ほどほどがちょうどいい
「お前、年頃の娘のくせに可愛げがないな。見目は悪くはないのに、勿体ない」
「ちょっと……」
「……それより」
露骨に眉を顰めるイヴを、男は赤い目を光らせて面白そうに眺めながら、掴んだ彼女の顎をぐっと上を向かせる。
露になった少女の華奢な首筋に顔を寄せ、その奥に透ける血管を焦がれるように、ふんふんと鼻を鳴らした。
「お前……何故こんなに、うまそうな香りがするんだ……?」
そう言った男の舌が、べろりと無遠慮にイヴの首筋を舐めた。ちょうど、頸動脈を下から上へ辿るように。
ぞわりとした感触に、イヴの右の拳が彼の顔面を狙って繰り出されたが、彼女の顎を掴んでいない方の手が易々とそれを阻んだ。
「何なんだ、お前は」
「あんたこそ、何者だよ」
「俺か? 俺はな……」
イヴの顎を掴んでいた男の手は、首筋を通って滑り降り、彼女を抱き寄せるように背中に回された。
ぐっとさらに密着した男は、イヴの項に顔を埋め、その香りを堪能するように肺一杯に吸い込んだ。
「俺は、シド――」
「シド? それがあんたの名前?」
「そう、俺の名だ。他のことは忘れた」
「忘れたぁ?」
シドと名乗った男は、猫のようにイヴの首元に顔を擦り寄せ、深く甘いため息を吐いた。
イヴは、突然懐いてきた大きな獣に戸惑いながらも、不用意に触れられるのは鬱陶しい。
離れろと命じたが、彼はフェンリルのようなイヴの下僕ではないので、言うことなんかききはしない。
「あんた、魔物でしょ。自分が何の眷属かとか、何で誰にこんなところに封印されたのかとか、覚えてないの?」
「覚えてないな。別に、今さらどうでもいいことだしな」
「どうでもいいことないでしょ。普通、封印を施した奴に復讐しにいったりするもんでしょ。恨み晴らしてきなよ、今すぐ。こういうのは勢いが肝心――はいっ、いってらっしゃい!」
彼を、再び棺桶の封印に戻すことは、さすがにイヴももう諦めた。
それでも、面倒ごとを避けたい彼女としては、シドがどこかの誰かさんへの復讐に目覚め、その者の元へとっとと消えてくれるように仕向けたいのだ。
しかし、イヴの打算だらけの激励も虚しく、シドはにやりと笑って首を横に振った。
「いいや、封印の眠りは意外に心地よくて快適だったからな。別段、腹も立てていない」
「……おおらかだね」
「むしろ、とてもいい夢を見ていた気がしたのに、それをお前に邪魔された。こっちの方が、充分復讐するに値する恨みだな」
シドの声は低く柔らかく、まるで睦言を囁くように甘いが、イヴの首筋に擦り付けた唇が不穏な笑みを刻み、その隙間から鋭い犬歯が顔を出して、彼女の薄い肌をくすぐった。
人間ではあり得ない長さと鋭さの、牙だ。
戯れにそれを突き立てられただけで鮮血が吹き出し、ただのかよわい人間であるイヴは簡単に命を落とすだろう。
「……お望みならば、もう一回眠らせてあげるよ。スコップで思いっきりどつけば、すぐだよきっと」
イヴはそう強がりながら、心の中ではさすがに少しまずい状況かなと思いつつ、ちらりと助けを求めるように視線を下げた。
その先には、彼女の忠実な下僕である銀狼が、赤い目でじっとシドを見据えていた。
フェンリルはシドを警戒はしているようだが、どちらかというと値踏みしているようにも見える。
彼は、イヴの危機にはひどく敏感で、彼女へ敵意を向けるものを決して許さない。
そのフェンリルがうなり声一つ上げていないところを見ると、このシドという魔物にイヴを傷付ける危険がないということだろうか。
彼女が銀狼を眺めながらそんなことを考え込んでいると、不満げな男の声が耳のすぐそばでした。
「俺を前にしてよそ見をするとは――いい度胸だ」
背中に回っていたはずのシドの掌がイヴの後頭部を包み込み、ぐっと上を向かせた。
彼女の勇ましい拳を捉えていたもう片方は、いつの間にか腰に巻き付いていた。
「――っ!」
次の瞬間――イヴが抗う隙も与えず、柔らかいものが彼女の唇に押し当てられた。
それは、見た目の冷たさとは不釣り合いに、いやに温かなシドの唇だった。
足元で、一瞬フェンリルが鋭く唸ったが、シドはそれをちろりと見下ろしただけで、すぐに視線を逸らしてしまう。
そうして、無防備に半開きだった少女の唇を抉じ開け、彼は自らの舌をぬるりと押し込んだ。
ところが、侵入させた舌がイヴの唾液に触れた瞬間、シドはビクリと身体を震わせ、その血のように赤い瞳をこれでもかと見開いた。
