書籍『蔦王』サンプル
書籍版『蔦王』サンプル
※アルファポリスのサイトに掲載中のものと同じです。
1 始まりの舞台
こぽこぽと、硝子の中を上がっていく泡の音が鮮明に聞こえるほど、室内は静寂に包まれていた。
水面まで昇りきった泡は、ぱちんと弾けては消え、次々と大気に溶け込んでゆく。
大きく開かれた窓のそばの広いテーブルの上には、フラスコやビーカー、試験管など、何かしらの実験に使うと思われる様々な器具が並べられ、その脇には大量の本が積み上げられている。
物が整頓されずに溢れている割に、その部屋が見る者にそれほど乱雑な印象を与えないのは、実は必要な物しか置かれていないからだ。
室内を見渡せば、一つ一つの調度品はどれをとっても一級品。
一目で逸品と分かる絨毯には紙屑一つ見当たらず、部屋の中央に置かれた豪華なテーブルセットをはじめ、実験用具や本で溢れかえっている長テーブルの上にも塵一つない。掃除がきちんと行き届いていることがよく分かる。
そしてこの部屋の広さ、驚くほど高い天井の様子から見て、主人の財力も容易に想像できた。
その主人はというと、つい先ほどまでフラスコを日に翳して何やら考え込んでいたのだが、どうやら望ましい実験結果は得られなかったらしく、今は気分転換のつもりか中央のテーブルでティータイムの真っ最中だ。
この部屋の主人は、男である。
窓から降り注ぐ陽光に透ける髪は、まるで上等な絹糸のように美しい白銀色。毛先だけ柔らかく波打ったそれは、彼の肩を越えるほど。
少々気だるげに長い足を組んだ彼は、膝の上に広げた本に視線を落としている。軽く伏せられた長い睫毛は髪と同色。そしてその下からわずかに覗く瞳は美しい紫の光彩をたたえていた。
銀も紫も、この国では非常に稀少な色であり、その二つを持って産まれてくることは、まさしく奇跡に近いという。
香り高い茜色のお茶を満たしたカップを迎える唇は、薄く淡い。
鼻筋はすっと通って形が良く、絶妙に配置された顔のパーツは完璧なシンメトリー。つまりこの男の容姿は相当整っているのであるが、それがどこか作り物めいた美しさに見えてしまうのは、彼の表情がまったくの〝無〟であるがゆえ。
そう、彼は恐ろしいまでに無表情なのだ。
「……どうかしたか?」
表情はないが、瞳は動いて物を見るし、口は開いて声を発する。
何かに気づいて膝の本に落としていた視線を上げ、その美貌にふさわしい艶やかな声で問いを口にしたが、部屋の中に彼以外の人影は見えず、視線の先にはただ壁しかない。
――いや、一面に植物が描かれているかに見えた壁は、よく見ればシンプルな白い壁紙を貼られただけのもの。その上に、本物の蔦がびっしりと伸びているのだ。青々として瑞々しい葉は、風もないのに自ら身を震わせ、蔓を激しく振り回しては必死に何かを伝えようとしているかのよう。
異様な光景だった。
「……?」
その尋常ではない様子に、男が飲みかけのカップをソーサーに戻して立ち上がる。そして、ふと大気の乱れを感じて背後を振り返った瞬間。
――ドォォォッ
静寂をぶち破る爆音が響き、激しい爆風にさらされた。
テーブルの向こう側に吹き飛ばされながらも、とっさに受け身をとって、素早く起き上がった彼の目に飛び込んで来たのは。
「――なっ……」
一つの、見知らぬ人影。
「これは、一体……」
それは、一人の小柄な少女だった。
突然のことに、まさに呆然といった声を発しながら、しかしやはり、何故か男は無表情のままなのであった。
爆発の衝撃で実験用具は壊れ、窓は吹き飛んだが、部屋の大部分は幸い無傷であった。
かなりの爆発であったにもかかわらず被害の範囲が狭く感じられるのは、逆に言うとこの部屋がそれだけ広いということである。
この部屋の主は、名をヴィオラント・オル・レイスウェイクという。
大国グラディアトリアにおいて十年の間、皇帝として君臨しながら、二年前、二十六歳の若さで退位し、今はレイスウェイク大公爵として遇されている。
在位中は画期的な策を次々と打ち出し、父である先帝の時代に傾きかけた国を立て直す一方、不正で私腹を肥やしていた貴族や、圧政により領民を苦しめていた領主などには、時には厳しすぎるほどの処罰を与えた。その美しすぎる無表情から極刑の宣告を受けた者も少なくはない。
賢帝と讃えられながら、〝冷帝〟とも恐れられた彼の跡を継いだのは、腹違いの弟で現在十八歳のルドヴィーク・フィア・グラディアトリア。
先帝の正妻、すなわち皇妃の息子であるルドヴィークが成人するまでと自ら定め、側室の子でありながら皇帝の地位についたヴィオラントが、歴史に残るほどの大改革をたった数年のうちにやってのけたのは、年の離れた弟の治世をより安定したものにするためだったというのは、この国ではあまりにも有名な話だ。
そんな弟想いの彼が玉座に未練などあるはずもなく、縋り付く側近達の懇願も払いのけ、ルドヴィークが成人するや否やあっさりと退位。それからは在位中に得たこの屋敷でひっそりと隠居生活を送っていた。
ちなみに彼の趣味はもっぱら植物の研究であるが、彼の手で交配された作物によりグラディアトリアの食料庫が潤ったという実績を残しているので、まったくの道楽とも言えない。
本日の課題は有効な肥料の開発だったが、残念ながら思うような調合は叶わなかったらしい。
そんなレイスウェイク家に、突然の爆発とともにやってきた、見知らぬ少女。
身に着けていた衣服は爆風によって見るも無惨な状態。髪も真っ黒焦げじゃないかとヴィオラントは慌てたが、その髪は実は元々黒い色だということが、側に寄って見た時の艶やかさで判明した。
「……そなた、大丈夫か?」
ヴィオラントは呆然と床にへたり込んだ少女の脇に膝をつき、自分の上着を脱いで痛ましいまでに白い素肌を包んでやる。長身の彼の上着に小柄な少女の身体はすっかり隠され、無表情の裏で実はあたふたしていたヴィオラントはようやくほっとした。
「火傷はないか? 痛むところは……?」
不可解な状況であり、少女は現段階では明らかに不審者であるが、とにかく大変な爆発に巻き込まれたことだけは確かなので、まずは彼女の状態を確かめようと顔を覗き込む。
すると、少女の方も呆然としながらも顔を上げ、ヴィオラントを見た。
濃い色の、大きな瞳だ。
髪と同じ黒なのかと思いつつ、何故か違和感を感じた彼の前で、少女は突然大きく顔をしかめた。
「――いっ……たぁ!!」
悲鳴を上げて両目を手で覆った少女の様子に、どこかひどい怪我をしているのかと内心焦ったヴィオラントだったが、彼女の両目からポロンポロンと丸いものが二つ落ちたのを見て、今度は驚きで跳び上がりそうになった。
相変わらず、無表情のままであるが。
「いたたたた……あー、痛かった」
絶句して固まってしまった彼の前で、少女は場違いなほどのん気な声でつぶやき、手の甲で何度か両目をこすると、改めて自分の上に影を落とす初対面の男を見上げた。
「――っ……!」
ヴィオラントの無表情をわずかながらも動かしたのは、さらなる驚愕だった。
「……そなたの瞳は……」
潤いをたたえた少女の瞳は、彼と同じ紫で彩られていた。
生まれてこの方、今は亡き母以外に、紫の瞳を持った人間に彼は出会ったことがなかったのだ。
対する少女もびっくり仰天といった様子で、ヴィオラントの瞳を見つめていた。
「……おんなじ色、ビックリした」
幸いなことに、少女に怪我はなかった。
爆発音に驚いて飛んできたレイスウェイク家の侍従長サリバンは、主人の部屋の惨状と見知らぬ少女の存在に驚いてはいたが、すぐさま的確な措置をとり始めた。
医師の肩書きを持つ彼が少女を診断し、異常なしと見ると、同じく駆けつけてきた女官長マーサが、焼け焦げて襤褸と化した衣服を取り払い、少々煤で汚れていた身体を清潔な水と布で拭って、素早く見繕ってきた服を彼女に着せた。乱れていた黒髪も丁寧に梳られる。
身なりを整えられ、窓が大破したヴィオラントの私室で修繕の手配が始まったところで、思いがけない客人はようやく客間に通された。
「あなた、誰?」
ソファに座るや否や問いかけてきた少女は、皇帝時代に美しい者を見慣れていたヴィオラントを唸らせるほど、可憐な容姿をしていた。
艶やかな黒髪は、その華奢な肩につくかつかないかという短さで、柔らかくウェーブを描き、ふわふわとしている。
この国では見られない雰囲気を持つ顔立ちで、ちょこんとした鼻も薄紅色の唇も小振りだが、彼を驚愕させた紫の瞳だけはこぼれ落ちそうなほど大きい。おまけに縁取る黒く長い睫毛がそれをさらに際立たせている。
ようやく落ち着いたのか、柔らかそうな頬は血色を取り戻し、思わずそっと触れたくなるような愛らしいピンク色になっている。
(……アマリアスのお気に入りの人形に、そっくりなのがいたな。黒髪で大きな瞳の……)
思わず見とれる間にこちらが問うべきことを先に言われてしまったヴィオラントは、気を取り直すようにコホンと一つ咳払いをして、改めて少女に向き直った。
「私は、この屋敷の主だ」
「あ、そう。お邪魔してます。日本語、上手ね」
「ニホンゴ?」
「日本語」
「え?」
「……え?」
二人は、しばし見つめ合った。
無表情の下でヴィオラントは疑問符をいっぱい浮かべる。そんな彼の頭の中を察したのか、訝しげに眉を寄せた少女は、わずかに不機嫌そうな口調で問いかけた。――しかめっ面も可愛いと思われているとは知らず。
「あのさ」
「うん?」
「ここ、どこ?」
「帝都の北東、レイスウェイク家だ」
答えたヴィオラントの言葉に、少女は一瞬きょとんとした。
次いで、華奢な両腕を組んで首をひねったかと思うと、ぼそぼそと独り言をつぶやく。
「帝都って……東京のことかな? 金持ち外人のお宅に、なんでお邪魔してんの……私」
ヴィオラントには、彼女が何を言ってるのかまったく理解できなかった。
野咲菫はつい先日、十六歳の誕生日を迎えたばかりである。
ちょうど同じ頃、通っていた私立高校から、アメリカの学校に編入する手続きが取られた。
菫の両親はともに医薬の開発に携わる研究員で、彼女が中学在学中よりロサンゼルスにある研究所本部に勤務していた。
本来なら、未成年であり義務教育中の菫も両親とともに渡米するべきだったのだが、せっかく中高一貫教育の難関校に合格していたことと、幸い年の離れている兄がすでに成人し、就職していたことから、兄妹で日本の自宅に残ったのだ。
菫より十歳年上の兄・優斗は、仕事に夢中になって子育てがおろそかになりがちだった両親に代わり、小さな時からずっと妹の面倒を見てきたので、今さら両親がいなくなったところで彼ら兄妹の生活にまったく支障はなかった。
そうして、特に大きな問題もなく四年近く過ごしてきた野咲家の兄妹だったが、今年二十六歳になった優斗が結婚することになった。
相手は教師をしている彼の同僚で、三年の交際を経た後のゴールインだ。家庭的で穏やかな性格の婚約者は、菫のことも実の妹のように可愛がってくれ、入籍後は三人で一緒に住むのが当然だと思っている、優しい女性。
