魔物と幽霊
「どういうことなのっ! どういうことなのっっ!!」
「うるさいな、ウォルス。重ねて言うな」
「何度でも言うよ! 一体全体、これはどういうことなのっ!?」
シドを見たウォルスは、眦をつり上げてイヴに詰め寄った。
ウォルスも、普通にしていれば上品な美形で、身なりから見て生前はそれなりの身分であったのだろうと分かる。
しかし、とにかくイヴに関わると、彼はいちいち騒がしく極端だ。
彷徨う魂は、よほど“見える”人間に飢えていたのだろう。
イヴから離れれば、不安定な自分の存在自体が無に飲まれてしまうと恐れるかのように、ウォルスは彼女にこだわっている。
肉体を持たない分際で、毎日朝晩、イヴへのプロポーズを欠かさないくらいだ。
「僕というものがありながら、二人の愛の巣に男を連れ込むなんてっ! イチゴちゃんの淫乱っ!」
「あーあー、うるさいうるさい。淫乱でも売女でも何でも好きに言えばいいよ」
「イチゴちゃんは売女なんかじゃないよっ! まだピッカピカの処女じゃないのさっ!」
「じゃあ、淫乱でもないよ」
そんなウォルスをあしらうのに慣れたイヴは、ポケットに突っ込んでいた泥だらけの手袋を握って、家の奥へと足を向けた。
ウォルスのやかましさを気にも掛けず、家の中を物珍しそうに見回しているシドには、居間ででも寛いでいるように勧めた。
「とにかく、土に塗れたからお風呂入ってくる」
「背中を流してあげるよ、イチゴちゃん」
「結構です――フェンリルはおいで。一緒に洗ったげる」
土の中に埋っていたはずのシドはまったく汚れていなかったが、イヴとフェンリルはあちこち泥だらけだった。
ずるいずるいと、駄々をこねるウォルスを無視し、主人に呼ばれた銀狼は嬉しそうに尻尾を振りながら、彼女について風呂場に向かった。
その時、イヴは風呂場の扉に、一枚の紙切れを貼付けることを忘れなかった。
それは、以前村を通りかかった東の国の高僧が譲ってくれた、ありがたい護符である。
幽体のウォルスは、この家の中では基本あらゆる仕切りを通り抜けることができる。
遠慮のない彼は、風呂だろうとトイレだろうと断りもなく侵入してくるので、それを防ぐためにイヴは護符を重宝していた。
これを出入り口に貼ると、小さいながらも結界に守られた空間ができ、ウォルスが入ってこられなくなるのだ。
ウォルスは、しばらくの間浴室の扉に貼り付いて、切なげに「イチゴちゃあん」を連呼していた。
しかし、中から水を流す音が聞こえ始めると、ぴたりと口を閉じて踵を返し、居間のソファに堂々と腰を下ろしたシドの前までやってきた。
そして、イヴに見せていた表情とはまったく別人のような顔で、シドと対峙した。
「――貴様、何者だ。何を企んでイヴに近づいた」
青い目は氷のように冷たく尖り、赤い目の男を激しく睨みつける。
ウォルスは二重人格なみに、イヴの前とその他の場面を使い分けているのだ。
そんな彼の透けた姿を面白そうに眺めたシドは、口の端を引き上げて答えた。
「俺が近づいたんじゃない。彼女が俺を地上に連れ出したんだ。責任をとるのが筋だろう?」
「ふざけるな――さては、貴様も化け物か」
「そういうお前も、化け物だろう?」
「私は肉体がないだけで、正真正銘の人間だ。もちろん、人間のイヴと結ばれていいのも、私だけだ」
「肉体がない時点で、じゅうぶん化け物の仲間入りだと思うが……」
シドは、沸騰しそうなほどの憎悪を抱いたブルーの瞳を見据え、小さくため息を吐いて続けた。
彼は自分が何者かも、なぜあのような森の中に埋められていたのかも覚えてはいないが、それ以外の知識に欠落はない。
フェンリルを見て自然と銀狼一族の存在を思い出したし、今シド自身を呪い殺しそうな目で睨みつける人間の亡霊が、魂として実に危うい状態であることにも気づいていた。
「悪いことは言わない。お前は早いところ成仏した方がいい。もうすでに、悪霊になりかけている」
人は誰しも、死ねば天に昇って全てを忘れ、また新たな命として生まれ変わる道がある。
しかし、この世に未練を残して成仏できぬ魂は、生きるものと関われば関わるほど、あるいは誰かを呪えば呪うほど――他の何ものにもなれずに淀みだけが増し、やがて意志も理性も失って、ただの悪霊と成り下がってしまう。
