯の猟犬か、アフガンハウンドなどのように優雅な見た目の犬種が主流で、大体は貴族が広い屋敷で飼うような大型のものばかりだ。
 それに対し、どこかまるっと愛嬌のある雰囲気の柴犬の姿は、クロヴィスの目にも珍しい。
 しかも、まだ子犬のふくふくとした表情は、それを抱き上げる少女にどこか似ていて、子犬と菫を見比べたクロヴィスの表情は自然と優しいものになった。
 ところがその時、彼らから少し離れた場所に、木の実でも落ちていたのか小鳥が数羽舞い降りた。
 とたん、好奇心旺盛な子犬は菫の腕を抜け出し、それに向かってたたっと駆け出した。
「あ、こらっ、だめだよ――クロ!」
「――ちょっと待って下さい」
 菫の口から飛び出した子犬の名前を聞いた瞬間、それまで柔らかかったクロヴィスの表情が、びきりと固まった。
「なに? クロちゃん」
「スミレ……あなた今、子犬をなんと呼びました?」
 こめかみをピクピクさせながら、必死に平静を装って問いかけたクロヴィスに対し、菫はいっそ眩しいほどの笑顔を作って答えた。
「黒い柴犬だから、“クロ”」
「いいえ、理由は後付けでしょう。本当は私への当てつけでしょう。そうでしょう、そうに決まってますっ」
 “クロちゃん”ことクロヴィスは口早にそう言って、菫に対して子犬の改名を要求した。
 しかし、数多の文官達を震え上がらせる宰相閣下の鋭い眼差しにも、露ほどの恐れも見せない無敵の少女は、「あらあ」と芝居がかってしなを作ると、傍らで見守っていた夫に向かって言った。
「クロちゃんったら被害妄想が激しくって、やあねえ。毎日忙しくて、心に余裕がないのよね。そういう時は、かわゆい子犬ちゃんと戯れて癒されればいいと思わない? ヴィー」
「そうだな」
 愛妻の言葉には大概同意するようにできているヴィオラントは、凪いだ表情のまま頷いた。
 そんな兄に、クロヴィスはぎゃわんと噛み付く。
「ひどいじゃないですか、兄上。どうして名付けの時、スミレを止めてくれなかったんですかっ!」
「すまんな、クロヴィス。名を思いついた時のスミレの笑顔が、とてつもなく愛らしかったのだ」
「いいえ、よく思い出して下さい! 正気に戻って下さいっ! それはきっと、悪巧みを思いついた真っ黒い笑みだったはずですっ!!」
「……うむ、腹黒さを凌駕する愛らしさだったな」
 弟の言う通り妻の笑みを思い出して、ついには無表情を綻ばせた兄に、クロヴィスはがくりと脱力する他なかった。
 そんな彼に追い打ちをかけるように、小鳥に逃げられて戻ってきた子犬に対し、小枝を拾い上げた菫はそれを大きく振りかぶって投げては、こう叫んだ。

「クロっ、とってこーい」
「――それっ、やめてくださいっ!」


 ちなみに。
 後日、菫の兄はもう一匹、貰い手が見つからなくて困っているという子犬をよこしてきた。
 レイスウェイク家の敷地はとにかく広大なので、犬が二匹になろうとさしたる問題はない。
 逆に、先に飼い始めた柴犬の遊び相手になってちょうどいいと、当主であるヴィオラントは二匹目の子犬も快く迎え入れた。
 しかし、その子犬に菫がある名前を付けようとした時は、いくら彼女の笑顔がとびきり可愛らしくても、やに下がるのをぐっと堪えて異議を唱えた。
 新顔の子犬は、犬種は先のと同じ柴犬であるが毛色が違った。
 その赤茶の毛は、とある王族兄弟の赤味の強い金髪を彷彿とさせ、ひどくやんちゃでマイペース。
 まだ幼いので、牛のミルクも大好きだ。
 それを見た菫は、いい名前を思いついたとばかりに笑顔で言った。
「よし、“アーヴェル”にしよう」
「それだけはやめなさい。縁起が悪い」
 “アーヴェル”は、隣国コンラートの一番上の王兄の名だったが、ヴィオラントは彼との間にいい思い出は何もない。
 何より、頑固一徹我が道を貫き、己の望みを叶えるためには時には非常識な行動をも厭わないアーヴェルは、潔癖な性格のクロヴィスとの相性は最悪だ。
 そんな因縁のある二つの名を、飼い犬達に付けるのはどうにも気が退けたヴィオラントの説得に、しぶしぶ菫も応じて別の名前を考え始めた。
 その後まもなく、後から来た方の赤毛の子犬が雌であると判明し、先の黒柴の雄とは自然といい仲になったらしい。
 その時になって菫はようやく、赤毛に“アーヴェル”と付けなくてよかった、と思った。
 

<おわり>
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