菫も彼女のことは大好きだし、妹可愛さに口うるさくなりがちな兄をなだめてくれる彼女が義姉になるのは大歓迎だったが、同居についてはどうしても首を縦に振れなかった。
新婚夫婦に遠慮するとか、居心地が悪いとか、そういうことではなくて。
菫としては、もうそろそろ兄を解放してやりたかったのだ。
小さい時から、親代わりになって菫を育ててくれた兄。今まで彼に、いくつもの犠牲を払わせてしまったことを、もう幼い子供ではない菫は知っている。
妹を優先しすぎたために愛想を尽かされて別れた恋人がいたことも。本当は大学院に進んで勉強を続けたかったのに、研究で時間が不規則になれば妹と一緒にいてやれないからと、さっさと就職の路を選んだことも。
真実を知ってしまえば、罪悪感にいたたまれなくなりながらも素直にその胸の内を明かすこともできず、ここ一年ほどは彼に反発することが多くなっていた。
兄が心配すると分かっていながら無断外泊したり、あまり素行のよろしくない男とつき合ってみたり――
彼はその度にひどく怒って怒鳴りつけるが、それでも菫に愛想を尽かしたりはしない。
菫は、いつの間にか自分がそれを確認したくて反抗的な態度をとっていたのに気づき、そしてそんな自分が嫌で、兄の婚約を契機に決心したのだ。
彼から――温かい親鳥のもとから巣立つことを。
まずは一人暮らしを考えた。保証人がいれば高校生の菫が部屋を借りることも無理な話ではないが、それではやはり心配した兄が毎日のように顔を出すに決まっている。
それでは駄目なのだ。彼の手が届くところでは、駄目なのだ。
だから、思い切って菫はロサンゼルスの母親に連絡をとった。
もう長い間、年に数回会うか会わないかの関係でしかない両親とは、正直どう接していいのか分からない。それは向こうも同じようで、ひどく他人行儀な会話になってしまうのが常だった。しかし、そっちに行って一緒に住みたいと告げた娘の言葉に、両親は思いがけず喜んだ。
実は兄にはまだ一言の相談もしていなかったのだが、彼も納得済みだと嘘をついて頼むと、父と母は手続きも引っ越しの手配もすべて任せておけと興奮気味に応えてくれ、今さら一緒に住みたいなんて言って面倒くさがられたら――と、少なからず不安に思っていた菫を拍子抜けさせた。
当然、兄にはすぐに事情がばれて大げんかになった。
何度も二人で話し合い、菫の決心が固いことを知った兄は、結局折れるしかなかった。学校に事情を説明すると、菫の成績が基準を満たしていたのが幸いして、現地にある姉妹校が編入を許可してくれることになり、それからトントン拍子に話が進んだ。
そして、それらの手続きのために、菫は両親と今までにないほど電話で何度も言葉を交わした。
もしかしたら、疎遠だった親子の距離を近づけるいい機会なのかもしれない、と菫は思った。
しかし、それが叶うことは、ついになかった。
すべての準備を終え、クラスメイトや遊び仲間によって盛大な送別会も催され、いよいよ明日の飛行機で旅立つという夜。
事件は起こった――
「実験用テーブルの脇が、一番ひどい有様でした」
爆発の起こった部屋の掃除やら修繕の手配やらを済ませた侍従長の報告に、ヴィオラントは心当たりを思い浮かべる。
「実験用テーブルの脇……? 確か、余った材料をその辺りに……」
「置いてらっしゃいましたか。管理はいかがなされておいでで?」
「いや……その、適当に……」
年配の侍従長と、その事情聴取にしどろもどろに答える屋敷の主人のやり取りを、優しげな女官長が渡してくれたホットミルクをふうふうしながら眺めていた少女は、名探偵さながら、キラリと眼光鋭く真犯人に人差し指を突きつけた。
「――犯人はお前だ!」
「人を指差すのは良くないぞ、クリスティーナ」
「誰? クリスティーナって」
「いや、そなたがあまりにそっくりなもので」
上の妹が可愛がっていた人形の名だと教えてくれた銀髪の男を、菫は見つめた。
(――イケメンだ。たぶん、すっごいイケメンだ。無表情だけど)
それからぐるりと部屋の中を見渡す。
見事な調度品の数々。履かされたローヒールの靴の下には、上質な絨毯の優しい感触。高い天井。磨かれた窓ガラス。
温かいミルクで満たされたカップまで、目利きとはいえない菫が見ても超高級と分かる品物。
(……ここは、どこ?)
「どうした? どこか痛むのか?」
眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった菫を心配しているのか、そっと覗き込んでくる屋敷の主人も。
「外傷は見当たりませんでしたが、もしかしたらどこか打ってらっしゃるやもしれませんね。しばらくは安静になさった方がよろしいかと」
安心させるように、落ち着いた声で話すロマンスグレーの侍従長も。
「まあまあ、お嬢様のお部屋をご用意しなくては。お洋服も。腕がなりますわ!」
温かく迎え入れるような笑顔で、そっと肩を抱いてくれる女官長も。
日本語が流暢なだけの外国人ではないと、菫も薄々感じ始めていた。
「みんな……日本語上手だね……」
ようやくそれだけ口にする。
(――いったい、何が起こってるの?)
「ところで、そなたの名は?」
銀髪の男が問う。
「すみれ――野咲、菫……」
「スミレ? 変わった響きだな、初めて聞いた。ノサキとは家名か?」
「あなたは――れいすうぇいく……さん?」
「レイスウェイクは家名だ。私はヴィオラント・オル・レイスウェイク。レイスウェイク家当主、オルの血を受け継ぐ者。この名を知らぬところを見ると、そなたは違う大陸の出か?」
「た、たいりく――大陸?」
「このグラディアトリアがある大陸は、四方を水に囲まれているからな。別大陸とは国交がないので私も行ったことがないが、海を渡るのは鍛えられた軍人でも命懸けだと聞く」
――ここは、レイスウェイク家。
――ここは、グラディアトリア。
そんな国ない。地球にはない。
自分は、歴史の成績はいまいちだが地理は得意なのだ。世界中の国の名前と場所を全部覚えてるんだ。グラディアトリアなんて国は、地球にはない。
菫は、海を渡るどころか、生きる世界そのものを飛び越えてしまったのだろうか。
「実験材料の残りが混じり合って反応したことが、爆発の原因でしょうね。後始末はきちんとしていただかなければ困ります、旦那様」
「ああ……すまぬ。本当に」
趣味である実験の不始末から大惨事を引き起こすところだったと、子供のように注意されている屋敷の主を、菫は呆然と眺めていた。
その時、何かがそっと優しく手の甲を撫でてくる感触で我に返り、ようやくミルクのカップを持つ手がひどく震えていることに気づいた。
『異世界にトリップ』
――なんて、ファンタジーな言葉を思い浮かべる自分に一番びっくりしたのは菫自身で、あまりにも非現実的な状況に、いっそ現実逃避してやろうかと半ば眼を閉じて考え込んでいた。
そんな彼女をリアルに繋ぎ止めたのは、再び触れてくる何かの感触だった。――それは何か。
「……葉っぱだな」
そして、蔦だ。
ハート型の緑の葉をたっぷりつけた蔦がうごめき、まるで菫をなだめるように何度も優しく頭を撫でてくるばかりか、出会いを歓び、握手を求めるように手にまで触れてくる。
(……なんじゃ、こりゃ。叫んじゃおっかな……)
異様な光景に顔を引きつらせた菫だったが、いや待てよと、思い直す。
異世界トリップなんて、そんな電波な展開はごめんである。
(そうだ、きっと鎖国とかして他国と交流がない国なんだよ。昔の日本みたいにさ)
どういう理由で自分がそのような場所に来てしまったかは、この際置いておくとして……
未知の国ならば、日本と違う常識がまかり通っているという可能性もなくはないだろう。
(この国じゃ、蔦が動いてスキンシップするのも当たり前だったり……)
郷に入っては郷に従え、である。――よし。
「――どうも……」
半ば無理矢理自分を納得させたものの、植物に話しかけるという行為には凝り固まった既成概念がいささか邪魔で、挨拶の言葉はそっけなく蚊が鳴くような小声になってしまったが、手はしっかりと擦り寄る蔦を握りしめた。
蔓はしっとりと瑞々しく、葉は思ったより柔らかくて意外なほど手に馴染み、本当はパニック寸前だった菫の心を和ませてくれた。
その光景を実は屋敷の主と侍従長が冷静な目で見つめていて、彼らは少女と植物のファーストコンタクトが和やかに行われたのを確認し、ようやく彼女に対する警戒を完全に解いた――などとは、蔦に絡み付かれた菫は、気づくよしもない。
「客人として歓迎しよう、スミレ」
菫の友好的な態度に感激したのか、アイドルに握手を求めるファンのように殺到してくる蔓達に、笑顔を引きつらせながら対応していた菫は、背後からかけられたその言葉に振り返った。
「客人? こんな怪しい現れ方したのに?」
わけの分からない状況だから、丁寧に持てなしてもらえるのは願ってもないことだが、突然爆発とともに降って湧いた小娘など、怪しいと思わない方がおかしい。菫だったらとりあえず、警察に助けを求めるか相談するに違いない。
だから、素性も分からない相手にいきなり親切にするなんて何か裏があるのではないか、と逆に警戒してしまう。
「……なんで?」
「セバスチャンが歓迎しているからな。彼は、我々に害をなす者は迎え入れぬ」
「……セバスチャン?」
「そなたと固く握手している、その蔦の名だ」
やっと紹介されたのが嬉しいのか、菫の手を握った(というか絡まった)蔦の束はさらに、にぎにぎにぎ。
「――蔦っ!? セバスチャンといえば、執事の名前でしょっ!」
異議ありっ! と、食ってかかってくる菫を、相変わらず無表情のまま見下ろすヴィオラントだったが、声だけは感心したような響きを帯びていた。
「よく分かったな。セバスチャンは我が家の執事だ」
セバスチャンと呼ばれるフレンドリーなこの植物は、ヴィオラントの研究中に偶然生まれた突然変異種で、言葉こそ発しないものの、自ら考え、自ら動く、レイスウェイク家の強い味方。
驚異的な早さで成長し、今や屋敷のすべての壁は、内外を問わず彼の身体に覆われていて、実質的に彼の管轄下にあるといってもよい。
生みの親とも言えるヴィオラントに忠誠を尽くす彼は、訪問客への応対も自ら率先して行う。
その結果、害意や悪意を持った者は、ヴィオラントどころか侍従長にも面会できず、玄関の呼び鈴を鳴らすことさえ阻まれる始末だ。
「我が家の執事が迎え入れた者を、当主が丁重にもてなすのは当然のこと」
「……へえ」
「聞きたいことはいろいろとあるが――まずは、寛ぐといい」
そう言って、レイスウェイク大公爵は客人の少女を賓客用の部屋に案内させた。
その後、お約束通りに天蓋付きのゴージャスベッドを発見した菫は、これまたお約束通りにダイブしてふかふかとした寝心地を堪能すると、その権利を与えてくれた一番の功労者(の一部)を壁に見つけ、今度は自ら手を差し出した。
「ありがとう、セバスチャン。お世話になります、セバスチャン」
そうして柔らかな葉と握手をしながら菫は、
――やっぱりこれって普通じゃないよね。この情報社会にこんな不思議な植物が話題にならないはずないもんね……
