五臓六腑

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銀狼



 一年に一度。
 十一番目の新月の夜に、強大な闇が頭上を通る。
 イヴがそれに見つかれば奪われるとの恐れにとらわれ、フェンリルは力の強い魔物を探していた。
 イヴの魔物を魅了する力と同等、あるいはそれを越える強さの魔力でもって、彼女から放たれる甘美な気配を中和し、闇から隠す。
 そのためには、イヴと魔物が体液レベルで深く交わる必要がある――つまり、身体を交えろと、フェンリルはシドに命じたのだ。
 それには、さすがのシドも一瞬ぽかんとした。
 そして彼には珍しく口籠り、戸惑ったように黒髪をかき上げると、真面目な顔で苦々しい様子の銀狼に向かい合った。
「……なるほど、それは大役だな。役得と言うべきか」
「不本意だ。イヴの身体を貴様に許すなど――気が狂いそうなほど悔しい」
 それはフェンリルが相当の葛藤を経た上で、他に方法が見つからず不承の内に出さざるを得なかった答えなのだろう。
 彼は言葉通り悔しげに、その美しい銀髪をがしがしと掻き乱した。
「……そんなに悔しいなら、自分でイヴを抱いたらどうだ? その子供の身体でも何とか……」
 見兼ねたシドが軽い気持ちで口にした言葉に、弾かれたように顔を上げたフェンリルは叫んだ。
「何ともならないからっ……! 私ではどうしようもないから、お前に託しているんだっ――!!」
 少年の姿をした銀狼の瞳は深く傷つき、叫びは悲鳴のように聞こえた。
 それにはシドもいささか驚き、困ったように自分の黒髪を掻いた。
 フェンリルも、感情を剥き出しにしてしまった自分を恥じるように俯き、ひとつふうっと重くため息を吐くと、何かを抑え込むようにひどく冷めた声で続けた。
「私には、イヴを抱くことはできない。私は、――無性なんだ」

 フェンリルは、銀狼一族の長の嫡子として生を受けた。
 高位の魔物である一族の中でも、稀にみる魔力を備えて生まれてきた次代に、しかし周囲の視線は冷たかった。
「銀狼一族の長は世襲制で、男女を問わず第一子に継がせるのが掟。しかし、継承権第一位として生まれた私は無性――子を成す機能がなかった。子を生むことも生ませることもできない私を、誰も長とは認めたくなかった」
 それでも、フェンリルの特出した魔力は大人達にとって脅威だった。
 祖父である一族の長老の手で、生まれてすぐ魂に楔を打たれて力を抑えることで、彼はかろうじて生かされた。
 楔のせいで狼の姿の時は人語を操れず、人型をとっても今夜のように幼い子供の姿にしかなれないが、それがフェンリルが肉親から与えられた唯一の愛情だったのかもしれない。
 やがて、父の妾が男子を生んだ。
 その腹違いの弟に長を継がせるには、長子相続との掟の都合上、フェンリルの存在が邪魔になった。
「それで、お前は一族を追い出されたと?」
「一族の繁栄のために、死ねと言われた。父に、そして母に」
「……」
「私は、別に構いはしなかった。生きていても誰にも必要とされない、生まれて楽しいと思ったことなど、何にもなかったから。だから――谷へ身を投げた」
 しかし、フェンリルの身体の強靭さは、彼を死なせなかった。
 傷だらけの状態で気を失った彼を、川が下流へと運び、やがて岩場へと打ち上げた。
 いつしか意識は戻ったが、痛みも悲しみも、もう何も感じなかった。
 このまま静かに眠りたい、静かに無に還りたいと、黄泉へと歩を進めたフェンリルを、その時何かが引き止めた。
「甘い香りがして、目を開けたんだ。そうしたら、傍らに彼女が――小さな小さな、イヴがいた」
 狼の姿のフェンリルが倒れていたのは、イヴとカポロ婆さんの家の近くにある河原だったのだ。
 瀕死の重傷を負って魔力が極端に弱っていたからこそ、カポロの結界に弾かれずに村に入れたのだろう。
 当時、イヴはまだ七歳の子供だったが、すでに自分の身体を満たすものが魔物に好まれることを理解していた。

 ――おおかみさん、しなないで。イヴをたべて、げんきになって

「自分の腕を傷付けて、イヴは私に血を差し出した。小さな娘が痛みに耐えて糧を与え、私に生きよと言ってくれたんだ」
 イヴの血を舐めると、美味かった。
 今まで食べてきたものは、何の味も温度も感じなかったというのに、彼女の血は甘く温かく――そう思ったとたん、フェンリルは泣いた。
 悲しいのか嬉しいのか分からない。けれど、銀狼の赤い目から溢れる涙は止まらなかった。