だが、そう忠告するシドに向い、ウォルスは一言「――余計なお世話だ」と吐き捨てた。
風呂場では、全身に泡をまとったイヴが、大人しくおすわりをしたフェンリルに石鹸の泡を塗りたくっていた。
白銀の毛並みは惚れ惚れするほど艶やかで、泡立ちがよい。
イヴは彼の前にしゃがみ込み、その両手両足すべての肉球まで、ぶにぶにぶにとしっかりと洗ってやった。
「ところで、フェンリル。君は、どうして私にシドを掘り起こさせたの?」
早朝彼に起こされた時は、その真剣な眼差しから、今日のお宝は稀にみる大物に違いないと、うっきうっきしながらスコップを掲げて森に向かったというのに、結局見つけたのは何か厄介そうな訳ありの魔物であった。
大物には、違いはないだろうが……。
「実は、あいつが入ってた棺桶の方が、レア物だったとか?」
しかし、そうだとしたら、すでに蓋は粉々になってしまっているので、もう価値などないだろう。
フェンリルはただじっとイヴの目を見つめるばかりで、何も答えない。
彼は賢く上品な魔物であり、人外な力で時々すごいこともやってみせるが、残念ながら人語を操ることはなかった。
それでも、人間の言葉自体は理解していて、イヴにはどこまでも従順。
イヴの方も、彼の行動や瞳を見ればその思いはほとんど理解できるので、コミュニケーションに不便を感じたことはない。
けれど、時々。ほんの、時々……思うことがある。
「フェンリルと、話ができたらいいのにね……」
実は、イヴの育ての親であるカポロ婆さんは、フェンリルと言葉を交わすことができたのだ。
彼女は魔法らしい魔法は何も使いはしなかったが、動物や人語を操らない種の魔物とも意志の疎通ができる能力に長けていた。
幼い養い子にも、彼女はそれを伝授しようとしたのだが、残念なことにイヴにはその素質がまったくなくて断念したらしい。
「ばあちゃんと……一滴でも血が繋がってたら、君と話せたのかな?」
魔女の血は、女子にしか受継がれない。
カポロ婆さんの子供達は皆男子だったので、彼女が亡くなった時にラムール村唯一の魔女の血は途絶えてしまった。
幸い薬草の技術については、勉学としてイヴが習って受継いでいるし、お産の手伝いは助産婦が他に何人もいるから問題はない。
けれど、人智を超えた存在でもあったカポロの喪失は、少なからず彼女を心の拠り所としていた村人達にとっては、痛手であった。
それを思うと、充分な後継者となれなかった自覚のあるイヴは、時々申し訳なさに胸が痛むのだ。
「……わふっ」
「ん……」
いつの間にか俯いていたイヴは、無意識に唇を強く噛んでいたようだ。
大人しく泡だらけにされていたフェンリルが、息を漏らすように小さく吠え、血が滲みかけた彼女の唇をぺろりと舐めた。
それにはっと我に返ったイヴは、目の前の銀狼の瞳を見つめる。
魔物の証の赤いそれは、しかし今は確かに彼女を気遣い、宥め癒そうとするような温かい光を宿していた。
「……ありがと、フェンリル」
イヴはほっと安堵するような笑みを漏らすと、フェンリルに湯をかけて泡を落としてやった。
そうして、濡れた毛を解すように指で梳いてやると、彼の突き出た口の先をぺろんと舌で舐めた。
イヴの、魔物にとっては魅惑の味がかすかに口の中に広がって、銀狼はごくりと喉を大きく鳴らした。
「ご褒美、前払いしとく」
イヴはそう言うと、控えめに唇を舐め返してきたフェンリルの舌に、そっと口内を許した。
唾液を浚うその感触に、イヴは少々身を強張らせたが、ほどほどを知っている忠実な下僕は、すぐに満足して舌を引っ込めた。
そうして、明らかにご機嫌になったフェンリルの前で、イヴは自分の泡も落としながら宣言する。
「せっかく掘り出したんだから、シドにも何か仕事をさせよう」
「わん」
「シドは、君が推薦したようなもんなんだから、フェンリルが保護者ね」
「……」
銀狼は、見るからに「えー!?」という表情をした。
しかし、それについては微塵も譲る気がないイヴは彼を無視し、「何がいいかなぁ。何ができるかなー、あいつ……」と、すでにビジネスの算段に忙しい。
そんな主人に、フェンリルはいやに人間くさい仕草で、ふうっと深くため息を吐いた。
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