と、今いるこの場所が自分の理解の及ばぬ世界、つまりは〝異世界〟であると認めざるを得なくなってきていた。
湯浴みを済ませたレイスウェイク家の当主は、窓の壊れた私室の隣にある寝室で、本日届いた手紙に目を通していた。
それが、ヴィオラントの毎夜の日課である。
手紙の差出人は、皇帝時代に彼に仕えていた貴族やその子息であったり、交流のあった他国の王家の者であったりと、様々だ。
皇帝として十年間大国グラディアトリアに君臨し、汚職の根絶と国民の生活水準向上を図った上、それらをほぼ実現して、惜しまれながら退位したヴィオラントに師事したいと願う者は、国内外を問わず数多くいる。
国王自ら赴いて、宰相として力を発揮してほしいと頭を下げる国まであった。
もちろん、破格の報酬を提示するのだが、玉座を退いても莫大な資産を持つヴィオラントがそれにつられるわけもなく、またそもそも愛する兄弟のいるこの国を彼が出ようとするはずもなく。結局すげなく断られたという話はあまりにも多い。
それでも、諦めきれずにしつこく引き抜こうとする国の使者は、無念にも有能な執事に門前払いを受けて面会も叶わず、仕方なくこうして手紙で切々と訴える。
それらにヴィオラントは、毎回丁寧に返事を出す。――もちろん、断りの返事であるが。
そして、国政や領地の問題に関する相談事といった自国の者からの手紙にも丁寧に返事を出す。決して出しゃばらず、あくまでもアドバイスという形で。
何故なら、ヴィオラントはもう政治の表舞台に立つつもりがまったくないのだから。
妙な関わり方をして引きずり出されてはたまらない。
そんな彼が、決して返事を書かない手紙もある。それは大抵良い香りがする封書だ。
――ヴィオラントは、未婚である。
皇帝時代に、周りは皇妃や側室を娶ることを強く勧めたが、〝期間限定皇帝〟のつもりの本人にまったくその気がなかったのだ。
ただ、外交上の関係や、あるいは貴族達の力の均衡を保つため、やむを得ず差し出された女性を迎えなければならない場合もあった。
禁欲家ではないヴィオラントは、愛情はなくても彼女らと時折関係していた。そしてそんな見目麗しい銀髪の皇帝に入れ揚げた多くの姫君達は、彼の退位に際し、生家に帰されたり他家に嫁がされたりしたものの、また側に置いてもらいたいと、こちらも切々と文をしたためて送ってくるのだ。
現在、ヴィオラントは母方の祖母の実家であるレイスウェイクを名乗り、現皇帝より大公爵の称号を賜ってはいるが、政治的な役職には就いていない。それでも、あわよくばその妻の座にと狙っている女性は少なくないのだ。
しかし、筆まめともいえるヴィオラントでも、彼女達に返事を書くことは一度たりとてなかった。
今日届いた封書は、甘い香りのするものばかりだった。
彼が躊躇なくそれらを屑かごに放り込み、就寝前の一杯を、とワインをグラスに注いだ時、トントンと軽くドアをノックする音が聞こえてきた。
「――どうぞ」
有能な執事が先に知らせてくれていたので、来訪者が誰だか分かっていたヴィオラントは、ワインの瓶をテーブルに戻してドアのそばまで行くと、自ら開けて客人を迎え入れた。
「……こんばんは」
部屋の外には、小柄な黒髪の少女が立っていた。
精巧なドール・クリスティーナにそっくりで、ヴィオラントと同じ珍しい紫の瞳を持つ、愛らしい少女。
スミレ――それはグラディアトリアでは聞き慣れない響きの名で、彼女自身、言葉は通じるようだが世情には疎い様子であった。
ゆえに、彼女を異大陸の出身と見当を付けたが、夕餉の際には食べ物も特に問題なく口にしていたようなので、当家でもてなすのに困ることはないだろう。
よそ者に厳しいセバスチャンがいたく気に入って、即座に懐に迎え入れた上に、貼りつかんばかりの勢いでもてなしている。
不可解な登場の理由はぜひとも問いたださねばならないが、本人も混乱した様子であったし時間も夜を迎えていたため、明日の朝、詳しい話を聞こうと夕餉の席で話したところだった。
そんな彼女がどうも寝付けない様子だと知らせてきたのは蔦の執事で、それならばこちらへ案内せよと指示を出したのはヴィオラントである。
夜更けに、女が男の部屋を訪ねるのはあまり行儀の良いことではないが、スミレという少女は見たところ十代半ばといったところか、あるいはそれよりもまだ幼く見える。
背丈などはヴィオラントの胸元に届くかどうかという小柄さで、その言動は屈託なく無邪気であり、とにかくあどけない様子。男女の間違いなど起こるはずもないだろう。
それに、弟や妹達を慈しんできたヴィオラントは子供慣れしているので、少女が見知らぬ屋敷で心細い思いをしているとしたら落ち着かせてやらねばと考えての気遣いだった。
菫は、その瞳の色を淡くしたような薄紫のナイトドレスに、可愛らしい花柄のガウンを羽織っていた。おそらく女官長が用意したものだろうが、残念ながらサイズがまったく合っていない。
そもそも、レイスウェイク家にこんな小さな客人が訪れることなどないのだから、いたし方ない。
わずかな時間で少女用の衣服や客室を調えた女官長マーサの有能さを、ヴィオラントは誇りに思う。
「あの――なんだか、いろいろお世話になって……」
「気にすることはない」
「うん、えっと……ありがとう」
大きめの夜着に身を包んだ少女はさらに幼げな印象になっているが、その瞳は、不安の中にもしっかり芯の通ったものを感じさせる強い光を持っていた。
ヴィオラントが勧めたソファに腰を下ろす前に、とりあえずこれだけは伝えておかなければという風に感謝の言葉を口にし、彼女の国の礼儀なのか、ちょこんと頭を下げる。
その拍子に、ふわりと揺れた柔らかく癖のある黒髪を、ヴィオラントは目を細めて見やった。
その後すぐに、軽いノックとともにお茶の用意をした侍従長サリバンが現れた。
彼は手早くテーブルの上からワインとグラスを片付けると、主人には紅茶を、客人には温かいミルクを用意する。
複雑そうな顔で目の前に置かれたホットミルクを見つめる菫に、主従は気づかない。
今宵はもう下がって休むようにと言う主人に挨拶をすると、ロマンスグレーの侍従長は、ソファに埋まっている可愛らしいドールに似た客人に優しい瞳を向けた。
「それでは、お嬢様もお休みなさいませ」
「おやすみなさい」
静かにドアが閉まると、ヴィオラントは菫の隣に腰を下ろした。
彼には寝室で客人をもてなす習慣はないようで、ソファは二人掛けらしきものが一つ置かれているだけ。明らかに接客用ではない。
(だからといって、いきなり距離、近くない……?)
と菫が思っているとは知らず、彼は紅茶で口を湿らせてから「さて」と話を切り出した。
「眠れないようなら、少し話を聞こうと思うのだが、よいか?」
「うん」
「眠くなったらすぐに言いなさい。無理をすることはないから」
「はい」
明日はいよいよ、日本を離れるという日の夜。
模試の監督で休日出勤していた兄からは、急用で少し遅くなるができるだけ早めに帰る、との連絡があった。
その日、交友関係の広い菫のために行われた送別会――というか壮行会はバラエティ豊かで、まず午前中にクラスメイト主催の会が行き付けのカフェを借り切って執り行われ、午後からは遊び仲間がカラオケボックスに集まって別れを惜しんでくれた。
前者と後者では、参加者のタイプが異なり、雰囲気もがらりと違う。
菫が通っていた高校は中高一貫の進学校で、どちらかというと裕福な家庭の真面目な子供達が多かった。菫は愛され系な容姿の上に、周りから浮かないように人当たりのいい少女を演じていたため、クラスメイトや先生にも可愛がられ、それなりに楽しい学校生活を送っていた。
一方、ちょっとした夜遊びや休日にはめを外して遊ぶ時の仲間は、世間一般で不良と呼ばれるタイプの者が多かった。だからといって、菫が飲酒や喫煙、あるいは万引きなど法に触れる行為に手を出すことはなかったし、彼らに合わせて特別派手な格好をしていたわけでもない。ただ目立つ容姿のおかげでそちらの方の交友関係はどんどん広がっていった。
そういうわけで、菫は一日で毛色の違う二つの送別会をはしごしたわけだが、寂しくなると涙ぐんでくれる双方の仲間達をなだめながらも、一滴の涙も浮かんでこない自分の薄情さに呆れていた。
男女を問わず友達はたくさんいると自負していたし、彼らと他愛のない会話に興じ、くだらないことに笑い転げている一時は確かに楽しかった。
疎遠になっている両親や兄に対する複雑な思いを、打ち明けようかと思ったこともなかったわけではないが、彼らが自分のすべてを受け止めてくれると言い切れるだけの自信が持てず、結局は相談することはなかった。
唯一、菫が心を開いて素の自分で接することができたのは、保育所からの付き合いである近所の幼馴染達だった。野咲家の事情を知る彼らは、時に菫の兄や姉のように慰めたり叱ったりしてくれる、ありがたい存在だった。
しかし、菫が彼らとは違う中学に進学したことから顔を合わす機会が減り、中学卒業以降はそれぞれが別々の高校に進んだり、職に就いて忙しくなったりして、最近では随分と縁遠くなってしまっている。菫が繁華街で遊ぶようになったのも、彼らとのすれ違いが多くなってからだった。
それでも、兄が気を回して連絡してくれたらしく、明日は揃って空港まで見送りに来てくれるそうだが、彼らと別れる時はさすがの自分も泣くだろうなと、菫は苦笑した。
――彼氏とも、別れた。
半ば兄への当てつけで付き合い始めたアツシとは、繁華街でナンパされたのが始まりだった。今時っぽく長い髪を明るく染めていて、見た目はまあまあ格好良かった。とはいえ、彼の猛アタックをかわすのが面倒くさくなったという理由からの交際だから、特別好きだという気持ちも抱かなかったが、初体験の相手は彼である。
菫の中学までの彼氏は純粋で幼く、手を繋いでキスするだけで関係がそれ以上進むことはなかったが、女慣れしたアツシはそれだけでは満足せず、しつこく迫られて「まあ、いいか」という程度の気持ちで身体を許してしまった。
いつも自信に満ち溢れてぐいぐい菫を引っ張っていく彼に、自分の寂しさを払拭してもらいたいと、少しは期待していたのかもしれない。けれども近付けば近付くほど、触れれば触れるほど、その自信の根拠のなさと人間性の薄っぺらさを知ることとなり、彼に対する愛情が生まれてくることは、残念ながら最後までなかった。それなのに関係を持ってしまったことは、今思えば軽卒だったし、馬鹿なことをしたと後悔している。
そんなアツシには、送別会から帰ってきた後、電話で別れを告げた。
近ごろは彼の執着や束縛がかなりエスカレートしてきていて、正直窮屈に思い始めていた菫には今回の渡米はいいきっかけだったが、相手の方は寝耳に水だったらしい。
最初は「家を出たいなら俺と住もう」だの「いっそ結婚しよう」だの、親から小遣いをもらって遊び回ってる身分で甘いことを言うな――と、菫を呆れさせる説得をしていたが、彼女の別れの意志が固いと知るや否や豹変した。
「勝手なこと言うな」
「俺と別れられると思うな」
「ふざけるな」