 ――なかないで、おおかみさん

 恐れを知らない幼いイヴはそう言って、獣の姿をした魔物を抱きしめてくれた。
「私はその時、生きたいと思った。どうせ行くあてもない、ならばイヴを側で守りたいと思った」
「それからずっと、イヴの側に?」
「そうだ。カポロとは話が通じたので、包み隠さず身の上を話せば、イヴの側においてもらえることになった。おそらく、この身を哀れんだのだろうが、そんなことはもうどうでもよかった。イヴの傍らで、私は生まれて初めて生きる喜びを知った」
 権力とは残酷なものだ。
 ときには親子の縁も愛情もねじ曲げてしまう。
 それは、魔物であろうと人間であろうと、大きな違いはないだろう。
 銀狼という高貴な一族の中で傷ついたフェンリルは、人間の小さな村でそれを癒され幸せを手に入れた。
 その幸せの象徴たるイヴを、正体の分からぬ闇などに奪われてなるものか。
 そにためには――イヴを失わないためには、フェンリルには手段を選べるほどの余裕がもうなかった。
「私とて、こんなことをしたくなどない。自分で命じておきながら、本当は腸が煮えくりかえりそうなくらい、お前が憎らしい」
「そりゃ、どうも」
「だが……私はどれほど望んでも、イヴを抱くことはできない」
「それで、俺に?」
「口惜しいが、他に方法が思いつかない」 
 苦々しく呟くフェンリルに、しかしシドはふっとため息のような笑いを漏らし、くるりと背を向けて言った。
「悪いが――お前の言いなりになるつもりはない」
 とたん、彼の背後で凄まじい殺気が膨れ上がった。
 並の魔物ならば腰を抜かし動けなくなるほどの魔力の迸りが、シドの背中に突き刺さる。
 少年のような声が、激しい怒気を含んで地を這った。
「貴様……イヴを好いているのではないのか。彼女を抱きたくはないのか」
 けれど、シドは涼しい顔をして、むしろ笑みさえ浮かべて顔だけ後ろを振り返った。
「そうだな。あれは、面白くて可愛いから好きだ。色気は皆無だが抱きたいとも思う」
「それならば――」
「では聞くが、この件に関して、イヴ本人はどこまで知ってどこまで納得している?」
「……」
 シドの言葉に、フェンリルはぐっと口を噤んだ。
 イヴは、何も聞かされてはいない。魔物達が怯える十一番目の新月の闇の存在さえ、彼女は知らないのだ。
「何も知らさず守るなどと、さすがに過保護が過ぎるんじゃないか? お前も、婆さんもな。自分のことは自分で知っておくべきだろうし、自分に降り掛かるかもしれない火種の存在を把握することもまた、イヴを守ることに繋がると思うぞ」
「得体の知れないものがお前を浚うかもしれないから、魔物相手に股ぐらを開いて匿われろと? そんなこと、言えるものか」
「おい、表現が生々しいぞ」
「言葉で納得させられる自信がないから、こうやってこそこそ手を回しているんじゃないか」
 それでなくても、思春期を年寄りばかりの中で過ごしたイヴは、性愛に関する話題には極端に疎い。
 魔物に褒美を与えるために、キスの技術だけは無駄に向上しているが、それ以上のことを彼女に教える人間も手本も今までなかったのだ。
「まあ……お前がひどく切羽詰まった心境であるのは、よく分かった。先ほど言った通り、協力を惜しむつもりもない」
「では――」
 少年の姿をした銀狼は、迫る期限への焦りにいささか冷静さを失っているように見えた。
 シドは片手を上げて「まあ待て」という仕草をすると、もう一度彼に向かい合ってから口を開いた。
「ただ、保護者の銀狼様にお膳立てされて、本人の同意を得ぬまま事に及ぶなどというのは、俺の主義に反する」
「……」
「だが、安心しな。次の新月まで、必ずあいつを口説き落としてみせる。そして、合意の上でイヴを抱こう」
 シドの言葉を聞いたとたん、フェンリルはその中性的な美しい顔を嘲笑に歪め、ふんと鼻で笑って吐き捨てた。
「思い上がるな。イヴが、そう簡単に思い通りに動くものか。あと、十日余りだぞ。そんな悠長なことを言っていられるか」
 しかし、シドはそれに堪えた様子も気を悪くした様子もなく、自信に満ちた笑みを浮かべて両腕を組み、力強い視線を真っ直ぐに相手に返した。
「ではこうしよう。明日より七日の内にイヴを落とせなかったら、お前のいうとおりにしよう。その代わり、期日までは口出しせずに黙って見守れ」
「……大した自信だ」
 フェンリルは憎々しげにシドを睨んだが、結局は彼の出した条件を飲むしかなかった。
 実際のところ、彼に協力をあおぐしか今は方法はないのだ。
 
 夜空に輝く月は、まだ丸い。
 それが欠けていく先に、一体何が待っているのか――今はまだ誰にも分からなかった。






 


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