五臓六腑

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キスと報酬


 イヴが奥の部屋へ行くと、シドはすでにキッチンに立って料理を始めていた。
 先ほど遅めの朝食を食べたばかりだと思ったが、外出してそれなりに小腹も空いている。
 特にやることがないイヴは、手を洗ってきてダイニングの椅子に腰掛けた。
(そういえば、エプロン買ってあげるの、忘れた……)
 そう思いながら、てきぱきと仕事をこなす魔物の後ろ姿を眺める。
 白いシャツに黒いパンツ。
 緩く癖のついた艶やかな黒髪は、無造作に背中に流されている。
 スレンダーに見えるが実は筋肉質で、イヴが今まで出会った誰よりも長身。
 魔物なので外見からは年齢は計れないが、見た目はイヴより十ほど上だろう。
 他人の容姿にも自分の容姿にも頓着しない彼女でも、シドのそれがとんでもなく整っているのは分かる。
 魔物は、その身に抱いた魔力が強ければ強いほど、容姿の美しさも増すのだと言う。
 ならば、やはりシドは相当高位の魔物であるに違いない。
 一般的に、人間の姿に近い方が魔物としてのランクは上である。
 シドや、上半身が人間の女性と見紛う人魚アグネなどは、やはりそれに当て嵌まる。
 しかし、馬の姿に似た一角獣オルヴァも、神格化されるほどの貴い種族。
(でも……一番綺麗なのは、フェンリルだ) 
 何よりも、銀狼フェンリルのしなやかな美しさは群を抜いているとイヴは思う。
 育ての親であったカポロ亡き今、イヴにとっては一番の家族であるフェンリルもまた、高位の魔物に違いなかろう。
 イヴは、側に侍るようにおすわりをしていた銀狼にぺたりとくっ付き、その喉元の毛をがしがしと撫でた。
 すると、フェンリルは気持ち良さそうに、ルビーのような赤い目を細めた。
 そんな彼に微笑んだイヴだったが、その時前方のシドの片手に、自分が最も苦手とする橙色の物体を見つけて、弾かれたように立ち上がった。
「シドっ! ニンジン入れないで入れないで入れないで――入れるなったらっ!」
「うるさいぞ、イヴ。子供じゃあるまいし、ニンジンごときで騒ぐな」
 慌てて駆け寄って、ニンジンを奪い取ろうとしたイヴだったが、料理番には難なく阻まれてしまう。
 そうこうしている内にも、それは慣れた手付きで皮を剥かれた。
「俺が納得出来るような、ニンジンを食べたくない理由を言えるなら、考えてやってもいい」
「味が嫌、臭いが嫌、食感が嫌」
「味も臭いも食感も気にならないように料理してやる……って、俺はお前のママか」
「こんなゴツいママはいやだっ!」
「俺だって、お前の保護者になるつもりはない」
 口では女々しく縋るイヴの相手をしながらも、シドの手は器用に包丁を扱いニンジンを細かくみじん切りにしていく。
 次いで、買ってきた荷物の中から取り出した、大きなタマネギの皮を指の爪を引っかけて剥き、ピーマンは種だけくるりとくり抜いた。
 実に手慣れた様子である。
 さらに、朝食の残りのベーコンも含めて食材を細かく刻み、フライパンを火にかけようとすると、背中に貼り付いていたイヴが、往生際悪くシドのシャツを両手で引っ張った。
「居候のくせに、家長の命令がきけないのっ!?」
「あいにくだが、俺の上司はお前ではなく銀狼だろう。フェンリル様は、イヴにニンジンを食わせろとおっしゃっている」
「フェンー、そんなこと言わないよねぇ?」
「……」
 ダイニングテーブルの脇に臥せっていたフェンリルは、甘えた声で自分を呼ぶイヴから視線を逸らした。
 この時ばかりは、銀狼様もイヴの味方をしてはくれないらしい。
「なるほど、食わねば口移ししてでも食わせろとおっしゃっている」
「おっしゃってないー!」
 フェンリルの無言の後押しを受けたシドは、傍らでちょこまかしていたイヴを捕まえると、彼女の顎を掴んだ。
 掌にすっぽり収まる顎は小さい。
 指先に触れるふわふわと柔らかい頬の感触も、何だかとても愛おしい。
 彼がぐいっと顔を近づけても、照れて赤くなりもしなければ、期待に胸を高鳴らせることもないイヴは、性的に非常に幼いのだろう。
 よくよく話を聞いてみれば、彼女が育ったこのラムール村は過疎化が進み、若者は成人を済ませれば次々と大きな町に出て行ってしまうという。
 イヴと同じ年頃で村に残っているのは、村長の孫で保安官のロキただ一人だった。
 あとは、彼らの親世代と大半は年寄り達でしめられている。
 村特産の穀物ムールの収穫期になれば、町に住まう若い世帯も手伝いに帰ってくるので賑やかになるが、それは一時のこと。