だんだん物騒になっていく彼の言葉に、いっそ明日、飛行機が出発する直前に電話して言い逃げすれば良かったと、菫はものすごく後悔した。
「――別れるくらいなら殺してやる」
一方的に電話を切ろうとする直前に吐き捨ててきた言葉に、ゾクリと背筋が寒くなる。
「お兄ちゃん、早く帰ってこないかな……」
夕食は兄と一緒に食べようと、用意だけは済ませてある。
物騒なアツシの発言にびびって、家中の戸締まりを確認した後、気を紛らわすためにリビングのソファに座ってテレビをつけた。ゴールデンタイムの番組のくせにつまらないなと思ったが、それでも少し落ち着いたのかなんだか急に眠くなってきた。
明日の今頃は飛行機の中だ。
新しい生活には期待と不安がいっぱいあるが、両親との関係も一新する予感。
未来は明るいと信じているが、今日は何だかとても疲れた。
兄が帰ってきたら起こしてくれるだろうと、テレビを消してウトウトし始めた菫は、数分後……
炎と煙の中にいた――
「……火をつけられたと?」
「かもしれない」
「その、男にか?」
「それは分かんないけど、しそうなヤツではある」
気づいた時には、もう火が燃え広がっていた。
慌ててドアに向かったが、どこもかしこも炎に包まれてなす術がなかった。
絶望するよりもただ呆然として立ち尽くす菫を紅い炎が舐め、その服を焦がす。
叫ぼうかと思った瞬間、空気が揺らぎ、部屋の中にあった何かに引火したのか急激に炎が大きく膨れ上がって、彼女を呑み込んだ。
「もうダメかなっと思ったら、あの部屋にいた」
「……」
「熱いものに包まれて、ああ死ぬんだと思ったら――服だけ焼けてたみたい……」
実際、服はほとんど燃え屑になったが、しかし菫は無傷だった。
「不可解だな」
「いや、ほんとに」
「考えられるのは――そなたのところの爆発と、私の不始末からの爆発がリンクしたことぐらいか……」
「え、それってよくあることなの?」
「いや、まったく」
そんなことは、空想上の現象でしかない。
ルドヴィークが子供の頃、書庫で見つけて読んでいた絵本と同じくらい非現実的だ。
クロヴィスがその矛盾点をこと細かにこき下ろし、嬉々として彼の夢を壊していたな――と、ヴィオラントはつぶやいた。
知らない名前の人達を引き合いに出されても菫には分からなかったが、自分にとってのファンタジーはこの世界にとってもファンタジーだということはよく分かった。
どうやら、魔法だの魔物だの精霊だのは、存在しないらしい。――少し、ほっとした。
「不可解な現象ではあるが――まあ、焼け死ななくて良かったな」
「ほんと、良かった」
死の恐怖を思い出して今さらながら青ざめていた菫の肩を、屋敷の主人は優しく抱いてくれた。
その大きな手が温かく、見た目は全然違うのにどこか兄に似ているように思えて、とても安心できた。
何となく甘えてみたくて身体の力を抜くと、そっとその胸に抱き寄せられた。
「これも何かの縁だ。落ち着くまでここにいるといい」
ヴィオラントという男は異常なまでに無表情で、一見怖くも感じるが、先ほど客室で着替えを用意してくれた女官長は、「旦那様の癖ですのでお気になさらず」と言っていたし、こうして温かい腕の中に包まれて声だけ聞いていると、とても穏やかで優しい人物に感じられる。
完全に気を許したわけではないが、もうすでにずいぶん親切にしてもらったし、何よりほかに行く当てもないので、申し訳ないと思いつつ菫は彼の好意に甘えることにした。
腕の中で眠ってしまった少女を抱き上げ、ヴィオラントはベッドに向かった。
ほとんど飲まれなかった紅茶と、まったく口をつけられなかったミルクは冷めてしまったが、明日、メイドが片付けてくれるだろう。
抱き上げた身体は真綿のように軽かった。
ヴィオラントは弟妹にねだられて、幼かった彼らを抱き上げたことは何度もあるが、こんな危うい存在を運ぶのは初めてだった。
閉じられた睫毛は髪と同じ艶やかな闇の色。
長く繊細なそれは、彼女の造形の美しさを改めてヴィオラントに知らしめた。
さらに、今は閉じられたその瞼の下には、彼と同じ希少な色の瞳が隠されている。
――突然、ヴィオラントの懐深くに飛び込んできた、不可解な存在。
皇帝の座という華々しい舞台からすすんで降りた彼は、まだまだ長く続くであろう余生をひっそりと過ごしていくつもりだったので、単調な日常を乱す彼女のような存在は、正直なところありがたくはない。
しかし、本当に迷惑なら不法侵入者として警備省に突き出すこともできるし、哀れと思うなら、国家宰相を務めるすぐ下の弟に相談すれば、上手く保護してくれるだろう。
どちらにせよ、ヴィオラントがわずらわされずに済むように処理することは簡単なのだ。だが、この少女に関しては何故かそんな気は起こらなかった。
元来、彼は己の身内以外には興味があまりない。
もちろん、皇帝家に産まれた以上、国家に対する愛情がないこともないが、彼が皇帝として尽力した大きな理由は弟妹の将来の安泰と、彼らの生母あるいは養母である先々帝の皇妃のためだ。
それが、ひいては国家のためになり、国民のためになったから慈悲深い皇帝として崇められただけで、彼が時にはひどく冷酷になれることを、ある程度地位のある貴族なら誰もが知っている。
また、それがヴィオラントの表情をなくした要因でもある。
元々、彼は大らかで穏やかな性格であった。しかし、大改革に付き物の粛清を断行する場合、個人の感情は邪魔になる。敵の多い宮中においては、私情を捨て、哀情に目をつむり、時に非情にならなければならない。相手に考えを読まれ、付け入る隙を与えてはならない。
そうやって表情を押し殺し続けた結果、ヴィオラントは無表情が常になってしまったのだ。
彼の弟妹はそれを職業病と呼び、治そうと躍起になっているが、本人はそれほど気にしていなかったりするのでいまだ治らないままだ。
そっと小柄な身体をベッドに横たえると、離れる気配を無意識に感じたのか、白い両腕が縋ってきた。たやすく振り払えそうなほど弱々しい腕を、しかしヴィオラントは拒まなかった。
少女は、柔らかな物腰に隠された彼の排他的な心に、いとも簡単にすとんと入ってきた、不思議な存在だった。
彼女はこのグラディアトリアではなく、〝ニホン〟という、存在するかどうかも分からない〝異世界〟の国にいたのだという。
皇帝時代には、その美しさと冷酷さで神とも魔王とも囁かれたヴィオラントだが、実際はただの人間でしかないので、知らないものは知らない。
もしかしたら、未知の大陸にそのような場所があるのかもしれないが、いずれにせよ不可思議な現象のおかげで、焼け死にかけた菫は命拾いしたのだ。
もう、それでいいではないかと、思えてくる。
国政を離れた自分が思わぬ拾い物をしたとしても、国に迷惑をかけることはあるまい。
ヴィオラントは菫に襟元を握らせたまま、自らもベッドに上がった。
馴染んだシーツの上に、今夜は柔らかな存在が加わった。
ふわふわの黒髪が鼻先を掠めた時に甘い香りがしたが、ヴィオラントには彼が知っている女達の媚を含んだものとは違う、可憐な花の蜜のそれのように思えた。
髪をそっと撫でてやると、安心したように寝顔がほころび、ヴィオラントはその幼さを愛おしいと感じる己の心に気づいた。
「兄上は、さぞ心配なさっているだろう……」
自分にも妹が二人いるので、親代わりに彼女の面倒を見ていたという菫の兄の気持ちはよく分かる。
可愛い妹が火事にあって、しかもその後行方が分からないなんて、自分なら気が狂いそうだ。
それにしても、まだ確かではないらしいが、別れ話に逆上して暴挙に出たと思われる相手の男は許しがたい。火事がもし本当にその男の仕業で、自分が菫の兄だったら、必ず一番残酷な形であの世に送ってやると思う。
(こんな小さい娘に、よくも……)
菫は、炎に包まれた事情を説明する際、交際している男がいたことは告げたが、さすがに肉体関係があったことまでは喋っていない。
当然現時点では、ヴィオラントは彼女を見たまま、純潔な少女だと思っている。
彼が真実を知るのは、翌朝のことだった――
2 由々しき問題
東の空が白み始めていた。
グラディアトリアでも、朝には太陽が昇り、夜には月と入れ替わる。
太陽も月も世界にたった一つ。菫の生まれた世界とまったく変わりはない。
カーテンの隙間からちらりと光がこぼれていたが、部屋の奥に据えられたベッドはさらに天蓋で覆われているため、まだ弱々しい朝日はその中にまでは届かない。
(……心臓の音)
心地よい温もりと香りに包まれてぼんやりと目覚めた菫は、トクトクと一定のリズムをきざむ鼓動の音に、それらが人肌のものであることを知った。
(……お兄ちゃん?)
いや、兄は確かに添い寝をしてくれたが、それは菫が小学校を卒業するまでの話で、思春期に入ってからは一度もそんなことはない。
じゃあ、アツシか。
いや、奴とは確かに別れたし、そもそも一緒に寝たことはあっても眠ったことはない。
(……誰だろう)
あまり寝起きのよろしくない菫の思考は、なかなか動かない。
しかも心地よいまどろみの誘惑には抗いがたく、現代っ子らしく楽観的な菫は、
(まあ、誰でもいっか)
と開き直って、滑らかなシャツに覆われた温かい胸元に擦り寄った。
すると、大きな掌が頭を優しく撫でてくれる。――幸せだ。
(……やっぱりお兄ちゃんかな)
そう思った矢先、額に降ってきたのは柔らかなキスの感触。
(……ちがうな)
兄は優しくて特に菫にはベタベタに甘いが、日本男子なので妹に親愛のキスなんかしない。
ただ、野咲の家系にはわずかながら外国の血が入っていた。母の曾祖父がイギリス人だったらしく、菫の瞳の色が紫なのはそういった遺伝子の影響らしい。それでもほぼ日本人の家系に、それも紫の色が出るのはやはり大変稀なことであるという。
菫は先祖返りらしい紫の瞳が嫌いではないが、小学生の頃はそれを理由にからかわれて嫌な思いをしたことがあるし、生活指導の教師にカラーコンタクトと疑われるのもわずらわしいということで、中学入学以来、黒のカラーコンタクトを着用している。そのカラーコンタクトは昨日、火事に巻き込まれた時に水分が飛んでしまったらしく、あまりの痛さに目から外してしまったのでもう使えない。
そんな菫の紫の瞳は、まだ姿を見せない。持ち主である菫は瞼が重くて、まだうだうだしていたいのだ。
すると何者かの唇が、今度は瞼に落とされた。
(……くすぐったいな~)
優しくいたわるようなキスは頬に流れ、その柔らかさを堪能するように、少し強く押し当てられた。
「ん……」
こそばゆくて、そしてどこかじれったくて、ぐずる赤子のように菫が頭を動かすと、故意か偶然か唇が触れ合った。
ドキリと自分の胸が高鳴った気がして、菫はかすかに瞼を開ける。
すると目の前に広がるのは、鏡に向き合っているのかと錯覚しそうなほど、そっくりな紫の色彩。
(……そうか、あの人か)
名前、なんて言ったっけ――? 外人の名前は覚えにくいな。
ジョンとかボブとかマイクなら馴染みがあるのにな、英語の教科書で。
そうだ、確か――
「ヴィ……、ヴィー……?」
――なんだっけ?