(あーあ……)
それを感じたイヴは、心の中で大きくため息を吐いた。そうして、身体の力を抜いて、従順にすべてを預けた。
イヴを抱きしめる男の両腕に力がこもった。
シドの舌は彼女の唾液を掬いとるように蠢き、それを己の口内に奪っていっては喉を鳴らす。
足元の銀狼は鼻に皺を寄せて低く唸りながらも、止めようとはしなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
シドは、ようやく唇を離した。
しかし、イヴを抱きしめる腕を緩める気はないらしい。
酸欠で息を荒げるイヴを見下ろす彼の赤い瞳は呆然としていて、しばらくの間言葉に詰まったように唇を震わせていた。
そうして、やっと振り絞るようにして発した声は、ひどく掠れていた。
「お前……何者だ。なぜ……なぜ、こんなに……」
鮮血に濡れたような瞳は、熱に浮かされたように危うげに揺れ、血色の悪かったシドの白い肌がわずかに赤味を増している。
彼はイヴの唇に残っていた唾液を指の腹で拭い、それを舌で舐めとっては呻くように言った。
「お前――なぜこんなに、美味いんだ?」
そうなのだ。
イヴは、とっても美味いのだ。
なぜだかは分からないが、イヴは魔物にとってはこの上なく甘美な存在であるらしい。
彼女の、血液に始まり、唾液・涙・汗にいたるまで、体液と呼ばれるものはすべて、魔物の好みに恐ろしく合致するのだ。
それは彼らの食欲を満たすというよりは、例えば酒や煙草やお菓子のような嗜好品に近い感覚であるが、困ったことにこれには若干の中毒性があると、イヴ本人は思っている。
なぜなら、一度でもイヴの体液を口にしてしまったものは、彼女の側から離れることができなくなってしまうらしいのだ。
そういう輩が、現在イヴの家にはすでに何匹か居座っていた。
もちろん、フェンリルもそのうちの一匹である。
そしてまた、このシドと名乗った得体の知れない魔物も、イヴの味を知ってしまった。
先ほどの穴を吹き飛ばした人外な力と、人並みはずれた美貌を見れば、彼がどうやら相当高位の魔物であると分かる。
魔物の美醜は、その身に秘めた力に比例するというのが、通説なのだ。
小さく可愛らしい魔物ならば、ペットとして飼うもよい。小さいものは勝手に昆虫やらネズミやらを捕って食うので、餌代もかからない。
しかし、ここまで大型で、しかも人型の魔物となると、世話をするのもいろいろ面倒が多く非常にわずらわしい。
イヴはシドを掘り出してしまったことを心から後悔し、足元の元凶たるフェンリルをもう一度睨んでやった。
「おい、娘。お前の名は?」
そうして視線を逸らしたことがまた気に入らなかったのか、イヴの後頭部を掴んだままだったシドの掌が、彼女の顔を再びぐいっと上向かせた。
それがいささか乱暴で、首がごきりと鳴って痛かったので、イヴは「むち打ちになったらどうしてくれるっ!」と抗議して、無防備だった彼の向こう脛を蹴り付けた。
しかし、シドはわずかに眉をしかめただけで、彼女を咎めることも痛がる素振りもなく、ただ爛々と瞳を輝かせてイヴをじっと見つめている。
そして、音が聞こえるほどごくりと大きく喉を鳴らすと、再びイヴの唇にかぶりつこうとした。
「――だめ」
「……」
だが、イヴは両手で彼の口を塞いでそれを阻む。赤い瞳が、なぜと聞くように眇められた。
「やめときな。私は美味いかもしれないけど、あんまり一度にたくさん口にしない方がいい」
「……?」
魔物にとって美味い存在と認識されることは、同時に非常に危険なことである。
美味いものをより多く食したいと思うのは、人間でも魔物でも同じであろう。
イヴのわずかな唾液に魅せられたものは、では血はどんなに甘いのだろうか、汗は、涙は、そして愛液はと、次々と貪欲に求めるはずだ。
さらには、肉をかじり内蔵を啜り、彼らの欲は果てしなくイヴの身体を解体するに違いない。
しかし、イヴは十八歳になる現在まで、五体満足で無事生きてくることができた。
それには、それなりの理由があるのだ。
確かに、イヴの体液は魔物にとってとても魅力的なものである。
しかし、それは嗜む程度の量であるからいいのであって、もしもそれを超えて口にするようなことがあれば――
「胃が、めちゃくちゃもたれるよ」
何でも、ほどほどがちょうどいいのである。