 出会いの極端に少ないこの村で、イヴの恋愛経験値が地を這っているのは、ある意味仕方のないことと言えよう。
 しかし、もしもロキにもう少し甲斐性があれば、イヴは彼といい仲になっていたかもしれない。
 そうならなかったことに、何故かほっとする己を可笑しく思いながら、シドはやんわりと彼女の唇を食んだ。
「……っ、シド、つまみ食いし過ぎだよ。また胃が苦しくなっても知らないよ?」
 イヴにとってのキスとは、魔物に報酬を与える手段に過ぎない。
 それを分かっていたつもりのシドだが、色気の欠片も見せない少女に、思わずため息が漏れた。
「……いいか、イヴ。キスと、魔物への報酬はまったくの別物だぞ」
「やること、一緒じゃない」
「いいや違う。誰も、お前にそれを教えなかったんだな? ――なら、俺が教えてやる」
 そう言うと、シドは顎を掴んでいた手を頬に滑らせ、柔らかなそれを優しく包み込んだ。
 そうして、すぐに唇を開いて舌を差し出そうとするイヴに、「まだ唇は開かなくていい」と告げると、甘く啄むようなキスを与える。
 イヴからは、戸惑うような気配がひしひしと伝わってくる。
 彼女が今まで経験したキスは、深く求められるものばかりだった。舌を吸われ、唾液を奪われるものばかりだったのだ。
 イヴの体液に執着がないウォルスでさえ、いつも貪欲に唇の奥を求めた。
 それなのに、シドのそれは表面を撫でるように優しく、柔らかい。
 彼の舌はイヴを抉じ開けず、ただただ唇の形をなぞるように掠めるだけ。
 その意図も意味も分からず、両目を開いてじっと相手を観察していた少女を、シドは呆れたように「空気を読め」と言って嗜めた。
「まず、両目を閉じろ」
「なんで?」
「それが、キスをする時の礼儀だ」
 シドはぱちくりする瞳に向かってそう言うと、手本を見せるように両の瞼を閉じた。
 切れ長の鋭い瞳が、驚くほど長く黒い睫毛の下に隠された。
(そもそも、ニンジンを食べさせるっていうのは、どこへいっちゃったんだろう……?)
 イヴはそう思いながらも、至近距離で人外の美貌を見つめ続けるのは何となく気まずく、おずおずと自分も瞼を閉じてみた。
 優しく押し付けられるシドの唇は、思いがけず柔らかく温かい。
 確かに、いつもの魔物達とのそれとは何かが違う――そう、イヴに思わせた。
 それが一体何なのかと気づくには、彼女の情緒はまだあまりにも未熟だった。
 それでも嫌悪を示さぬイヴの様子がシドの気を良くさせ、彼は何度も角度を変えて無垢な唇を味わったが、それ以上キスを深めようとはしなかった。
 しかしながら、唾液を交わさぬ長い長いキスを終えたイヴの表情には、ぐっとくるものがあったようだ。
 魔物にべろべろ舌を吸われまくってもけろりとしていた少女が、唇が触れ合うだけのキスで、わずかながらも頬をピンク色に染めていたのだ。
 元来理性とは縁の薄い魔物らしく、その時一挙に沸き上がった衝動に抗わず、無垢な少女に襲いかかろうとしたシドだったが、そこはちゃんと抑止力が働いた。
 もちろん、外側から。
「……噛むなフェンリル、穴が開く」
 イヴを強くかき抱こうとしたシドの腕には、いつの間にか側に来ていたフェンリルの牙が突き刺さっていた。
「ウォルスも、足を踏むな。痛くはないが気が散る」
 イヴの両脚の間に割り込ませようと企んだ片足は、ぬいぐるみの身体を得たウォルスによって床に留められた。

 結局、銀狼とぬいぐるみのタッグにより、イヴは発情しかけた料理番から引き離された。
 シドの方も無理強いするつもりはないらしく、ひとつため息を残すとくるりとフライパンに向き直り、何ごともなかったかのように料理を再開した。
 ただイヴの胸にはひとつ、小さく不思議な熱が残ったが、それが何であるかはやはり分からなかった。
 けれど、嫌なものではない。
(何だかわからないけど……今度はフェンリルやアグ姐さんとする時も、目を閉じてみよう)
 そんな、少し間違えた方向にイヴの思考が向いてしまったとも知らず、シドは手早く昼食を完成させていた。
 具だくさん、ふわふわのオムレツ。 
「……うんまい」
「当然だな」
 大嫌いなニンジンの入ったそれを恐る恐る口に含んだイヴが、次の瞬間頬を染めて正直な感想を漏らすと、シドは誇らしげな笑みを浮かべた。
 そして、彼らの穏やかな昼食が済んだと同時に、玄関の呼び鈴がリンと鳴らされた。





 



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