紫の瞳がかすかに細められる。どうやら苦笑されたようだ。
そして、目覚めの挨拶は済ませたとばかりに、彼が離れていこうとする気配を感じると、菫は急に心細くなった。
今この手を離したら、見知らぬ世界にたった一人で取り残されてしまうような、冷たい感覚。
温かな誰かの身体に触れていたい。
火に包まれた時のあの恐怖が一気に胸を締め付け、心細さと寂しさで菫の心はあがくように助けを求めていた。
とっさに腕を伸ばしてヴィオラントの首に縋ると、その行動が予想外だったのか彼はバランスを崩し、菫に覆いかぶさる形で再び唇が触れ合った。
怜悧さを感じさせる美貌とその無表情。だが外見の印象とは異なり、彼の唇はとても柔らかく温かかった。
思いがけず密着した大きな身体は逞しく、夢でも幻でもなく確かにそこにある。
今、彼だけが菫を焦燥と混乱と恐怖からすくい上げてくれるように思えた。
菫はヴィオラントの首に回した両腕に、ぎゅっと力を込めた。
「スミレ――?」
けれど、彼に触れていないところが血が通っていないようだ。
シーツから浮き上がった背中に、ひたひたと闇が忍び寄ってくるようで恐ろしい。
温めてほしかった。――ここに、菫が確かに存在していてもいいのだと証明してほしかった。
「キスしかしないの?」
「何を……」
「キスだけで終わりなの?」
サンプルはここまでになります
※アルファポリスのサイトに掲載中のものと同じです。
1 始まりの舞台
こぽこぽと、硝子の中を上がっていく泡の音が鮮明に聞こえるほど、室内は静寂に包まれていた。
水面まで昇りきった泡は、ぱちんと弾けては消え、次々と大気に溶け込んでゆく。
大きく開かれた窓のそばの広いテーブルの上には、フラスコやビーカー、試験管など、何かしらの実験に使うと思われる様々な器具が並べられ、その脇には大量の本が積み上げられている。
物が整頓されずに溢れている割に、その部屋が見る者にそれほど乱雑な印象を与えないのは、実は必要な物しか置かれていないからだ。
室内を見渡せば、一つ一つの調度品はどれをとっても一級品。
一目で逸品と分かる絨毯には紙屑一つ見当たらず、部屋の中央に置かれた豪華なテーブルセットをはじめ、実験用具や本で溢れかえっている長テーブルの上にも塵一つない。掃除がきちんと行き届いていることがよく分かる。
そしてこの部屋の広さ、驚くほど高い天井の様子から見て、主人の財力も容易に想像できた。
その主人はというと、つい先ほどまでフラスコを日に翳して何やら考え込んでいたのだが、どうやら望ましい実験結果は得られなかったらしく、今は気分転換のつもりか中央のテーブルでティータイムの真っ最中だ。
この部屋の主人は、男である。
窓から降り注ぐ陽光に透ける髪は、まるで上等な絹糸のように美しい白銀色。毛先だけ柔らかく波打ったそれは、彼の肩を越えるほど。
少々気だるげに長い足を組んだ彼は、膝の上に広げた本に視線を落としている。軽く伏せられた長い睫毛は髪と同色。そしてその下からわずかに覗く瞳は美しい紫の光彩をたたえていた。
銀も紫も、この国では非常に稀少な色であり、その二つを持って産まれてくることは、まさしく奇跡に近いという。
香り高い茜色のお茶を満たしたカップを迎える唇は、薄く淡い。
鼻筋はすっと通って形が良く、絶妙に配置された顔のパーツは完璧なシンメトリー。つまりこの男の容姿は相当整っているのであるが、それがどこか作り物めいた美しさに見えてしまうのは、彼の表情がまったくの〝無〟であるがゆえ。
そう、彼は恐ろしいまでに無表情なのだ。
「……どうかしたか?」
表情はないが、瞳は動いて物を見るし、口は開いて声を発する。
何かに気づいて膝の本に落としていた視線を上げ、その美貌にふさわしい艶やかな声で問いを口にしたが、部屋の中に彼以外の人影は見えず、視線の先にはただ壁しかない。
――いや、一面に植物が描かれているかに見えた壁は、よく見ればシンプルな白い壁紙を貼られただけのもの。その上に、本物の蔦がびっしりと伸びているのだ。青々として瑞々しい葉は、風もないのに自ら身を震わせ、蔓を激しく振り回しては必死に何かを伝えようとしているかのよう。
異様な光景だった。
「……?」
その尋常ではない様子に、男が飲みかけのカップをソーサーに戻して立ち上がる。そして、ふと大気の乱れを感じて背後を振り返った瞬間。
――ドォォォッ
静寂をぶち破る爆音が響き、激しい爆風にさらされた。
テーブルの向こう側に吹き飛ばされながらも、とっさに受け身をとって、素早く起き上がった彼の目に飛び込んで来たのは。
「――なっ……」
一つの、見知らぬ人影。
「これは、一体……」
それは、一人の小柄な少女だった。
突然のことに、まさに呆然といった声を発しながら、しかしやはり、何故か男は無表情のままなのであった。
爆発の衝撃で実験用具は壊れ、窓は吹き飛んだが、部屋の大部分は幸い無傷であった。
かなりの爆発であったにもかかわらず被害の範囲が狭く感じられるのは、逆に言うとこの部屋がそれだけ広いということである。
この部屋の主は、名をヴィオラント・オル・レイスウェイクという。
大国グラディアトリアにおいて十年の間、皇帝として君臨しながら、二年前、二十六歳の若さで退位し、今はレイスウェイク大公爵として遇されている。
在位中は画期的な策を次々と打ち出し、父である先帝の時代に傾きかけた国を立て直す一方、不正で私腹を肥やしていた貴族や、圧政により領民を苦しめていた領主などには、時には厳しすぎるほどの処罰を与えた。その美しすぎる無表情から極刑の宣告を受けた者も少なくはない。
賢帝と讃えられながら、〝冷帝〟とも恐れられた彼の跡を継いだのは、腹違いの弟で現在十八歳のルドヴィーク・フィア・グラディアトリア。
先帝の正妻、すなわち皇妃の息子であるルドヴィークが成人するまでと自ら定め、側室の子でありながら皇帝の地位についたヴィオラントが、歴史に残るほどの大改革をたった数年のうちにやってのけたのは、年の離れた弟の治世をより安定したものにするためだったというのは、この国ではあまりにも有名な話だ。
そんな弟想いの彼が玉座に未練などあるはずもなく、縋り付く側近達の懇願も払いのけ、ルドヴィークが成人するや否やあっさりと退位。それからは在位中に得たこの屋敷でひっそりと隠居生活を送っていた。
ちなみに彼の趣味はもっぱら植物の研究であるが、彼の手で交配された作物によりグラディアトリアの食料庫が潤ったという実績を残しているので、まったくの道楽とも言えない。
本日の課題は有効な肥料の開発だったが、残念ながら思うような調合は叶わなかったらしい。
そんなレイスウェイク家に、突然の爆発とともにやってきた、見知らぬ少女。
身に着けていた衣服は爆風によって見るも無惨な状態。髪も真っ黒焦げじゃないかとヴィオラントは慌てたが、その髪は実は元々黒い色だということが、側に寄って見た時の艶やかさで判明した。
「……そなた、大丈夫か?」
ヴィオラントは呆然と床にへたり込んだ少女の脇に膝をつき、自分の上着を脱いで痛ましいまでに白い素肌を包んでやる。長身の彼の上着に小柄な少女の身体はすっかり隠され、無表情の裏で実はあたふたしていたヴィオラントはようやくほっとした。
「火傷はないか? 痛むところは……?」
不可解な状況であり、少女は現段階では明らかに不審者であるが、とにかく大変な爆発に巻き込まれたことだけは確かなので、まずは彼女の状態を確かめようと顔を覗き込む。
すると、少女の方も呆然としながらも顔を上げ、ヴィオラントを見た。
濃い色の、大きな瞳だ。
髪と同じ黒なのかと思いつつ、何故か違和感を感じた彼の前で、少女は突然大きく顔をしかめた。
「――いっ……たぁ!!」
悲鳴を上げて両目を手で覆った少女の様子に、どこかひどい怪我をしているのかと内心焦ったヴィオラントだったが、彼女の両目からポロンポロンと丸いものが二つ落ちたのを見て、今度は驚きで跳び上がりそうになった。
相変わらず、無表情のままであるが。
「いたたたた……あー、痛かった」
絶句して固まってしまった彼の前で、少女は場違いなほどのん気な声でつぶやき、手の甲で何度か両目をこすると、改めて自分の上に影を落とす初対面の男を見上げた。
「――っ……!」
ヴィオラントの無表情をわずかながらも動かしたのは、さらなる驚愕だった。
「……そなたの瞳は……」
潤いをたたえた少女の瞳は、彼と同じ紫で彩られていた。
生まれてこの方、今は亡き母以外に、紫の瞳を持った人間に彼は出会ったことがなかったのだ。
対する少女もびっくり仰天といった様子で、ヴィオラントの瞳を見つめていた。
「……おんなじ色、ビックリした」
幸いなことに、少女に怪我はなかった。
爆発音に驚いて飛んできたレイスウェイク家の侍従長サリバンは、主人の部屋の惨状と見知らぬ少女の存在に驚いてはいたが、すぐさま的確な措置をとり始めた。
医師の肩書きを持つ彼が少女を診断し、異常なしと見ると、同じく駆けつけてきた女官長マーサが、焼け焦げて襤褸と化した衣服を取り払い、少々煤で汚れていた身体を清潔な水と布で拭って、素早く見繕ってきた服を彼女に着せた。乱れていた黒髪も丁寧に梳られる。
身なりを整えられ、窓が大破したヴィオラントの私室で修繕の手配が始まったところで、思いがけない客人はようやく客間に通された。
「あなた、誰?」
ソファに座るや否や問いかけてきた少女は、皇帝時代に美しい者を見慣れていたヴィオラントを唸らせるほど、可憐な容姿をしていた。
艶やかな黒髪は、その華奢な肩につくかつかないかという短さで、柔らかくウェーブを描き、ふわふわとしている。
この国では見られない雰囲気を持つ顔立ちで、ちょこんとした鼻も薄紅色の唇も小振りだが、彼を驚愕させた紫の瞳だけはこぼれ落ちそうなほど大きい。おまけに縁取る黒く長い睫毛がそれをさらに際立たせている。
ようやく落ち着いたのか、柔らかそうな頬は血色を取り戻し、思わずそっと触れたくなるような愛らしいピンク色になっている。
(……アマリアスのお気に入りの人形に、そっくりなのがいたな。黒髪で大きな瞳の……)
思わず見とれる間にこちらが問うべきことを先に言われてしまったヴィオラントは、気を取り直すようにコホンと一つ咳払いをして、改めて少女に向き直った。
「私は、この屋敷の主だ」
「あ、そう。お邪魔してます。日本語、上手ね」
「ニホンゴ?」
「日本語」
「え?」
「……え?」
二人は、しばし見つめ合った。
無表情の下でヴィオラントは疑問符をいっぱい浮かべる。そんな彼の頭の中を察したのか、訝しげに眉を寄せた少女は、わずかに不機嫌そうな口調で問いかけた。――しかめっ面も可愛いと思われているとは知らず。
「あのさ」
「うん?」
「ここ、どこ?」
「帝都の北東、レイスウェイク家だ」
答えたヴィオラントの言葉に、少女は一瞬きょとんとした。
次いで、華奢な両腕を組んで首をひねったかと思うと、ぼそぼそと独り言をつぶやく。
「帝都って……東京のことかな? 金持ち外人のお宅に、なんでお邪魔してんの……私」
ヴィオラントには、彼女が何を言ってるのかまったく理解できなかった。
野咲菫はつい先日、十六歳の誕生日を迎えたばかりである。
ちょうど同じ頃、通っていた私立高校から、アメリカの学校に編入する手続きが取られた。
菫の両親はともに医薬の開発に携わる研究員で、彼女が中学在学中よりロサンゼルスにある研究所本部に勤務していた。
本来なら、未成年であり義務教育中の菫も両親とともに渡米するべきだったのだが、せっかく中高一貫教育の難関校に合格していたことと、幸い年の離れている兄がすでに成人し、就職していたことから、兄妹で日本の自宅に残ったのだ。