「ちょっと……」
「……それより」
露骨に眉を顰めるイヴを、男は赤い目を光らせて面白そうに眺めながら、掴んだ彼女の顎をぐっと上を向かせる。
露になった少女の華奢な首筋に顔を寄せ、その奥に透ける血管を焦がれるように、ふんふんと鼻を鳴らした。
「お前……何故こんなに、うまそうな香りがするんだ……?」
そう言った男の舌が、べろりと無遠慮にイヴの首筋を舐めた。ちょうど、頸動脈を下から上へ辿るように。
ぞわりとした感触に、イヴの右の拳が彼の顔面を狙って繰り出されたが、彼女の顎を掴んでいない方の手が易々とそれを阻んだ。
「何なんだ、お前は」
「あんたこそ、何者だよ」
「俺か? 俺はな……」
イヴの顎を掴んでいた男の手は、首筋を通って滑り降り、彼女を抱き寄せるように背中に回された。
ぐっとさらに密着した男は、イヴの項に顔を埋め、その香りを堪能するように肺一杯に吸い込んだ。
「俺は、シド――」
「シド? それがあんたの名前?」
「そう、俺の名だ。他のことは忘れた」
「忘れたぁ?」
シドと名乗った男は、猫のようにイヴの首元に顔を擦り寄せ、深く甘いため息を吐いた。
イヴは、突然懐いてきた大きな獣に戸惑いながらも、不用意に触れられるのは鬱陶しい。
離れろと命じたが、彼はフェンリルのようなイヴの下僕ではないので、言うことなんかききはしない。
「あんた、魔物でしょ。自分が何の眷属かとか、何で誰にこんなところに封印されたのかとか、覚えてないの?」
「覚えてないな。別に、今さらどうでもいいことだしな」
「どうでもいいことないでしょ。普通、封印を施した奴に復讐しにいったりするもんでしょ。恨み晴らしてきなよ、今すぐ。こういうのは勢いが肝心――はいっ、いってらっしゃい!」
彼を、再び棺桶の封印に戻すことは、さすがにイヴももう諦めた。
それでも、面倒ごとを避けたい彼女としては、シドがどこかの誰かさんへの復讐に目覚め、その者の元へとっとと消えてくれるように仕向けたいのだ。
しかし、イヴの打算だらけの激励も虚しく、シドはにやりと笑って首を横に振った。
「いいや、封印の眠りは意外に心地よくて快適だったからな。別段、腹も立てていない」
「……おおらかだね」
「むしろ、とてもいい夢を見ていた気がしたのに、それをお前に邪魔された。こっちの方が、充分復讐するに値する恨みだな」
シドの声は低く柔らかく、まるで睦言を囁くように甘いが、イヴの首筋に擦り付けた唇が不穏な笑みを刻み、その隙間から鋭い犬歯が顔を出して、彼女の薄い肌をくすぐった。
人間ではあり得ない長さと鋭さの、牙だ。
戯れにそれを突き立てられただけで鮮血が吹き出し、ただのかよわい人間であるイヴは簡単に命を落とすだろう。
「……お望みならば、もう一回眠らせてあげるよ。スコップで思いっきりどつけば、すぐだよきっと」
イヴはそう強がりながら、心の中ではさすがに少しまずい状況かなと思いつつ、ちらりと助けを求めるように視線を下げた。
その先には、彼女の忠実な下僕である銀狼が、赤い目でじっとシドを見据えていた。
フェンリルはシドを警戒はしているようだが、どちらかというと値踏みしているようにも見える。
彼は、イヴの危機にはひどく敏感で、彼女へ敵意を向けるものを決して許さない。
そのフェンリルがうなり声一つ上げていないところを見ると、このシドという魔物にイヴを傷付ける危険がないということだろうか。
彼女が銀狼を眺めながらそんなことを考え込んでいると、不満げな男の声が耳のすぐそばでした。
「俺を前にしてよそ見をするとは――いい度胸だ」
背中に回っていたはずのシドの掌がイヴの後頭部を包み込み、ぐっと上を向かせた。
彼女の勇ましい拳を捉えていたもう片方は、いつの間にか腰に巻き付いていた。
「――っ!」
次の瞬間――イヴが抗う隙も与えず、柔らかいものが彼女の唇に押し当てられた。
それは、見た目の冷たさとは不釣り合いに、いやに温かなシドの唇だった。
足元で、一瞬フェンリルが鋭く唸ったが、シドはそれをちろりと見下ろしただけで、すぐに視線を逸らしてしまう。
そうして、無防備に半開きだった少女の唇を抉じ開け、彼は自らの舌をぬるりと押し込んだ。
ところが、侵入させた舌がイヴの唾液に触れた瞬間、シドはビクリと身体を震わせ、その血のように赤い瞳をこれでもかと見開いた。
(あーあ……)