菫より十歳年上の兄・優斗は、仕事に夢中になって子育てがおろそかになりがちだった両親に代わり、小さな時からずっと妹の面倒を見てきたので、今さら両親がいなくなったところで彼ら兄妹の生活にまったく支障はなかった。
そうして、特に大きな問題もなく四年近く過ごしてきた野咲家の兄妹だったが、今年二十六歳になった優斗が結婚することになった。
相手は教師をしている彼の同僚で、三年の交際を経た後のゴールインだ。家庭的で穏やかな性格の婚約者は、菫のことも実の妹のように可愛がってくれ、入籍後は三人で一緒に住むのが当然だと思っている、優しい女性。
菫も彼女のことは大好きだし、妹可愛さに口うるさくなりがちな兄をなだめてくれる彼女が義姉になるのは大歓迎だったが、同居についてはどうしても首を縦に振れなかった。
新婚夫婦に遠慮するとか、居心地が悪いとか、そういうことではなくて。
菫としては、もうそろそろ兄を解放してやりたかったのだ。
小さい時から、親代わりになって菫を育ててくれた兄。今まで彼に、いくつもの犠牲を払わせてしまったことを、もう幼い子供ではない菫は知っている。
妹を優先しすぎたために愛想を尽かされて別れた恋人がいたことも。本当は大学院に進んで勉強を続けたかったのに、研究で時間が不規則になれば妹と一緒にいてやれないからと、さっさと就職の路を選んだことも。
真実を知ってしまえば、罪悪感にいたたまれなくなりながらも素直にその胸の内を明かすこともできず、ここ一年ほどは彼に反発することが多くなっていた。
兄が心配すると分かっていながら無断外泊したり、あまり素行のよろしくない男とつき合ってみたり――
彼はその度にひどく怒って怒鳴りつけるが、それでも菫に愛想を尽かしたりはしない。
菫は、いつの間にか自分がそれを確認したくて反抗的な態度をとっていたのに気づき、そしてそんな自分が嫌で、兄の婚約を契機に決心したのだ。
彼から――温かい親鳥のもとから巣立つことを。
まずは一人暮らしを考えた。保証人がいれば高校生の菫が部屋を借りることも無理な話ではないが、それではやはり心配した兄が毎日のように顔を出すに決まっている。
それでは駄目なのだ。彼の手が届くところでは、駄目なのだ。
だから、思い切って菫はロサンゼルスの母親に連絡をとった。
もう長い間、年に数回会うか会わないかの関係でしかない両親とは、正直どう接していいのか分からない。それは向こうも同じようで、ひどく他人行儀な会話になってしまうのが常だった。しかし、そっちに行って一緒に住みたいと告げた娘の言葉に、両親は思いがけず喜んだ。
実は兄にはまだ一言の相談もしていなかったのだが、彼も納得済みだと嘘をついて頼むと、父と母は手続きも引っ越しの手配もすべて任せておけと興奮気味に応えてくれ、今さら一緒に住みたいなんて言って面倒くさがられたら――と、少なからず不安に思っていた菫を拍子抜けさせた。
当然、兄にはすぐに事情がばれて大げんかになった。
何度も二人で話し合い、菫の決心が固いことを知った兄は、結局折れるしかなかった。学校に事情を説明すると、菫の成績が基準を満たしていたのが幸いして、現地にある姉妹校が編入を許可してくれることになり、それからトントン拍子に話が進んだ。
そして、それらの手続きのために、菫は両親と今までにないほど電話で何度も言葉を交わした。
もしかしたら、疎遠だった親子の距離を近づけるいい機会なのかもしれない、と菫は思った。
しかし、それが叶うことは、ついになかった。
すべての準備を終え、クラスメイトや遊び仲間によって盛大な送別会も催され、いよいよ明日の飛行機で旅立つという夜。
事件は起こった――
「実験用テーブルの脇が、一番ひどい有様でした」
爆発の起こった部屋の掃除やら修繕の手配やらを済ませた侍従長の報告に、ヴィオラントは心当たりを思い浮かべる。
「実験用テーブルの脇……? 確か、余った材料をその辺りに……」
「置いてらっしゃいましたか。管理はいかがなされておいでで?」
「いや……その、適当に……」
年配の侍従長と、その事情聴取にしどろもどろに答える屋敷の主人のやり取りを、優しげな女官長が渡してくれたホットミルクをふうふうしながら眺めていた少女は、名探偵さながら、キラリと眼光鋭く真犯人に人差し指を突きつけた。
「――犯人はお前だ!」
「人を指差すのは良くないぞ、クリスティーナ」
「誰? クリスティーナって」
「いや、そなたがあまりにそっくりなもので」
上の妹が可愛がっていた人形の名だと教えてくれた銀髪の男を、菫は見つめた。
(――イケメンだ。たぶん、すっごいイケメンだ。無表情だけど)
それからぐるりと部屋の中を見渡す。
見事な調度品の数々。履かされたローヒールの靴の下には、上質な絨毯の優しい感触。高い天井。磨かれた窓ガラス。
温かいミルクで満たされたカップまで、目利きとはいえない菫が見ても超高級と分かる品物。
(……ここは、どこ?)
「どうした? どこか痛むのか?」
眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった菫を心配しているのか、そっと覗き込んでくる屋敷の主人も。
「外傷は見当たりませんでしたが、もしかしたらどこか打ってらっしゃるやもしれませんね。しばらくは安静になさった方がよろしいかと」
安心させるように、落ち着いた声で話すロマンスグレーの侍従長も。
「まあまあ、お嬢様のお部屋をご用意しなくては。お洋服も。腕がなりますわ!」
温かく迎え入れるような笑顔で、そっと肩を抱いてくれる女官長も。
日本語が流暢なだけの外国人ではないと、菫も薄々感じ始めていた。
「みんな……日本語上手だね……」
ようやくそれだけ口にする。
(――いったい、何が起こってるの?)
「ところで、そなたの名は?」
銀髪の男が問う。
「すみれ――野咲、菫……」
「スミレ? 変わった響きだな、初めて聞いた。ノサキとは家名か?」
「あなたは――れいすうぇいく……さん?」
「レイスウェイクは家名だ。私はヴィオラント・オル・レイスウェイク。レイスウェイク家当主、オルの血を受け継ぐ者。この名を知らぬところを見ると、そなたは違う大陸の出か?」
「た、たいりく――大陸?」
「このグラディアトリアがある大陸は、四方を水に囲まれているからな。別大陸とは国交がないので私も行ったことがないが、海を渡るのは鍛えられた軍人でも命懸けだと聞く」
――ここは、レイスウェイク家。
――ここは、グラディアトリア。
そんな国ない。地球にはない。
自分は、歴史の成績はいまいちだが地理は得意なのだ。世界中の国の名前と場所を全部覚えてるんだ。グラディアトリアなんて国は、地球にはない。
菫は、海を渡るどころか、生きる世界そのものを飛び越えてしまったのだろうか。
「実験材料の残りが混じり合って反応したことが、爆発の原因でしょうね。後始末はきちんとしていただかなければ困ります、旦那様」
「ああ……すまぬ。本当に」
趣味である実験の不始末から大惨事を引き起こすところだったと、子供のように注意されている屋敷の主を、菫は呆然と眺めていた。
その時、何かがそっと優しく手の甲を撫でてくる感触で我に返り、ようやくミルクのカップを持つ手がひどく震えていることに気づいた。
『異世界にトリップ』
――なんて、ファンタジーな言葉を思い浮かべる自分に一番びっくりしたのは菫自身で、あまりにも非現実的な状況に、いっそ現実逃避してやろうかと半ば眼を閉じて考え込んでいた。
そんな彼女をリアルに繋ぎ止めたのは、再び触れてくる何かの感触だった。――それは何か。
「……葉っぱだな」
そして、蔦だ。
ハート型の緑の葉をたっぷりつけた蔦がうごめき、まるで菫をなだめるように何度も優しく頭を撫でてくるばかりか、出会いを歓び、握手を求めるように手にまで触れてくる。
(……なんじゃ、こりゃ。叫んじゃおっかな……)
異様な光景に顔を引きつらせた菫だったが、いや待てよと、思い直す。
異世界トリップなんて、そんな電波な展開はごめんである。
(そうだ、きっと鎖国とかして他国と交流がない国なんだよ。昔の日本みたいにさ)
どういう理由で自分がそのような場所に来てしまったかは、この際置いておくとして……
未知の国ならば、日本と違う常識がまかり通っているという可能性もなくはないだろう。
(この国じゃ、蔦が動いてスキンシップするのも当たり前だったり……)
郷に入っては郷に従え、である。――よし。
「――どうも……」
半ば無理矢理自分を納得させたものの、植物に話しかけるという行為には凝り固まった既成概念がいささか邪魔で、挨拶の言葉はそっけなく蚊が鳴くような小声になってしまったが、手はしっかりと擦り寄る蔦を握りしめた。
蔓はしっとりと瑞々しく、葉は思ったより柔らかくて意外なほど手に馴染み、本当はパニック寸前だった菫の心を和ませてくれた。
その光景を実は屋敷の主と侍従長が冷静な目で見つめていて、彼らは少女と植物のファーストコンタクトが和やかに行われたのを確認し、ようやく彼女に対する警戒を完全に解いた――などとは、蔦に絡み付かれた菫は、気づくよしもない。
「客人として歓迎しよう、スミレ」
菫の友好的な態度に感激したのか、アイドルに握手を求めるファンのように殺到してくる蔓達に、笑顔を引きつらせながら対応していた菫は、背後からかけられたその言葉に振り返った。
「客人? こんな怪しい現れ方したのに?」
わけの分からない状況だから、丁寧に持てなしてもらえるのは願ってもないことだが、突然爆発とともに降って湧いた小娘など、怪しいと思わない方がおかしい。菫だったらとりあえず、警察に助けを求めるか相談するに違いない。
だから、素性も分からない相手にいきなり親切にするなんて何か裏があるのではないか、と逆に警戒してしまう。
「……なんで?」
「セバスチャンが歓迎しているからな。彼は、我々に害をなす者は迎え入れぬ」
「……セバスチャン?」
「そなたと固く握手している、その蔦の名だ」
やっと紹介されたのが嬉しいのか、菫の手を握った(というか絡まった)蔦の束はさらに、にぎにぎにぎ。
「――蔦っ!? セバスチャンといえば、執事の名前でしょっ!」
異議ありっ! と、食ってかかってくる菫を、相変わらず無表情のまま見下ろすヴィオラントだったが、声だけは感心したような響きを帯びていた。
「よく分かったな。セバスチャンは我が家の執事だ」
セバスチャンと呼ばれるフレンドリーなこの植物は、ヴィオラントの研究中に偶然生まれた突然変異種で、言葉こそ発しないものの、自ら考え、自ら動く、レイスウェイク家の強い味方。
驚異的な早さで成長し、今や屋敷のすべての壁は、内外を問わず彼の身体に覆われていて、実質的に彼の管轄下にあるといってもよい。
生みの親とも言えるヴィオラントに忠誠を尽くす彼は、訪問客への応対も自ら率先して行う。
その結果、害意や悪意を持った者は、ヴィオラントどころか侍従長にも面会できず、玄関の呼び鈴を鳴らすことさえ阻まれる始末だ。
「我が家の執事が迎え入れた者を、当主が丁重にもてなすのは当然のこと」
「……へえ」
「聞きたいことはいろいろとあるが――まずは、寛ぐといい」
そう言って、レイスウェイク大公爵は客人の少女を賓客用の部屋に案内させた。
その後、お約束通りに天蓋付きのゴージャスベッドを発見した菫は、これまたお約束通りにダイブしてふかふかとした寝心地を堪能すると、その権利を与えてくれた一番の功労者(の一部)を壁に見つけ、今度は自ら手を差し出した。
「ありがとう、セバスチャン。お世話になります、セバスチャン」
そうして柔らかな葉と握手をしながら菫は、
――やっぱりこれって普通じゃないよね。この情報社会にこんな不思議な植物が話題にならないはずないもんね……
と、今いるこの場所が自分の理解の及ばぬ世界、つまりは〝異世界〟であると認めざるを得なくなってきていた。
湯浴みを済ませたレイスウェイク家の当主は、窓の壊れた私室の隣にある寝室で、本日届いた手紙に目を通していた。
それが、ヴィオラントの毎夜の日課である。
手紙の差出人は、皇帝時代に彼に仕えていた貴族やその子息であったり、交流のあった他国の王家の者であったりと、様々だ。
皇帝として十年間大国グラディアトリアに君臨し、汚職の根絶と国民の生活水準向上を図った上、それらをほぼ実現して、惜しまれながら退位したヴィオラントに師事したいと願う者は、国内外を問わず数多くいる。
国王自ら赴いて、宰相として力を発揮してほしいと頭を下げる国まであった。
もちろん、破格の報酬を提示するのだが、玉座を退いても莫大な資産を持つヴィオラントがそれにつられるわけもなく、またそもそも愛する兄弟のいるこの国を彼が出ようとするはずもなく。結局すげなく断られたという話はあまりにも多い。
それでも、諦めきれずにしつこく引き抜こうとする国の使者は、無念にも有能な執事に門前払いを受けて面会も叶わず、仕方なくこうして手紙で切々と訴える。
それらにヴィオラントは、毎回丁寧に返事を出す。――もちろん、断りの返事であるが。
そして、国政や領地の問題に関する相談事といった自国の者からの手紙にも丁寧に返事を出す。決して出しゃばらず、あくまでもアドバイスという形で。
何故なら、ヴィオラントはもう政治の表舞台に立つつもりがまったくないのだから。
妙な関わり方をして引きずり出されてはたまらない。
そんな彼が、決して返事を書かない手紙もある。それは大抵良い香りがする封書だ。
――ヴィオラントは、未婚である。
皇帝時代に、周りは皇妃や側室を娶ることを強く勧めたが、〝期間限定皇帝〟のつもりの本人にまったくその気がなかったのだ。
ただ、外交上の関係や、あるいは貴族達の力の均衡を保つため、やむを得ず差し出された女性を迎えなければならない場合もあった。
禁欲家ではないヴィオラントは、愛情はなくても彼女らと時折関係していた。そしてそんな見目麗しい銀髪の皇帝に入れ揚げた多くの姫君達は、彼の退位に際し、生家に帰されたり他家に嫁がされたりしたものの、また側に置いてもらいたいと、こちらも切々と文をしたためて送ってくるのだ。
現在、ヴィオラントは母方の祖母の実家であるレイスウェイクを名乗り、現皇帝より大公爵の称号を賜ってはいるが、政治的な役職には就いていない。それでも、あわよくばその妻の座にと狙っている女性は少なくないのだ。
しかし、筆まめともいえるヴィオラントでも、彼女達に返事を書くことは一度たりとてなかった。
今日届いた封書は、甘い香りのするものばかりだった。
彼が躊躇なくそれらを屑かごに放り込み、就寝前の一杯を、とワインをグラスに注いだ時、トントンと軽くドアをノックする音が聞こえてきた。
「――どうぞ」
有能な執事が先に知らせてくれていたので、来訪者が誰だか分かっていたヴィオラントは、ワインの瓶をテーブルに戻してドアのそばまで行くと、自ら開けて客人を迎え入れた。
「……こんばんは」
部屋の外には、小柄な黒髪の少女が立っていた。
精巧なドール・クリスティーナにそっくりで、ヴィオラントと同じ珍しい紫の瞳を持つ、愛らしい少女。
スミレ――それはグラディアトリアでは聞き慣れない響きの名で、彼女自身、言葉は通じるようだが世情には疎い様子であった。
ゆえに、彼女を異大陸の出身と見当を付けたが、夕餉の際には食べ物も特に問題なく口にしていたようなので、当家でもてなすのに困ることはないだろう。
よそ者に厳しいセバスチャンがいたく気に入って、即座に懐に迎え入れた上に、貼りつかんばかりの勢いでもてなしている。
不可解な登場の理由はぜひとも問いたださねばならないが、本人も混乱した様子であったし時間も夜を迎えていたため、明日の朝、詳しい話を聞こうと夕餉の席で話したところだった。
そんな彼女がどうも寝付けない様子だと知らせてきたのは蔦の執事で、それならばこちらへ案内せよと指示を出したのはヴィオラントである。
夜更けに、女が男の部屋を訪ねるのはあまり行儀の良いことではないが、スミレという少女は見たところ十代半ばといったところか、あるいはそれよりもまだ幼く見える。
背丈などはヴィオラントの胸元に届くかどうかという小柄さで、その言動は屈託なく無邪気であり、とにかくあどけない様子。男女の間違いなど起こるはずもないだろう。
それに、弟や妹達を慈しんできたヴィオラントは子供慣れしているので、少女が見知らぬ屋敷で心細い思いをしているとしたら落ち着かせてやらねばと考えての気遣いだった。
菫は、その瞳の色を淡くしたような薄紫のナイトドレスに、可愛らしい花柄のガウンを羽織っていた。おそらく女官長が用意したものだろうが、残念ながらサイズがまったく合っていない。
そもそも、レイスウェイク家にこんな小さな客人が訪れることなどないのだから、いたし方ない。
わずかな時間で少女用の衣服や客室を調えた女官長マーサの有能さを、ヴィオラントは誇りに思う。
「あの――なんだか、いろいろお世話になって……」
「気にすることはない」
「うん、えっと……ありがとう」
大きめの夜着に身を包んだ少女はさらに幼げな印象になっているが、その瞳は、不安の中にもしっかり芯の通ったものを感じさせる強い光を持っていた。
ヴィオラントが勧めたソファに腰を下ろす前に、とりあえずこれだけは伝えておかなければという風に感謝の言葉を口にし、彼女の国の礼儀なのか、ちょこんと頭を下げる。
その拍子に、ふわりと揺れた柔らかく癖のある黒髪を、ヴィオラントは目を細めて見やった。
その後すぐに、軽いノックとともにお茶の用意をした侍従長サリバンが現れた。
彼は手早くテーブルの上からワインとグラスを片付けると、主人には紅茶を、客人には温かいミルクを用意する。
複雑そうな顔で目の前に置かれたホットミルクを見つめる菫に、主従は気づかない。
今宵はもう下がって休むようにと言う主人に挨拶をすると、ロマンスグレーの侍従長は、ソファに埋まっている可愛らしいドールに似た客人に優しい瞳を向けた。
「それでは、お嬢様もお休みなさいませ」
「おやすみなさい」
静かにドアが閉まると、ヴィオラントは菫の隣に腰を下ろした。
彼には寝室で客人をもてなす習慣はないようで、ソファは二人掛けらしきものが一つ置かれているだけ。明らかに接客用ではない。
(だからといって、いきなり距離、近くない……?)
と菫が思っているとは知らず、彼は紅茶で口を湿らせてから「さて」と話を切り出した。
「眠れないようなら、少し話を聞こうと思うのだが、よいか?」
「うん」
「眠くなったらすぐに言いなさい。無理をすることはないから」
「はい」
明日はいよいよ、日本を離れるという日の夜。
模試の監督で休日出勤していた兄からは、急用で少し遅くなるができるだけ早めに帰る、との連絡があった。
その日、交友関係の広い菫のために行われた送別会――というか壮行会はバラエティ豊かで、まず午前中にクラスメイト主催の会が行き付けのカフェを借り切って執り行われ、午後からは遊び仲間がカラオケボックスに集まって別れを惜しんでくれた。
前者と後者では、参加者のタイプが異なり、雰囲気もがらりと違う。
菫が通っていた高校は中高一貫の進学校で、どちらかというと裕福な家庭の真面目な子供達が多かった。菫は愛され系な容姿の上に、周りから浮かないように人当たりのいい少女を演じていたため、クラスメイトや先生にも可愛がられ、それなりに楽しい学校生活を送っていた。
一方、ちょっとした夜遊びや休日にはめを外して遊ぶ時の仲間は、世間一般で不良と呼ばれるタイプの者が多かった。だからといって、菫が飲酒や喫煙、あるいは万引きなど法に触れる行為に手を出すことはなかったし、彼らに合わせて特別派手な格好をしていたわけでもない。ただ目立つ容姿のおかげでそちらの方の交友関係はどんどん広がっていった。
そういうわけで、菫は一日で毛色の違う二つの送別会をはしごしたわけだが、寂しくなると涙ぐんでくれる双方の仲間達をなだめながらも、一滴の涙も浮かんでこない自分の薄情さに呆れていた。
男女を問わず友達はたくさんいると自負していたし、彼らと他愛のない会話に興じ、くだらないことに笑い転げている一時は確かに楽しかった。
疎遠になっている両親や兄に対する複雑な思いを、打ち明けようかと思ったこともなかったわけではないが、彼らが自分のすべてを受け止めてくれると言い切れるだけの自信が持てず、結局は相談することはなかった。
唯一、菫が心を開いて素の自分で接することができたのは、保育所からの付き合いである近所の幼馴染達だった。野咲家の事情を知る彼らは、時に菫の兄や姉のように慰めたり叱ったりしてくれる、ありがたい存在だった。
しかし、菫が彼らとは違う中学に進学したことから顔を合わす機会が減り、中学卒業以降はそれぞれが別々の高校に進んだり、職に就いて忙しくなったりして、最近では随分と縁遠くなってしまっている。菫が繁華街で遊ぶようになったのも、彼らとのすれ違いが多くなってからだった。
それでも、兄が気を回して連絡してくれたらしく、明日は揃って空港まで見送りに来てくれるそうだが、彼らと別れる時はさすがの自分も泣くだろうなと、菫は苦笑した。
――彼氏とも、別れた。
半ば兄への当てつけで付き合い始めたアツシとは、繁華街でナンパされたのが始まりだった。今時っぽく長い髪を明るく染めていて、見た目はまあまあ格好良かった。とはいえ、彼の猛アタックをかわすのが面倒くさくなったという理由からの交際だから、特別好きだという気持ちも抱かなかったが、初体験の相手は彼である。
菫の中学までの彼氏は純粋で幼く、手を繋いでキスするだけで関係がそれ以上進むことはなかったが、女慣れしたアツシはそれだけでは満足せず、しつこく迫られて「まあ、いいか」という程度の気持ちで身体を許してしまった。
いつも自信に満ち溢れてぐいぐい菫を引っ張っていく彼に、自分の寂しさを払拭してもらいたいと、少しは期待していたのかもしれない。けれども近付けば近付くほど、触れれば触れるほど、その自信の根拠のなさと人間性の薄っぺらさを知ることとなり、彼に対する愛情が生まれてくることは、残念ながら最後までなかった。それなのに関係を持ってしまったことは、今思えば軽卒だったし、馬鹿なことをしたと後悔している。
そんなアツシには、送別会から帰ってきた後、電話で別れを告げた。
近ごろは彼の執着や束縛がかなりエスカレートしてきていて、正直窮屈に思い始めていた菫には今回の渡米はいいきっかけだったが、相手の方は寝耳に水だったらしい。
最初は「家を出たいなら俺と住もう」だの「いっそ結婚しよう」だの、親から小遣いをもらって遊び回ってる身分で甘いことを言うな――と、菫を呆れさせる説得をしていたが、彼女の別れの意志が固いと知るや否や豹変した。
「勝手なこと言うな」
「俺と別れられると思うな」
「ふざけるな」
だんだん物騒になっていく彼の言葉に、いっそ明日、飛行機が出発する直前に電話して言い逃げすれば良かったと、菫はものすごく後悔した。
「――別れるくらいなら殺してやる」
一方的に電話を切ろうとする直前に吐き捨ててきた言葉に、ゾクリと背筋が寒くなる。
「お兄ちゃん、早く帰ってこないかな……」
夕食は兄と一緒に食べようと、用意だけは済ませてある。
物騒なアツシの発言にびびって、家中の戸締まりを確認した後、気を紛らわすためにリビングのソファに座ってテレビをつけた。ゴールデンタイムの番組のくせにつまらないなと思ったが、それでも少し落ち着いたのかなんだか急に眠くなってきた。
明日の今頃は飛行機の中だ。
新しい生活には期待と不安がいっぱいあるが、両親との関係も一新する予感。