それを感じたイヴは、心の中で大きくため息を吐いた。そうして、身体の力を抜いて、従順にすべてを預けた。
イヴを抱きしめる男の両腕に力がこもった。
シドの舌は彼女の唾液を掬いとるように蠢き、それを己の口内に奪っていっては喉を鳴らす。
足元の銀狼は鼻に皺を寄せて低く唸りながらも、止めようとはしなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
シドは、ようやく唇を離した。
しかし、イヴを抱きしめる腕を緩める気はないらしい。
酸欠で息を荒げるイヴを見下ろす彼の赤い瞳は呆然としていて、しばらくの間言葉に詰まったように唇を震わせていた。
そうして、やっと振り絞るようにして発した声は、ひどく掠れていた。
「お前……何者だ。なぜ……なぜ、こんなに……」
鮮血に濡れたような瞳は、熱に浮かされたように危うげに揺れ、血色の悪かったシドの白い肌がわずかに赤味を増している。
彼はイヴの唇に残っていた唾液を指の腹で拭い、それを舌で舐めとっては呻くように言った。
「お前――なぜこんなに、美味いんだ?」
そうなのだ。
イヴは、とっても美味いのだ。
なぜだかは分からないが、イヴは魔物にとってはこの上なく甘美な存在であるらしい。
彼女の、血液に始まり、唾液・涙・汗にいたるまで、体液と呼ばれるものはすべて、魔物の好みに恐ろしく合致するのだ。
それは彼らの食欲を満たすというよりは、例えば酒や煙草やお菓子のような嗜好品に近い感覚であるが、困ったことにこれには若干の中毒性があると、イヴ本人は思っている。
なぜなら、一度でもイヴの体液を口にしてしまったものは、彼女の側から離れることができなくなってしまうらしいのだ。
そういう輩が、現在イヴの家にはすでに何匹か居座っていた。
もちろん、フェンリルもそのうちの一匹である。
そしてまた、このシドと名乗った得体の知れない魔物も、イヴの味を知ってしまった。
先ほどの穴を吹き飛ばした人外な力と、人並みはずれた美貌を見れば、彼がどうやら相当高位の魔物であると分かる。
魔物の美醜は、その身に秘めた力に比例するというのが、通説なのだ。
小さく可愛らしい魔物ならば、ペットとして飼うもよい。小さいものは勝手に昆虫やらネズミやらを捕って食うので、餌代もかからない。
しかし、ここまで大型で、しかも人型の魔物となると、世話をするのもいろいろ面倒が多く非常にわずらわしい。
イヴはシドを掘り出してしまったことを心から後悔し、足元の元凶たるフェンリルをもう一度睨んでやった。
「おい、娘。お前の名は?」
そうして視線を逸らしたことがまた気に入らなかったのか、イヴの後頭部を掴んだままだったシドの掌が、彼女の顔を再びぐいっと上向かせた。
それがいささか乱暴で、首がごきりと鳴って痛かったので、イヴは「むち打ちになったらどうしてくれるっ!」と抗議して、無防備だった彼の向こう脛を蹴り付けた。
しかし、シドはわずかに眉をしかめただけで、彼女を咎めることも痛がる素振りもなく、ただ爛々と瞳を輝かせてイヴをじっと見つめている。
そして、音が聞こえるほどごくりと大きく喉を鳴らすと、再びイヴの唇にかぶりつこうとした。
「――だめ」
「……」
だが、イヴは両手で彼の口を塞いでそれを阻む。赤い瞳が、なぜと聞くように眇められた。
「やめときな。私は美味いかもしれないけど、あんまり一度にたくさん口にしない方がいい」
「……?」
魔物にとって美味い存在と認識されることは、同時に非常に危険なことである。
美味いものをより多く食したいと思うのは、人間でも魔物でも同じであろう。
イヴのわずかな唾液に魅せられたものは、では血はどんなに甘いのだろうか、汗は、涙は、そして愛液はと、次々と貪欲に求めるはずだ。
さらには、肉をかじり内蔵を啜り、彼らの欲は果てしなくイヴの身体を解体するに違いない。
しかし、イヴは十八歳になる現在まで、五体満足で無事生きてくることができた。
それには、それなりの理由があるのだ。
確かに、イヴの体液は魔物にとってとても魅力的なものである。
しかし、それは嗜む程度の量であるからいいのであって、もしもそれを超えて口にするようなことがあれば――
「胃が、めちゃくちゃもたれるよ」
何でも、ほどほどがちょうどいいのである。
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