未来は明るいと信じているが、今日は何だかとても疲れた。
兄が帰ってきたら起こしてくれるだろうと、テレビを消してウトウトし始めた菫は、数分後……
炎と煙の中にいた――
「……火をつけられたと?」
「かもしれない」
「その、男にか?」
「それは分かんないけど、しそうなヤツではある」
気づいた時には、もう火が燃え広がっていた。
慌ててドアに向かったが、どこもかしこも炎に包まれてなす術がなかった。
絶望するよりもただ呆然として立ち尽くす菫を紅い炎が舐め、その服を焦がす。
叫ぼうかと思った瞬間、空気が揺らぎ、部屋の中にあった何かに引火したのか急激に炎が大きく膨れ上がって、彼女を呑み込んだ。
「もうダメかなっと思ったら、あの部屋にいた」
「……」
「熱いものに包まれて、ああ死ぬんだと思ったら――服だけ焼けてたみたい……」
実際、服はほとんど燃え屑になったが、しかし菫は無傷だった。
「不可解だな」
「いや、ほんとに」
「考えられるのは――そなたのところの爆発と、私の不始末からの爆発がリンクしたことぐらいか……」
「え、それってよくあることなの?」
「いや、まったく」
そんなことは、空想上の現象でしかない。
ルドヴィークが子供の頃、書庫で見つけて読んでいた絵本と同じくらい非現実的だ。
クロヴィスがその矛盾点をこと細かにこき下ろし、嬉々として彼の夢を壊していたな――と、ヴィオラントはつぶやいた。
知らない名前の人達を引き合いに出されても菫には分からなかったが、自分にとってのファンタジーはこの世界にとってもファンタジーだということはよく分かった。
どうやら、魔法だの魔物だの精霊だのは、存在しないらしい。――少し、ほっとした。
「不可解な現象ではあるが――まあ、焼け死ななくて良かったな」
「ほんと、良かった」
死の恐怖を思い出して今さらながら青ざめていた菫の肩を、屋敷の主人は優しく抱いてくれた。
その大きな手が温かく、見た目は全然違うのにどこか兄に似ているように思えて、とても安心できた。
何となく甘えてみたくて身体の力を抜くと、そっとその胸に抱き寄せられた。
「これも何かの縁だ。落ち着くまでここにいるといい」
ヴィオラントという男は異常なまでに無表情で、一見怖くも感じるが、先ほど客室で着替えを用意してくれた女官長は、「旦那様の癖ですのでお気になさらず」と言っていたし、こうして温かい腕の中に包まれて声だけ聞いていると、とても穏やかで優しい人物に感じられる。
完全に気を許したわけではないが、もうすでにずいぶん親切にしてもらったし、何よりほかに行く当てもないので、申し訳ないと思いつつ菫は彼の好意に甘えることにした。
腕の中で眠ってしまった少女を抱き上げ、ヴィオラントはベッドに向かった。
ほとんど飲まれなかった紅茶と、まったく口をつけられなかったミルクは冷めてしまったが、明日、メイドが片付けてくれるだろう。
抱き上げた身体は真綿のように軽かった。
ヴィオラントは弟妹にねだられて、幼かった彼らを抱き上げたことは何度もあるが、こんな危うい存在を運ぶのは初めてだった。
閉じられた睫毛は髪と同じ艶やかな闇の色。
長く繊細なそれは、彼女の造形の美しさを改めてヴィオラントに知らしめた。
さらに、今は閉じられたその瞼の下には、彼と同じ希少な色の瞳が隠されている。
――突然、ヴィオラントの懐深くに飛び込んできた、不可解な存在。
皇帝の座という華々しい舞台からすすんで降りた彼は、まだまだ長く続くであろう余生をひっそりと過ごしていくつもりだったので、単調な日常を乱す彼女のような存在は、正直なところありがたくはない。
しかし、本当に迷惑なら不法侵入者として警備省に突き出すこともできるし、哀れと思うなら、国家宰相を務めるすぐ下の弟に相談すれば、上手く保護してくれるだろう。
どちらにせよ、ヴィオラントがわずらわされずに済むように処理することは簡単なのだ。だが、この少女に関しては何故かそんな気は起こらなかった。
元来、彼は己の身内以外には興味があまりない。
もちろん、皇帝家に産まれた以上、国家に対する愛情がないこともないが、彼が皇帝として尽力した大きな理由は弟妹の将来の安泰と、彼らの生母あるいは養母である先々帝の皇妃のためだ。
それが、ひいては国家のためになり、国民のためになったから慈悲深い皇帝として崇められただけで、彼が時にはひどく冷酷になれることを、ある程度地位のある貴族なら誰もが知っている。
また、それがヴィオラントの表情をなくした要因でもある。
元々、彼は大らかで穏やかな性格であった。しかし、大改革に付き物の粛清を断行する場合、個人の感情は邪魔になる。敵の多い宮中においては、私情を捨て、哀情に目をつむり、時に非情にならなければならない。相手に考えを読まれ、付け入る隙を与えてはならない。
そうやって表情を押し殺し続けた結果、ヴィオラントは無表情が常になってしまったのだ。
彼の弟妹はそれを職業病と呼び、治そうと躍起になっているが、本人はそれほど気にしていなかったりするのでいまだ治らないままだ。
そっと小柄な身体をベッドに横たえると、離れる気配を無意識に感じたのか、白い両腕が縋ってきた。たやすく振り払えそうなほど弱々しい腕を、しかしヴィオラントは拒まなかった。
少女は、柔らかな物腰に隠された彼の排他的な心に、いとも簡単にすとんと入ってきた、不思議な存在だった。
彼女はこのグラディアトリアではなく、〝ニホン〟という、存在するかどうかも分からない〝異世界〟の国にいたのだという。
皇帝時代には、その美しさと冷酷さで神とも魔王とも囁かれたヴィオラントだが、実際はただの人間でしかないので、知らないものは知らない。
もしかしたら、未知の大陸にそのような場所があるのかもしれないが、いずれにせよ不可思議な現象のおかげで、焼け死にかけた菫は命拾いしたのだ。
もう、それでいいではないかと、思えてくる。
国政を離れた自分が思わぬ拾い物をしたとしても、国に迷惑をかけることはあるまい。
ヴィオラントは菫に襟元を握らせたまま、自らもベッドに上がった。
馴染んだシーツの上に、今夜は柔らかな存在が加わった。
ふわふわの黒髪が鼻先を掠めた時に甘い香りがしたが、ヴィオラントには彼が知っている女達の媚を含んだものとは違う、可憐な花の蜜のそれのように思えた。
髪をそっと撫でてやると、安心したように寝顔がほころび、ヴィオラントはその幼さを愛おしいと感じる己の心に気づいた。
「兄上は、さぞ心配なさっているだろう……」
自分にも妹が二人いるので、親代わりに彼女の面倒を見ていたという菫の兄の気持ちはよく分かる。
可愛い妹が火事にあって、しかもその後行方が分からないなんて、自分なら気が狂いそうだ。
それにしても、まだ確かではないらしいが、別れ話に逆上して暴挙に出たと思われる相手の男は許しがたい。火事がもし本当にその男の仕業で、自分が菫の兄だったら、必ず一番残酷な形であの世に送ってやると思う。
(こんな小さい娘に、よくも……)
菫は、炎に包まれた事情を説明する際、交際している男がいたことは告げたが、さすがに肉体関係があったことまでは喋っていない。
当然現時点では、ヴィオラントは彼女を見たまま、純潔な少女だと思っている。
彼が真実を知るのは、翌朝のことだった――
2 由々しき問題
東の空が白み始めていた。
グラディアトリアでも、朝には太陽が昇り、夜には月と入れ替わる。
太陽も月も世界にたった一つ。菫の生まれた世界とまったく変わりはない。
カーテンの隙間からちらりと光がこぼれていたが、部屋の奥に据えられたベッドはさらに天蓋で覆われているため、まだ弱々しい朝日はその中にまでは届かない。
(……心臓の音)
心地よい温もりと香りに包まれてぼんやりと目覚めた菫は、トクトクと一定のリズムをきざむ鼓動の音に、それらが人肌のものであることを知った。
(……お兄ちゃん?)
いや、兄は確かに添い寝をしてくれたが、それは菫が小学校を卒業するまでの話で、思春期に入ってからは一度もそんなことはない。
じゃあ、アツシか。
いや、奴とは確かに別れたし、そもそも一緒に寝たことはあっても眠ったことはない。
(……誰だろう)
あまり寝起きのよろしくない菫の思考は、なかなか動かない。
しかも心地よいまどろみの誘惑には抗いがたく、現代っ子らしく楽観的な菫は、
(まあ、誰でもいっか)
と開き直って、滑らかなシャツに覆われた温かい胸元に擦り寄った。
すると、大きな掌が頭を優しく撫でてくれる。――幸せだ。
(……やっぱりお兄ちゃんかな)
そう思った矢先、額に降ってきたのは柔らかなキスの感触。
(……ちがうな)
兄は優しくて特に菫にはベタベタに甘いが、日本男子なので妹に親愛のキスなんかしない。
ただ、野咲の家系にはわずかながら外国の血が入っていた。母の曾祖父がイギリス人だったらしく、菫の瞳の色が紫なのはそういった遺伝子の影響らしい。それでもほぼ日本人の家系に、それも紫の色が出るのはやはり大変稀なことであるという。
菫は先祖返りらしい紫の瞳が嫌いではないが、小学生の頃はそれを理由にからかわれて嫌な思いをしたことがあるし、生活指導の教師にカラーコンタクトと疑われるのもわずらわしいということで、中学入学以来、黒のカラーコンタクトを着用している。そのカラーコンタクトは昨日、火事に巻き込まれた時に水分が飛んでしまったらしく、あまりの痛さに目から外してしまったのでもう使えない。
そんな菫の紫の瞳は、まだ姿を見せない。持ち主である菫は瞼が重くて、まだうだうだしていたいのだ。
すると何者かの唇が、今度は瞼に落とされた。
(……くすぐったいな~)
優しくいたわるようなキスは頬に流れ、その柔らかさを堪能するように、少し強く押し当てられた。
「ん……」
こそばゆくて、そしてどこかじれったくて、ぐずる赤子のように菫が頭を動かすと、故意か偶然か唇が触れ合った。
ドキリと自分の胸が高鳴った気がして、菫はかすかに瞼を開ける。
すると目の前に広がるのは、鏡に向き合っているのかと錯覚しそうなほど、そっくりな紫の色彩。
(……そうか、あの人か)
名前、なんて言ったっけ――? 外人の名前は覚えにくいな。
ジョンとかボブとかマイクなら馴染みがあるのにな、英語の教科書で。
そうだ、確か――
「ヴィ……、ヴィー……?」
――なんだっけ?
紫の瞳がかすかに細められる。どうやら苦笑されたようだ。
そして、目覚めの挨拶は済ませたとばかりに、彼が離れていこうとする気配を感じると、菫は急に心細くなった。
今この手を離したら、見知らぬ世界にたった一人で取り残されてしまうような、冷たい感覚。
温かな誰かの身体に触れていたい。
火に包まれた時のあの恐怖が一気に胸を締め付け、心細さと寂しさで菫の心はあがくように助けを求めていた。
とっさに腕を伸ばしてヴィオラントの首に縋ると、その行動が予想外だったのか彼はバランスを崩し、菫に覆いかぶさる形で再び唇が触れ合った。
怜悧さを感じさせる美貌とその無表情。だが外見の印象とは異なり、彼の唇はとても柔らかく温かかった。
思いがけず密着した大きな身体は逞しく、夢でも幻でもなく確かにそこにある。
今、彼だけが菫を焦燥と混乱と恐怖からすくい上げてくれるように思えた。
菫はヴィオラントの首に回した両腕に、ぎゅっと力を込めた。
「スミレ――?」
けれど、彼に触れていないところが血が通っていないようだ。
シーツから浮き上がった背中に、ひたひたと闇が忍び寄ってくるようで恐ろしい。
温めてほしかった。――ここに、菫が確かに存在していてもいいのだと証明してほしかった。
「キスしかしないの?」
「何を……」
「キスだけで終わりなの?」
サンプルはここまでになります
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